原点はハリウッドの歴史映画
「ギリシャ・ローマ編」は、講談社の月刊誌『少女クラブ』の1956年5月号から1957年12月号に連載された。
手塚は1953年1月号から56年1月号まで、同誌で少女マンガの代表作『リボンの騎士』を連載しており、連載の完結を受けて編集部から「『漫画少年』で連載して中断した『火の鳥』の続編を描いてはどうか」という打診を受けたのだった。
手塚は少年向けの作品をそのまま少女誌で連載するのは難しいと考えて、舞台を古代ヨーロッパに移して、スペクタクルと恋愛要素を多く盛り込んだ作品にすることを提案した。この時期の手塚は、55年12月に日本公開されたハワード・ホークス監督の『ピラミッド』や56年2月日本公開のロバート・ワイズ監督の『トロイのヘレン』といったハリウッドの歴史映画を立て続けに観て、マンガで同じようなものができないかと考えていたのだ。
手塚は民話をベースにした『つるの泉』を『少女クラブ』2月号から4月号に短期連載しながら構想を練り、5月号から『火の鳥・エジプト編』の連載をスタートさせた。
作品の冒頭に天国でのエピソードを加えたのは、『リボンの騎士』の冒頭エピソードと同じようにしてほしい、という編集部の意向によるものだろう。
火の鳥の設定も、母鳥が雛鳥の成長を見届けてから炎の中に消えていく、というものになっていて、なんども生まれ変わり姿を変えながら生き続けるという『COM』版以降とは違っている。
天国のエピソードで神様が「死ぬときになると 自分で火にやけて あたらしく生まれかわる」と説明していることを考えると、「死んで生まれ変わる」という設定が読者にはわかりにくい、と判断して連載途中で変更が加えられた可能性が高い。
松本零士や横山光輝が助っ人に
毎回カラー7ページ連載で、57年4月号「ギリシャ編」第6話は50ページの別冊付録だった。このときの手塚は出張先の九州の旅館で原稿を描き、『鉄腕アトム』の「ロボット爆弾の巻」の代筆などを手がけたマンガ家・内野純緒(「手塚治虫漫画全集」のあとがきでは澄緒になっている)のほかに、九州在住でまだ学生だった高井研一郎や松本零士たちも助っ人に駆り出されている。
もともと、連載は現代編まで続けるはずだったが、この頃から手塚のスケジュールは過密状態になって、連載を続けるのが難しくなっていた。しめきりに間に合わないために若手のマンガ家たちが助っ人や代筆に駆り出されることが多くなり、ローマ編の後半では上京してまもない横山光輝も助っ人を頼まれている。現在ならアシスタントの仕事だが、この時代は若いマンガ家が、編集部の用意した旅館に呼ばれてベテランを手伝ったのだ。
とうとう手塚も編集部も「ローマ編」での完結を決めざるをえなかった。
その後、本作は長らく読めない状態が続いて幻の作品とされていた。カラー版を単行本化するにはコストがかかるのがネックだった。単行本に収録されたのは、1978年に文民社の『手塚治虫作品集5 少女まんが集』が最初。1980年には講談社の「手塚治虫漫画全集」に『火の鳥 少女クラブ版』としてモノクロ版が収められた。
文民社の作品集は8000円で当時としては高価な限定版で、講談社の全集版はカラーページの一部をグレースケールにしたほかは、雑誌からハンドトレースした原稿が使われていた。このため手頃な価格でオリジナルを忠実に復刻したものが読みたい、という声がファンの間には高かった。
それが実現したのは、手塚の没後1年を過ぎた1990年4月20日だ。角川書店からこの文庫の親本になる単行本『火の鳥』12巻「ギリシャ・ローマ編」が出版されたのである。
『火の鳥』サーガの原点
後半の「黎明編[漫画少年版]」は、1954年7月号から、手塚の初期を代表する長編『ジャングル大帝』の完結を受けて、学童社の月刊誌『漫画少年』に連載されたものである。手塚が不死鳥をテーマにした作品を描くきっかけになったのは、戦後まもない1949年に日本公開されたソビエトの長編アニメ『せむしの仔馬』だった。ロシアの詩人ピョートル・パーヴロウィチ・エルショーフの童話をもとにしたアニメで、その中の仔馬と友達になったイワンが火の鳥を捕らえるエピソードが手塚の心をとらえていたのだ。
しかし『漫画少年』が休刊したため1955年5月号で中断。登場人物やエピソードの多くは『COM』版「黎明編」に引き継がれた。
ただ、『漫画少年』版執筆時点では、火の鳥と、火の鳥の血をのんで永遠の生命を得たナギとナミの兄妹が太古からの日本史をたどっていくという構想はできていたが、未来を描くことまでは考えられていなかった。人類の歴史を過去と未来から交互に描いていくという構想は『COM』版で生まれたものだ。
本作も長く幻の作品と呼ばれていたが、1977年に、『火の鳥』を連載していた朝日ソノラマの『マンガ少年』に前半部分の1〜4回を編集したものが掲載され、1978年には『週刊少年マガジン』に6〜8回を編集したものが掲載された。204ページのマンガはそのときに新たに描かれたものである。
完全な形での収録はやはりこの文庫の親本である単行本『火の鳥』12巻がはじめてだ。
書誌情報はこちら≫手塚治虫『火の鳥13 ギリシャ・ローマ編』
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