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レビュー

インド版ジャンヌ・ダルク!少女とビジネスマンが奔走する、社会派エンタメ大作『インドクリスタル 上下』

 なんと怪しくも、あやしい冒険小説であることか。
 単行本刊行時にこの『インドクリスタル』を読んだときの興奮は、余熱のようにいまも体に残っている。年末から読み始めて新年に読了し、〝いいお正月休みだった〟と満足の深い息を吐いたのまではよかったけれど、残りの十一カ月、これを凌ぐ興奮作に出会えるのだろうかと、途方に暮れたのも憶えている。
 そして今回再読し、またどっぷりと浸ってしまった。水晶の硬いきらめき、密林の濃い闇。やはり、本書の磁力と魔力はただごとじゃない。

 著者の他の作品でもみられるように、宗教にしろ遺伝子組み換え食品にしろ、篠田ワールドは綿密な下調べや知見の上に構築されているが、非リケジョの私にとって、本書の最初の磁力は水晶デバイスの世界だった。デジタルカメラやパソコンなど、身近な機器に使われている部品にもかかわらず、想像したことすらなかった水晶という鉱物が持つ神秘の世界。
 山梨にはかつて水晶鉱山があり、水晶の加工技術が発達したという。その技術で、宝石加工会社から精密機械部品メーカーへと大転身を遂げた「山峡ドルジェ」。私たちはあっという間に、その中小零細企業の開発現場へと連れて行かれる。
 宇宙開発や軍事の機器には、より高性能の水晶振動子が不可欠であること、その水晶振動子の原料となる人工水晶は、まず天然の水晶を核にして炉で作られること、天然水晶の質が次世代や次次世代に受け継がれてしまうため、高品質の天然水晶を用いなければ高品質の人工水晶も生まれないこと、などだ。
 惑星探査機に用いるため、特別に精度の高い水晶振動子の開発を依頼された山峡ドルジェは、消しゴムほどのサイズで残っていた世界各地の水晶で実験し、インド・クントゥーニ産の水晶を使った場合のみ、宇宙の環境にも耐えうる高品質の人工水晶の析出に成功する。
 悠久の時間をかけて地球のマグマが起こした変成を、小さな会社の実験炉で再現できるとは、なんてロマンがあるんだろう。ものづくり日本を象徴する話だと、わくわくする。
 すわ、インドへ! なんとしてでも製品化できるほどの量を手に入れなければ。でも、ン? クントゥーニってどこにあるんだ?
 こうして藤岡のビジネスアドベンチャーは始まる。

 山峡ドルジェの社長である藤岡は、MBAをもっているような小洒落こじゃれた社長ではない。ブラジルの奥地に寝袋をもって買い付けに行くようなガテン系ホワイトカラーだ。
 藤岡はこう言う。「スマートだが逆境に弱いエリートよりは、心身ともに丈夫で使いべりのしない男の方が良いという山梨県人らしい発想」で、「長女の娘婿として迎えられた」と。
 本書には二つの流れがある。一つは異文化という土俵で、なんとか四つ相撲に持ち込もうとする藤岡の奮闘たん、もう一つは、藤岡が見守るロサという少女の成長譚だ。
 いま見守ると書いたが、定額を振り込むと、異国の子どもたちの笑顔の写真が送られてくるというような、そんな足長おじさん的な話ではない。因習によって翼をもがれた女性と、そういう女性を気の毒に思う程度には文明化された男の、距離が縮まったり離れたりする軌跡である。これについては後述したい。
 本書のトップシーンには笑った。情報を集めてようやく辿り着いたクントゥーニの宝石店で、店主との腹の探り合いが始まる。最初に値段を言ったほうが負け、言わされそうになったら、興味なさそうな態度で、払ってもいいと思う金額の半分(ときには十分の一)から始める。ずいぶん昔に一度旅しただけだが、私の体験からしても、これがインドで最初に受けなければいけない通過儀礼だ。商習慣と呼ぶにはあまりにも悩ましいこのコミュニケーション術……。
 しかし、藤岡も腹に一物もっているのだから、おあいこだ。水晶は工芸品に加工すると偽っている。電子機器の原料にすると知れたら、争奪戦が起こって価格がつり上がる。インド政府がレアメタルのような戦略物資として位置付け、国家の管理下に置く挙にでたら元も子もない。
 鉱山会社の採掘権を買わないかと仲介役を買って出る抜け目ない宝石屋の主人。その夜、夜伽よとぎのためにホテルの部屋に送りこまれてくるチョコレート色の肌の少女。
 翌日藤岡は、鉱山視察の帰路に迷いこんだコドゥリ村で、先住民の男からまさに探し求めていた質の水晶をあがなう。これを機に、誘拐、死人、ジョイントベンチャー、NGO、スラムの若きリーダーなど、人も物も入り乱れて、藤岡のビジネス戦略は二転三転することになる。
 インドという大鍋おおなべの中で、支配民族と少数部族、富と貧困、理想と現実など、大いなる矛盾がぐつぐつ煮え立つ。初読時よりも今回、自分も同じ鍋で煮こまれていると強く感じたのは、現在の日本社会と照らし合わせずにいられなかったからかもしれない。
 そしてこのストーリーに絡みつく繁殖力の強いつるのように登場するのが、ロサという女性である。さきほど少し触れたチョコレート色の肌の少女、クントゥーニのホテルの藤岡の部屋に送りこまれてきた十代半ばの少女だ。
 ロサの容姿はこう描写される。「漆黒の肌に、目も口も鼻も異様なほどに大きい」「野性味の勝ちすぎた幅広くがっしりした輪郭」と。太ももに引きれたようなピンク色の傷痕がある。目に留めた藤岡が、陰惨な虐待を疑って上着を脱ぐように言うと、「中学ソフトボール部のエース」にも似た堂々たる裸身が現れ、性器を覆い隠す剛毛は黒々と猛々たけだけしい。
 私の頭にとっさに浮かんだのは、ゴーギャンがタヒチ時代に描いた絵『マンゴーを持つ女』と、同じ少女をうつぶせの全身ヌードで描いた『マナオ・トゥパパウ』(『死霊が見守る』)だった。モデルの少女はゴーギャンの現地の幼な妻で、彼女の野生の生命力は見る者の生のよろこびもかきたてる。
 では、ロサの野生美に圧倒された藤岡はどうしたか。藤岡はこんな男だ。「自分は普通の日本の男」で「さほど立派な人格も道徳心も備えていないが、最低限の人間のルールは心得ている」。大学生のひとり娘がいて、アジアの子供たちの人権問題に取り組み、マニラやコルカタなどのスラムで熱心にボランティア活動をしていて、「その志の高さに我が子ながら頭が下がる」。だから「親父として娘に顔向けできないようなことはすまい」と。
 藤岡はロサにパソコンの中に入れたこの町周辺の地図を見せたり、チェスをルールから教えたりして夜を明かす。最後のほうは何度やってもロサに勝てない。ロサは畏るべき記憶力と学習能力の持ち主だった。
 南インド生まれのロサがここインド中央部の東側に来るまで翻弄された数奇な運命と、この地でも落ちた忍従と屈辱の日々。彼女は閉じた世界で施される善意にもんでいた。そして、藤岡と出会ったことで、新世界への扉が開く。とはいえ藤岡に『ピグマリオン』(花売り娘をセレブな令嬢に生まれ変わらせる『マイ・フェア・レディ』の原作)のヒギンズ教授のような役が務まるわけもなく、インド駐在歴が長い旧友の徳永に預けたり、現地NGOの理解と支援を仰いだりと、結構他力本願なのだが、それでも藤岡はロサが初めて会った〝女を痛めつけない最初の男〟〝私をここから出してくれる異国からの使者〟だったに違いない。日本人として、藤岡のような男がいることを誇りに思う。女が一人の人間として生きていくのに、自尊心をずたずたにされるような困難を伴う現実があることに、暗澹あんたんたる気持ちになってしまうが。
 その後のロサの人生のひらけ方には目をみはるものがある。藤岡の危機を救う密林のジャンヌ・ダルクにもなる。

 具だくさんのジェットコースターだから、あっという間の時間に思えるけれど、実はこの『インドクリスタル』の中では十余年の時が流れる。人工水晶の作り方も変われば、藤岡の大学生だったひとり娘も就職して、志を曲げない頼もしいワーキングウーマンになっている。
 現実のインドに目を向ければ、インドはもうすぐ(早くて二〇二二年、大方の見方では二〇二四年頃)中国を抜いて人口で世界一の国に、辺境にまだカーストの影を残しながら、世界で最大の民主主義国家になる。
 再読に堪えるエンターテインメントというのは、そう多くない。例えばミステリーを褒めるとき、アクロバティックなオチが強烈すぎて〝再読に堪えない傑作〟という言い方もあるくらいだ。しかし、本書は再読するにふさわしい数少ない例だと断言できる。水晶玉を覗きこむ占い師のごとく、読む者が蓄えた知識や価値観によって、水晶に映る世界の読み解き方が変化すると思うからだ。
 歴史、政治、経済、宗教、民族、因習。宇宙開発に資源戦争、性暴力に人権意識。パターナリズムもあれば、アナーキズムやテロリズムも吹き荒れる。
 世界の実相を捉えてインドという風土に凝縮させたこの『インドクリスタル』のオープンエンドのラストに、あなたはなにを思うだろうか。
 インドの父ガンジーはこういう意味のことを言った。私の愛国心は人類愛と同じものである、と。理不尽な力の行使がますます激しくなっているこの世界で、〝ちっぽけだけれど自分にもできること〟を手放さない藤岡のヴォイスには、篠田節子自身の祈りと希望がこめられている。


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