最高到達点『八月の母』に至るまで、早見和真デビューから14年の軌跡を辿る。
吉田伸子(書評家)
「ちょっとこの作品を読んでもらえませんか?」
知り合いの編集者から送られてきたゲラ。それが、早見和真さんのデビュー作『ひゃくはち』だった。長い付き合いで、私の小説の好みも知っているし、何より編集者としての彼の“目”を信頼していたこともあり、二つ返事で引き受けて読んだ。読後すぐに、粗さはあるものの、すごく好みの物語だった、という趣旨のことを、当時流行っていたSNSであるmixiの日記に書いたことを覚えている。
ほどなく『ひゃくはち』は出版され、早見さんは作家としての道を歩み始める。2008年のことなので、あれからもう14年も経つのか、と思う。
『ひゃくはち』以降、早見さんは着実に作家としてのキャリアを重ねていく。10年には『スリーピング★ブッダ』、11年には『砂上のファンファーレ』(のちに『ぼくたちの家族』に改題)、12年には『東京ドーン』と『6 シックス』、13年に『ポンチョに夜明けの風はらませて』と続き、14年に出た『イノセント・デイズ』では、日本推理作家協会賞を受賞する。同作は、第28回山本周五郎賞の候補作にもなった。
その後も、15年『95』、16年『小説王』、とコンスタントに作品を発表し続け、19年『店長がバカすぎて』が第17回本屋大賞の候補作となり、『ザ・ロイヤルファミリー』は第33回山本周五郎賞を受賞した。
そして、今年。2022年は間違いなく作家・早見和真の勝負年だ。何故なら、現時点での彼の、一つの到達点ともいえる『八月の母』が刊行されるからだ。その到達点に至るまでの、早見さんの作家としての軌跡を、追っていきたい。
軌跡その1 『ひゃくはち』(集英社文庫)
一人の作家を語る上で、その作家のデビュー作は外せない。神奈川県、野球の強豪校であり、高い進学実績を誇る私立校、が本書の過去パートの舞台なのだが、それは、早見さんの母校にも重なる。あれは、日本推理作家協会賞の贈呈式パーティの挨拶での言葉だったか、二次会の席での言葉だったのか、そこは記憶が曖昧なのだけど、早見さんは言ったのだ。「野球選手になるつもりでいました」と。
早見さんが語ったのは、幼い頃の夢、ではない。かつて、甲子園の常連校の野球部に在籍していた人間としての言葉だ。事実、早見さんの野球部の二年先輩には、元読売巨人軍の高橋由伸氏がいる。野球選手、というのは、早見さんにとって、遠い日の花火ではなく、手が届く可能性が高かったリアルだったのだ。これから『ひゃくはち』を読む人には、そのことを頭のどこかに置いておいて欲しい。
物語は、主人公の
ただひたすらに練習を重ね、甲子園を目指す、野球と人生がイコールだった日々。雅人は補欠仲間である親友のノブと、時に愚痴を言い合い、時に励まし合い、そして時にはハメも外す、という日々を送っていた。逃げ出したくなる夜も、朝も、甲子園という目標に向かって、何度も立ち上がってきた雅人と仲間たち。けれど、ここぞ、という時にある事件が起こってしまう。
ここから先は、ぜひ、実際に本書を読んで欲しい。もちろん、本書はあくまでもフィクションなので、早見さんは雅人ではない。けれど、雅人が白球を追いかけて過ごした、あのぎらぎらとした夏の日は、早見さんが過ごした夏でもあるのだ。
軌跡その2 『イノセント・デイズ』 (新潮文庫)
死刑を執行された一人の女・
幸乃の死刑判決の前と後、二部構成で描かれているのは、当事者間における「真実」と、周囲の憶測で象られていく「事実」の食い違いだ。その食い違いに、読み進めていくうちに、胸が苦しくなる。「真実」ではなく、「事実」を受け入れ罰を受ける、という幸乃の選択。彼女のその選択、その絶望の深さに、読み終えた後も、口の中には苦いものが残る。
けれど、その苦味こそが、本書が読み手に残したかったものだ。私たちの“正義感”の、綺麗な薄っぺらさ。それが、苦味の正体である。
軌跡その3 『店長がバカすぎて』(ハルキ文庫)
第17回本屋大賞候補作であり、最終的に9位となった作品だ。正直に告白しますが、私、最初は、ぐむむむぅ、となったのです。本屋大賞の候補作シフトと思われかねないじゃない! と。だって、書店員が主人公で、このタイトルですよ。というわけで、微妙にモヤりながら読み始めた。
結論から言いますが、そのモヤりは私の下衆な勘繰りでした。というか、もう、候補作シフトだとしても、これだけ面白ければいいじゃないの! ここまでコメディが書けたのだから、早見さんのキャリアとしてもプラスだし。結果、候補作となり、ベストテン入りを果たし、それが売り上げにも繋がっているのはすごいことなのだ。
主人公の書店員・
ちなみに、2022年2月現在、YouTubeには、早見さんと、お笑い芸人であるニューヨークの屋敷さんの対談(必見! 必聴!)があるのだが、そこで、早見さんは、本書のベースにあるのは、「浴びるように読んだ
軌跡その4 『ザ・ロイヤルファミリー』(新潮社)
タイトルだけ見ると、やんごとなき一族のお話かと思われるかもしれないが、本書は、2019年度JRA賞馬事文化賞受賞作であることからもわかるように、競馬小説、である。いや、正確には、競馬小説「でも」ある。
大手税理士事務所に勤務する
そして、第二部。山王と愛人の間に生まれた
軌跡その5 『笑うマトリョーシカ』(文藝春秋)
早見さんの物語のなかで、読み終えた時に初めて「怖い」と思った一冊。
物語の真ん中にいるのは、ある国会議員の非嫡出子である
この物語のどこに怖さを感じたのか、といえば、
それにしても、一郎の母親を始め、強烈な女性たちが登場してはいるものの、ここまでがっつり男と男を描いた作品は、早見さんの中では本書が初めてではないだろうか。そして、その緻密さと迫力において、私は本書が直木賞候補になるのでは、と密かに思っていたことを、ここに記しておく。
軌跡その6 勝負作『八月の母』(KADOKAWA)
終盤、ほとんど息を止めるように読んでしまった。読む者をそれほどまでに引き込んでしまうのだ。
タイトルには「母」とあるけれど、これは三代にわたる「母たち」の物語である。プロローグは、第二子を妊娠中の母親が登場する。五年前、長男の出産時、新生児の甘い匂いの奥に、かすかに血の匂いを感じた彼女は、気がついてしまう。「八月は母の匂いがする」「八月は血の匂いがする」と。
プロローグから一転、「伊予市にて」というタイトルの第一部は、エリカとその母親・
美智子の物語同様、エリカの物語も苦しく、切ない。自分の母親にされたことを、美智子はエリカにしてしまうし、エリカはエリカで、美智子からは決して与えてもらえなかった「家族」を、なんとかつくり上げようともがく。けれど、もがきすぎた結果に生まれたのは、
プロローグに登場する身重の女性は誰なのか、は第一部の終盤まで明かされない。けれど、彼女の正体が明らかになった時、私たち読者の耳には、ある種の鎖が断ち切れる音が響く。
「『イノセント・デイズ』を今一度書く。そして“超える”がテーマでした」という早見さんの言葉に嘘はない。『イノセント・デイズ』がなければ、『八月の母』はなかっただろう。ただ、ざらりとした苦味を残す『イノセント・デイズ』のような読後感は、本書にはない。そこにあるのは、小さな、けれど強い光を放つ「希望」なのだ。それが14年の歳月を経て、早見さんが辿り着いたものなのだ、と思う。
最後に余談を。前述のYouTubeで、早見さんはこんなことも話している。「僕は自分の偽物性みたいなものに対する揺らぎがない。だから小賢しくこの業界に居続けなきゃいけない」
この言葉は、『ひゃくはち』の項で書いた「野球選手になるつもりでいました」という言葉と合わせて、初めて作家・早見和真の言葉になると思う。「無我夢中でプロ野球選手に張る仕事に本当に就けたので、これもう守りにいかなきゃいけないんですよ」と早見さんは話しているけれど、本書を読むと、「攻撃は最大の防御」という孫子の言葉が浮かぶ。早見さん、これからも、じゃんじゃん攻めてください! ご武運を!
▼早見和真『八月の母』特設ページはこちら
https://kadobun.jp/special/hayami-kazumasa/hachigatsu/
早見和真『八月の母』試し読み
八月は母の匂いがする。八月は、血の匂いがする。 ――早見和真『八月の母』試し読み
https://kadobun.jp/trial/hachigatunohaha/cjubhr00vfso.html
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「主人公が最後に取った選択に共感したし、鳥肌が立ちました。まさに、傑作だと思う」 『八月の母』刊行記念対談【辻村深月×早見和真】
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ラストに現れるヒロインの、その強い覚悟と意思の力に、私たちは元気づけられる。―― 早見和真『八月の母』レビュー【評者:北上次郎(書評家)】
https://kadobun.jp/reviews/entry-45365.html
「『イノセント・デイズ』を超えるものを書きたい」早見和真新連載「八月の母」開始スペシャルインタビュー
https://kadobun.jp/feature/interview/80pqq3dnnhwc.html