8月24日に発売された『聖女ヴィクトリアの考察 アウレスタ神殿物語』。
“霊が視える”聖女と、皇子疑惑が持ち上がった辺境の騎士が、帝位継承権をめぐる王宮の謎を解き明かすファンタジーです。
「ファンタジー世界ならではの謎解き」が評価され、第6回角川文庫キャラクター小説大賞〈奨励賞〉受賞に至りました。
ファンタジー好き、ミステリ好きの期待に応える注目作、特別に試し読みをお届けします!
『聖女ヴィクトリアの考察』試し読み#5
房の隅に視線を向ける。そこには、膝を抱えて冷気を発する霊が一人。
一度も意思の疎通に成功していないが、これでも三日を共に過ごした仲である。冤罪でこの房に投げ入れられたという境遇にも、共感を覚えずにはいられない。時間はないけれど、彼女をこのままにはしておけなかった。
「ねえあなた。ここにいても寒いだけですよ。扉も開いたことですし、外に出たらどうですか」
『いや……。寒いのはもうごめんよ。いっそ死んでしまえば、楽になれるのに』
いやもう死んでいますよ。そう言いたいのを堪えながら、私はぶつぶつと嘆き続ける亡霊を見下ろす。
霊とは大概こういうものだ。彼らに生きた人間ほどの思考力はなく、生前の感情に強く支配された言動ばかりを繰り返す。ただ優しく語りかけても、反応を示す者などほとんどいない。
彼らは言わば、魂の
……だけど。
「そこ! 扉! 開いていますよ!」
呼びかけが伝わるよう、慣れない大声を張り上げる。ついでに身振り手振りを加えると、初めて霊は顔を上げた。
「ここにいても寒いだけです! ほら、あっち!」
『……』
霊は虚ろな瞳で私を見つめ、次に扉へと顔を向ける。彼女の瞳に開け放たれた扉を映すことができて、とりあえず私はほっと息をついた。
「私はここを出ます。あなたもこんな場所に縛られていないで、別の場所に行ってみてはどうですか。ここだけの話、神殿の幹部会議室はいつも暖かいのでお勧めですよ」
『……』
私の言葉に、霊は何も返さない。結局彼女は視線を天井へと戻し、ぼうっと宙を眺めるのだった。
伝わったのかは分からない。だが、できることはした。これ以上の干渉は必要あるまい。
「もしかして、そこに霊がいるのか」
アドラスさんは興味津々な様子で目を見開く。私が「はい」とうなずけば、彼は小さく感嘆した。
「すごいな。俺には、聖女殿が壁に話しかけているようにしか見えなかったぞ」
失礼な発言に聞こえるけれど、どうやら本気で感心してくれているらしい。事実、彼の瞳は少年のように輝いていた。
「これは期待できるな。さあ、行こう」
懲罰房からようやく出ると、塔の下からこちらへ迫る、複数の足音が聞こえた。
かなり近い。螺旋階段の吹き抜けから下を覗き込むと、段を駆け上がる神殿兵たちの影が見える。
「もうそこまで……。ごめんなさい、時間を取り過ぎました」
「どうせ出口までは一本道だ。遅かれ早かれ彼らとは遭遇することになっていたさ」
確かにそうだけど。
アドラスさんは特に焦る様子もなく、ずんずんと階段を下っていく。
「どこかに隠れてやり過ごしますか」
「必要ない。俺の
つまり逃げも隠れもしないということらしい。
このままだと袋の鼠になるのでは、と不安を抱きつつ彼の背中についていく。すると程なくして、殺気立った兵たちと互いに姿を認め合うことになった。
兵たちは警戒をにじませながら、私たちの進路を塞ぐように横へと広がる。
「そこの男、止まれ! 神聖なるアウレスタに土足で踏み入り、聖女を連れ出そうとするとは何事か。今すぐ武装を解除し投降せよ!」
「聖女ヴィクトリア、懲罰房にお戻りください。聖女ともあろうお方が、罰の半ばで逃げ出すなど許されませんぞ!」
「よし、突破するぞ。失礼」
アドラスさんは兵たちの警告を聞き流して、私に呼びかける。かと思えば唐突に、私の体を両手で抱え上げた。
「え──」
「少し揺れるぞ」
何をするのか、とこちらが問いかける暇もなく、アドラスさんは前方に向かって走りだす。
足を止めるどころか一気に間合いを詰めようとする侵入者に兵たちは
「警告はしたぞ! 止まらぬなら──」
兵士の警告は、アドラスさんの蹴りによって中断された。
腹に重い一撃を食らった兵は、「ぐぅ」と切なげな声を発しながら、階段の踊り場へと転げ落ちる。虚をつかれた他の兵たちは一拍遅れて剣を振りかざすが、アドラスさんは迫る刃を何気ない動作で躱し、足で払い、易々と包囲を抜け出してしまう。
私が瞬きする間にも、彼は軽やかな足取りで螺旋階段を跳躍して、いとも簡単に武装した兵士たちの壁を突破したのだった。
「ま、待て! 待たんか!」
背後から兵士たちの声が響く。もちろんアドラスさんは待たない。滑るように段差を下り、風を切って、最後にひょい、と吹き抜けを飛び降りると、彼はとうとう出口に
「すごい」
小猿のようにアドラスさんにしがみつきながら、こっそり嘆息する。
神殿の兵たちは、一国の正規軍に劣らぬ修練を積んだ人ばかりのはず。しかし、アドラスさんはまるでものが違った。
私を抱えたまま見せた軽やかな身のこなしも、剣の流れを読み取る動体視力も、全てが常人離れしている。何より、動きに迷いがない。兵や私が戸惑い一呼吸する一瞬の間に、彼は次の行動を開始していたのだ。
「入り口から入って、歩いて
「供を待たせてある。このまま神殿の外まで向かうぞ」
私をそっと地面に下ろしながら、アドラスさんが言う。うなずいて、私は塔の外へと足を踏み出すのだった。
通り雨が抜けたあとなのだろうか。久しぶりの外は、湿った土の匂いがした。
既に夜空は晴れ上がり、月が濡れた町を皓々と照らしている。
塔を抜け出しアドラスさんが向かったのは、神殿近くの広場だった。
この場所は一般向けに広く開放されており、夜は宿を取り損ねて野宿する巡礼者たちで、いつも賑わっている。今もあちこちに天幕が張られていて、その隙間からいくつかの寝息が聞こえてきた。
アドラスさんは何かを探すように視線を動かす。そして広場端の木に繫がれた馬を見つけると、そちらへ足早に向かった。
「リコ!」と彼が呼びかけると、木々の合間から小さな人影がぴょこっと顔を出す。
巻き毛の利発そうな男の子だった。歳は十二、三歳くらいだろうか。背丈は私よりもやや低く、顔立ちはまだ幼い。
彼はアドラスさんの姿を認めると、眉をきりきりと吊り上げた。
「アドラス様、どこに行っていたんですか! いきなりいなくなるから心配したじゃないですか。てっきり、また襲われたか捕まったのかと──」
少年は摑みかからん勢いでアドラスさんに詰め寄ろうとしたが、私に気づくとはたと足を止めた。彼の大きな瞳が、訝るように細められる。
「……誰ですか、それ」
「リコ、失礼だぞ。こちらは八聖女の一人、物見の聖女ヴィクトリア殿だ」
「えっ」
少年は目を見開いてその場に凍りつく。言葉を失う彼に、私は深々と頭を下げた。
「ヴィクトリア・マルカムです。どうぞよろしくお願いします」
「あ……えっと。僕はリコです。アドラス様の従士をしています」
ぎこちない動きで、リコ少年もお辞儀を返す。それから彼は、困惑の表情で主人を見上げた。
「どういうことですか。先日は『神殿は好きになれない』と怒っていたのに。結局、協力してもらえることになったんですか?」
「色々あってな。物見の聖女の力を借りるため、彼女を誘拐することになった」
「はあ!? 誘拐!?」
リコくんの叫びが広場にこだまする。いくつかの天幕から人が顔を出して、
「こら、リコ。あまり大声を出すな」
「だ、だって。どうして……」
リコくんは混乱を
「説明は後だ。もたもたしていると追手がくるぞ。荷を
追及不要とばかりにアドラスさんは馬装を始める。リコくんはもの言いたげにアドラスさんの背中を見つめるが、結局は諸々を押し殺したような表情で、荷の用意を始めるのだった。
邪魔にならぬよう脇に寄りながら、二人の様子を観察する。
アドラスさん同様、リコくんの衣服も長旅を経たあとのように擦り切れていた。そのわりに荷物は少量で、あっという間に彼の荷支度は済んでしまう。
このアウレスタから帝国領までは、馬で駆けて四、五日ほどの距離しかない。馴らした魔獣を使えば、もっと短く二日半だ。確かに大掛かりな旅支度は必要ないが、どうして彼らの衣服はこんなにくたびれているのだろう。
いや、そもそも彼らは帝国領からここに来たのだろうか。アドラスさんは帝国の騎士だと言っていたが、だからといって出発点が帝国であるとは限らない。今から向かう先が帝国だという保証もない。
……本当に、何も聞かずについてきてしまったものだ。
「馬には乗れるか」
「はい、少しは」
アドラスさんの問いにうなずき返す。馬は得意ではないが、乗れないことはない。
「この通り、二頭しかいないからな。しばらく俺と二人で我慢してもらうぞ」
「聖女様と二人乗りなんて、不敬じゃないですか」
「ではお前が俺と乗るか。俺はそれでも構わんぞ」
アドラスさんが暴論を振りかざせば、リコくんは何も言わなくなる。
不服そうな従者の頭をぽんと叩くと、アドラスさんは馬に
「さあ行こう、聖女殿」
「マルカムが逃げた、だと」
「……はい。申し訳、ございません」
主席聖女執務室にて。ミアは唇を嚙み締めながら、頭を下げた。
オルタナは表情こそ動かさないものの、彼女が全身から発する空気は、刃のように鋭く冷たい。
しかしミアの胸の内は、屈辱で焦げつきそうなほど熱かった。
神殿内の警備統括はミアの仕事だった。警備の配置と人事は、近頃彼女の手によって再編成されたばかり。それなのに、二度も同じ部外者に警備を突破された挙句、ヴィクトリアの逃亡を許す羽目となってしまった。
オルタナの配下となってこの地位を勝ち取ったばかりなのに、どうしてこんな無様な事態になってしまったのか。
──それもこれも、全てヴィクトリアのせいよ。
心の中で吐き捨てて、ミアは忌々しげに
ヴィクトリアはその昔、陰気で鈍臭い子供だった。他の子供たちが遊びや勉学に夢中になっているあいだ、彼女はいつもぼけっと突っ立って、何もない部屋の角を見つめていたものだ。当然ながら周囲からは気味悪がられ、扱いに困った大人たちは、彼女の世話を優等生のミアによく押しつけた。
その度に、どれだけ煩わしい思いをしたことか。
だが、気づけばヴィクトリアはミアを差し置き主席聖女の付き人に選ばれていて。ついには十七という若さで、聖女の座まで手に入れてしまった。
許せない、と思った。何が「物見の聖女は真実を見通す」だ。
蟻の行列を眺めて一日を使い
だから間違いを正してやろうと、ここまで尽力したのに。あともう少しというところで、ヴィクトリアは裁きの手から逃れ、ミアの足を最悪な形で引っ張るのだった。
「追跡は私にお任せください。部隊の編成は既に済んでおります。計画的な脱走とは思えませんし、捕縛にそう時間はかからないでしょう。あのアドラスという男も必ず──」
「必要ない。放っておけ」
必死に並べた提案があっさりと却下され、ミアは続きの言葉を失った。
追う必要がないとはどういうことか。懲罰房から抜け出して、どこの馬の骨とも知れぬ男と逃げるなど、
そんなミアの考えに応えるように、オルタナは首を振った。
「現状はむしろ我々に好都合だ。あれが逃げるなら、好きにさせた方がいい」
「好都合、とは」
「マルカムの聖女位剝奪は、半数以上の上級神官から同意を得て決議された。しかし未だに聖女ジオーラの言葉を盲信し、
「ですが、もし彼女を取り逃がしてしまったら」
「問題ない」
きっぱりとオルタナは言い切る。
「あの者たちの目的と行き先は把握している。だから今は泳がせておけ。聖女位剝奪の儀を終えていない以上、いずれ処理する必要はあるが」
処理、という言葉にミアはひやりとしたものを感じた。
聖女の位は、書面や口頭でやり取りできるものではない。一人を罷免するのにも、神殿幹部の承認を得て、しかるべき祭儀を執り行うか──もしくは、対象者の死亡を確認する必要がある。
オルタナの言う処理とは、一体どちらのことなのか。
「マルカムとあの騎士は、帝国領へ向かっているはずだ。帝国には何人か知己がいる。いつでも手を回せるよう私から連絡を入れておこう。……それもあの男と共にいるなら、必要なくなるかもしれないが」
「承知、いたしました」
煮え切らない思いを抱えたまま、しかしそれ以上オルタナに問いかけることもできず、ミアは深くうなずいた。もとより、彼女には首を横に振れるだけの権利も力も存在しないのだ。
オルタナはしばらく腕を組んでいたが、やがてこの話題に興味が失せたらしい。ミアなどはじめからいなかったかのように、手元の書類に目を落とし始めた。
黙ってもう一度礼をして、ミアは執務室を出る。そして扉を慎重に閉じたところで、肺腑の空気を一気に吐き出した。
オルタナの配下となって、もう一年が経つ。
彼女の一派は有能揃いで有名で、仕事はできて当たり前。普通の頑張りなど評価の対象にもならない。だからミアはあらゆる仕事を引き受け、全てを完璧にこなし、ただの一神官として埋もれぬよう努めてきた。
だが、まだ足りない。ミアはオルタナの眼中にすら入れてもらえない。
今だって、言いたい言葉が言えなかった。ミアの胸中で
……おそらくオルタナは、ヴィクトリアごときに何もできぬと踏んでいるのだろう。だからこそ、この状況で放置を選んだ。
その考えは正しい。だが、甘くもある。
確かにヴィクトリアは何もできない。あんな無能に、成せることなどあるはずがない。
しかしいつだって、事件は彼女の周りで起きるのだ。
(続きは本書でお楽しみください)
『聖女ヴィクトリアの考察 アウレスタ神殿物語』著者 春間 タツキ(角川文庫)
聖女ヴィクトリアの考察 アウレスタ神殿物語
著者 春間 タツキ
定価: 704円(本体640円+税)
王宮の謎を聖女が解き明かす!大注目の謎解きファンタジー。
霊が視える少女ヴィクトリアは、平和を司る〈アウレスタ神殿〉の聖女のひとり。しかし能力を疑われ、追放を言い渡される。そんな彼女の前に現れたのは、辺境の騎士アドラス。「俺が“皇子ではない”ことを君の力で証明してほしい」この奇妙な依頼から、ヴィクトリアはアドラスと共に彼の故郷へ向かい、出生の秘密を調べ始めるが、それは陰謀の絡む帝位継承争いの幕開けだった。皇帝妃が遺した手紙、20年前に殺された皇子――王宮の謎を聖女が解き明かすファンタジー!
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