冲方丁さん、辻村深月さん、森見登美彦さんの三人の選考委員が絶賛し、圧倒的な高評価で野性時代フロンティア文学賞を受賞した『永遠についての証明』。ご好評につき、以前実施した試し読みのつづきを3日に渡ってお送りします。
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(承前)
瞭司は教えられた宛先に長大な手紙を書き送った。計算用紙五十枚に綴られたのは、ムーンシャイン予想に対する別解だった。
ムーンシャイン予想は、群論と数論という一見異なる分野に架けられた橋のようなものだ。数学者たちが〈moonshine=狂気〉と言い表しただけあって、その奇妙な関係性は彼らの好奇心をそそった。予想はすでに証明されていたが、瞭司は新たにトポロジーと呼ばれる別手法での証明を編み出した。
瞭司は図書館で読んだ数学雑誌で、この予想と遭遇した。すぐに証明の掲載された論文を探し、そのアクロバティックな解法を楽しんだ。
証明を読み終わり、ふと誌面から目を上げた瞬間、もうひとつ解法があることに気付いた。
よく使われる喩えとして、トポロジーの世界では、ドーナツとコーヒーカップが〈穴のひとつ開いたもの〉という同値であるとして扱われる。瞭司の頭のなかでいくつもの幾何模様が姿形を変え、ある時ぴたりと一致した。思いつくまま計算用紙の上でペンを走らせ、何日かかったのか定かでないが、ある日唐突に証明はゴールに到達した。穴もいくつかあったが、あまり気にしなかった。
その証明を眺めてしばし達成感を味わい、勉強机の引き出しへ無造作にしまった。それは瞭司にとっては日常的な出来事だった。
小沼にムーンシャインの別解を書き送ったのは、それがたまたま検討済みの紙束の一番上にあったからだ。数学者に手紙を書くのならば、何らかの数学的知見を提供しなければ失礼にあたると思った。それが第一級の数学者しか理解できない内容であるとは考えもしないまま、瞭司は分厚い封筒を投函した。
小沼からの返信は一週間もしないうちに届いた。便箋一枚きりの手紙には、小沼の焦りを表すようにつんのめった文字が綴られていた。証明に対するいくつかのアドバイス。加えて、近日中にそちらへ訪問するから、ぜひ会ってほしい、とも書かれている。短い文面には動揺がにじんでいた。
約束通り、小沼は東京から四国までやってきた。JRのターミナル駅に現れた小沼は、例の教師と同じ年齢ながらいくらか若く見えた。麻のジャケットに細身のコットンパンツをはき、首元にはニットタイを締めていた。浮世離れした仙人のような人物を想像していた瞭司には意外な風貌だった。社交的で良識のある大人という感じがする。
自動改札の前で待っていた瞭司に近づくと、小沼はほほえみかけた。
「はじめまして。小沼です」
周囲には他にも人待ち顔の少年がいた。しかし初対面にもかかわらず、小沼は迷いなく瞭司に近づいてきた。
「僕のこと知ってたんですか」
「いいや。でも、何となくきみだとわかった」
不思議な人だ。しかし瞭司にとっては居心地のよい不思議さだった。
ふたりは連れ立って、駅前のカフェに入った。個人経営の狭い店は半分ほど席が埋まっている。奥まったソファ席に落ち着くなり、小沼が切り出した。
「感動したよ」
ムーンシャイン予想のことだとすぐにわかった。
「高校生があの問題を正確に理解しているだけでもすごいことなのに……不完全ではあるけれど、それでもあれは大学の研究者がやるような仕事だ。三ツ矢君がひとりで考えたの」
「はあ、まあ」
「今は何をやってるの」
「いろいろ。ムーンシャインの一般化とか」
「へえ! 進捗は?」
ふたりは注文したコーヒーを飲むのも忘れて会話に夢中になった。小沼と話していると、瞭司は自然にふるまうことができた。ありのままの自分でいても疎まれず、拒絶されない。日頃無意識に抑えつけている感覚を、包み隠さず差し出すことができた。瞭司の言葉が素直に届く初めての相手だった。そんな相手はこの世にひとりもいないと思っていたのに、今、確かに目の前にいる。話せば話すほど気分はたかぶった。
会話は三時間あまりも続いた。さすがに話し疲れたあたりで、次の予定があるから、と小沼は席を立った。名残り惜しかったが、引き止めるほどの勇気は瞭司にはない。会計を済ませながら小沼がさりげなく口にした。
「うちの大学に来ないか」
協和大学の名前には瞭司も聞き覚えがあった。理学部の有名な名門私立大学。存在は知っていても、故郷を離れて大学に通うことなど、一度も考えたことがなかった。
「高校在学中に一本、論文を投稿すれば特別推薦で入学できるだろう。まずは別解の証明をきっちりと完成させよう。進捗があったら、また連絡してほしい」
瞭司が戸惑っている間に、小沼は風のように去ってしまった。
上京など想像もしていなかったが、あの小沼という教授は信頼できそうだ。瞭司の言葉を理解してくれる数少ない人間だし、何より瞭司のことを拒絶しない。
論文。特別推薦。今までの生活には無縁だった言葉が、急に現実味を帯びてきた。
その日からムーンシャインの別解に集中した。どうすれば論文を書けるのかもわからないまま、証明の穴を埋めるため、がむしゃらにペンを走らせた。検討の経緯を記した紙束が溜まると、まとめて小沼に送った。戻ってきたアドバイスを参考にふたたびペンを走らせる。その繰り返しが一年ほども続いた。
もう孤独ではなかった。自分には対等に話すことができる人がいる。そう思うだけで、黒い雲が割れて視界が開けるようだった。劣等感に襲われることもなくなった。
次第に論文は形になり、いつの間にか瞭司は故郷を発っていた。あの広大な森から遠く離れた場所で、仲間とともに思う存分数学に打ちこむ日々を手に入れた。
不思議なのは、どれだけ深みに入りこんでも、いまだにあの森の美しさを表現する言葉が見つからないことだった。
居室の前を通りかかると、田中に呼びとめられた。
「よっ、二十一世紀のガロア!」
瞭司は最初それが自分のことだとわからず通り過ぎようとした。田中があわてて居室から飛び出してくる。
「お前だよ、お前。ガロア君」
「はい?」
田中の後ろから木下がのっそりと現れた。手には新聞を持っている。
「これ。この間、教授室でインタビュー受けてただろ」
渡された紙面には瞭司と小沼のツーショット写真が掲載されていた。Tシャツを着て口を半開きにしている瞭司は、とても二十歳に見えないほど幼い。写真の横には先日のインタビューで答えた内容が記されている。大半が小沼のコメントだ。話すのが苦手な瞭司に代わって、質問にはほとんど小沼が応対してくれた。
田中が記事の一節を指さす。
「ここ見てみろ。群論において次々と画期的な成果を生み出す姿は、まさに〈二十一世紀のガロア〉と呼ぶにふさわしい……ほらな」
インタビューを受けたのは三度目だった。それまでの二件は学会誌と数学専門誌だったから、まだ混み入った話もできた。しかし全国紙の記者は群論やモジュラー関数にはさして興味を示さず、瞭司のエピソードを集めることに腐心していた。宴会中も数学のことを考えていると話せば、やっぱり天才は違うんですねえ、と記者はことさら興味深そうに応じる。不快感を思い出して瞭司は鼻を鳴らした。
「そうですか」
「それだけかよ、反応。お前さ、やったことのすごさをもっと自覚したほうがいいぞ」
「僕ひとりで解決したわけじゃないですから」
「だとしても、メインで仕事したのは三ツ矢だろ。もっと誇りに思えよ」
木下が口を挟む。「先生、呼んでたぞ。教授室にいるから」
まだ絡みたりない様子の田中を置いて、瞭司は教授室に向かった。ちょうど室内から出てきた小沼と鉢合わせする。
「おお、いたいた。ちょっと今から一緒に来てくれるか」
「どこに行くんですか」
「学部長のところ」
急かされるまま、瞭司は学部長のもとへ向かった。
理学部長は物理学科の教授が務めている。物理学科には専門書を借りるために何度か訪れたことがあったが、学部長と会うのは初めてだ。早足で歩く小沼の横顔に尋ねる。
「何の用事ですか」
「さっき急に呼び出された。だいたい察しはついてるけどな」
学部長の居室に到着すると、小沼は呼吸を整え、ノックしてからドアを開いた。
恰幅のいい男性が正面に座っていた。小沼よりふた回りほど年長に見える。
「小沼先生か。そっちが三ツ矢君? 悪いね急に。そこに掛けて」
頭はきれいに禿げ、口を開閉するたびに白い顎ひげが上下に動く。小沼と瞭司は学部長と対面する形でソファに腰をおろした。
「さっき教授会があってね。今回は議題も議題だけにめずらしく出席率もよくて、学部長としてもこれだけ興味があるんだ、というね。感慨深いものがあった」
長々と前置きを話した後で、学部長は瞭司のほうに身を乗り出した。押入れの奥に長年しまっておいた礼服のような、こもった匂いが鼻先に漂った。
「きみは特別推薦生だったね」
「はい」
「特別推薦は才能のある学生を確保するための制度だ。ただ、なかなかうまくいかないものでね。高校まで輝かしい経歴を持っている学生でも、大学に入ると期待外れのことがよくあるんだよ。はっきり言えばほとんどがそうだ。しかし三ツ矢君は素晴らしい。大学二年ですでに論文が二本。しかも学会へのインパクトも大きい。最近はよくマスコミも来ているし。実は学長や副学長も、君には興味を持っているんだよ」
瞭司は横目で小沼をうかがった。身を固くして黙っている。
「そこで提案したいことがふたつ。きみには優秀学生として学長賞を授与したいということ。そしてもうひとつ。二年早いが、飛び級での卒業を認める」
飛び級卒業。そんな制度が協和大学にあるとは知らなかった。学部長はおもむろに一枚の書類を応接テーブルに載せた。何かの会議の議事録だった。
「海外では普通のことだが、日本の大学ではあまり例がない。三ツ矢君にはぜひ、協和大の飛び級卒業第一号になってほしいんだ。ただし協和大学の大学院に進学すること。それさえ守ってくれれば、二年での卒業を認めようということで学長も合意している。後は三ツ矢君の気持ち次第だ」
学部長の話す言葉は、瞭司の鼓膜の上っ面を滑るばかりだった。どうしてこっちが希望もしていないのに、飛び級卒業を許可されなければならないのか。心を占めるのは戸惑いばかりだった。
「困ります」
気づけば、瞭司は答えていた。
「僕の実家はそんなにお金がありません。だから、学費免除がなくなるのは困ります」
禿頭をなでながら、学部長は口の端をつりあげた。
「博士号を取得するまで学費免除は継続する。だからこの飛び級卒業は名誉なことなんだ。学部生の身分では、不自由なこともあるだろうからな」
不自由な思いをした記憶はない。瞭司の知らないところで、何事かが勝手に進行している感じがした。口を開こうとしない小沼が、急に他人のように思えた。瞭司は学部長の目を見据えて言った。「僕からもお願いがあるんですが」
「何かな」
「あの論文は僕だけで書いたんじゃありません。共同研究者の二人にも飛び級卒業を認めてくれませんか」
学部長は瞭司の目をのぞきこんで、首を横に振った。
「飛び級はひとりだけだ。それに論文の筆頭著者はきみだろう」
「それなら僕もお断りします」
瞭司、とすかさず言ったのは小沼だった。
「そんな簡単に決めるもんじゃない。学部長もこのために奔走してくださったんだ。考えてから返事しろ」
「でも、僕にはそんなことする理由がありません」
学部長の目が細められた。ソファから立ち上がると、腕組みをして瞭司を見下ろす。
「ちょっと急すぎたかな。まだ少し時間はあるから考えてみなさい。ただ、大学院入試の出願締め切りまでには答えがほしいな。頼むよ」
頼むよ、という言葉は瞭司ではなく小沼に向けられたようだった。
部屋を出て廊下を引き返している間、小沼はひと言も発しなかった。無精ひげの目立つ白い頬は、疲労のせいか艶を失っている。教授室へ戻ろうとする小沼に問いかけた。
「先生は知ってたんですか」
「……ちゃんと聞いたのは初めてだ」
薄々は知っていたということか。瞭司は捉えどころのない気味悪さを覚えた。
居室では田中や木下が待ちかまえていた。いつの間にか佐那も来ている。あいかわらず完璧なメイクで、初夏になっても化粧崩れの気配すらない。
まっさきに田中が尋ねた。「学部長のところに行ってたんだろ。何の話だった? 取材?」
瞭司は学部長との会話の内容をかいつまんで説明した。飛び級卒業、という単語に佐那は興奮して手を叩く。
「えー、すごい! 飛び級なんてカッコいいじゃん!」
木下も身体をのけぞらせた。
「聞いたことないな。しかも二年で」
「でも迷ってて」
「迷う必要あるのか」
「だって、僕だけなんておかしい。それならクマも佐那も飛び級を認められないと不平等です。あの論文はみんなで書いたのに」
慌てた様子で佐那が両手を振った。ブラウスの裾がはためく。
「私は別に気にしないよ。だって誰が見たって、瞭司のほうが実力あるんだから」
「でも、なんで僕だけが」
「大学の広告塔だな」
田中は会話を断ち切るように、あっさりと言い放った。
「三ツ矢が飛び級卒業すること自体、ニュースになる。しかも論文が出てお前に注目が集まってるこのタイミングは絶好だ」
「そんなことが宣伝になるんですか」
「なるさ。自分の置かれてる立場、自覚したほうがいいぞ。お前が思っている以上に、みんなお前に注目してる」
徐々に早口になっている。田中の苛立ちが伝わってきた。
「どうしてですか。僕に注目するなんて、みんなよっぽど退屈なんですね」
長髪に覆われた田中の顔が赤く染まる。
「いい加減にしろよ。バカにしてんのか」
不快感を隠そうともせず、声を荒らげた。佐那が肩をすくめる。
室内が緊張と沈黙で満たされる。瞭司だけがその理由に気づけず、皆の顔を順番に見ていた。悪い、と口のなかでつぶやき、田中は居室を去った。長髪が垂れ下がる背中を見送った瞭司は木下に尋ねた。
「僕は田中さんに嫌われたんですか」
違う、と木下は答えた。大きな身体を窮屈そうに縮めている。
「田中も俺も、瞭司のことは好きだよ。いい後輩だと思ってる。でも瞭司の無邪気なところが、ときどき俺たちみたいな一般人には嫌味に聞こえるんだよ。あいつの言う通り、もう少し自分がどう見られてるか考えてみたらどうかな」
慣れ親しんだはずの学生居室に居場所がないような気がした。瞭司はひとり小会議室へ向かった。いつも一緒にたむろしている佐那もついてこない。
円卓に肘をついて、組んだ両腕に顔を埋めた。この微妙な違和感はなんだろう。普通の学生生活が遠ざかっていく気がした。まぶたを閉じて、目の前にちらつく光の跡をじっと見ていた。このまま眠ってしまいたかった。
誰かがドアを開ける音がする。顔をあげると、熊沢がいた。
「クマ。さっきね」
「木下さんに聞いたよ。飛び級卒業するか迷ってるんだろ」
瞭司の説明をさえぎり、熊沢はパイプ椅子に腰をおろした。眼鏡のレンズが蛍光灯の光を受け、氷のように冷たく輝いている。先ほどの田中と似た雰囲気を感じた。
「瞭司は十年後、何がしたい?」
十年後といえばもう三十歳になっている。
「数学ができれば、それでいいよ」
「真剣に考えろ」
嘘を言っているつもりはない。それが瞭司の本心だった。
熊沢は部屋の隅に置かれた段ボールを見やった。計算用紙の束であふれている。一年かけて、瞭司、熊沢、佐那の三人で何千枚もの紙を計算に費やした。
「部屋にこもって問題解いてるだけじゃ、誰も生活費なんかくれない。論文書いて学生の指導しないと、数学者としては認めてもらえない。実績が必要なんだ。飛び級卒業ってのは実績のひとつだろ。大学が優秀だって認めた証だ。論文何本書いても足りないくらいだよ」
「でも普通に大学卒業したって、数学者にはなれる。僕は何かおかしな感じがするんだよ。だって僕が望んでないのに、どうしてそんな話が降ってくるの」
「……正直に言う」
熊沢の瞳が揺れた。
「俺は瞭司がうらやましい。嫉妬してる。お前みたいな才能が手に入るんなら、なんだってする。その才能売ってくれるっていうんなら、百万でも一千万でも買う。一億だっていい。親に土下座してでも、借金してでも払う。寿命が十年や二十年、短くなったっていい」
ふたりの目の縁から涙があふれて落ちた。先に泣いたのがどちらか、瞭司にはわからなかった。
「瞭司は一流の数学者になる。そう決まってるんだよ。運命なんだ。わかってくれ」
運命など考えたことはない。瞭司はただ、美しさに導かれるまま生きてきただけだ。仲間とともに研究する日常を送りたいだけだ。
熊沢の目尻からは泉のように涙が湧き出ている。
「俺はこれから死ぬほど努力する。瞭司のアシスタントをしているだけじゃ、一生、嫉妬することになる。だから俺は自分だけのテーマを見つける。瞭司と同じようにはできないし、瞭司と肩を並べられるかどうかわからないけど。でも、どれだけ時間がかかっても、一人前の数学者になるから。だからお前は遠慮なく突っ走ってくれよ」
涙声の裏に、悔しさが透けて見えた。
瞭司にはろうそくの火が見えていた。青白く、ひと際激しく燃える火。その火は永遠には続かない。ろうそくはいずれ尽きる。燃える勢いが激しいほど、尽きるのも早い。瞭司の目の前に差しだされた火は、さらに勢いを増そうとしていた。
(この続きは是非、単行本でお楽しみください!)
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