冲方丁さん、辻村深月さん、森見登美彦さんの三人の選考委員が絶賛し、圧倒的な高評価で野性時代フロンティア文学賞を受賞した『永遠についての証明』。ご好評につき、以前実施した試し読みのつづきを3日に渡ってお送りします。
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風が吹き抜け、Tシャツの裾をはためかせた。
正午前の太陽は高い位置から熱を放射している。梅雨はまだはじまってもいないのに、気の早い夏が訪れようとしていた。
瞭司はアパートの階段を三階まで上がり、正面にある部屋のドアホンを迷いなく押した。反応はない。ドアノブを回して引いてみると、鍵はかかっていなかった。室内をのぞくと、部屋で熊沢が本を読んでいる。瞭司は勝手に靴を脱いで上がった。熊沢は振り向きもしない。
「いないかと思った。呼び鈴押したのに反応ないから」
「いつもそうだろ」
瞭司は慣れた手つきで冷蔵庫を開けた。いつ来ても、熊沢の家の冷蔵庫には作り置きの麦茶がある。水出しパックを入れるだけとは言え、瞭司には真似できないことだ。ビール会社の社名が入ったグラスに麦茶を注ぎ、一気に半分ほど飲んだ。
「俺の分も」
別のグラスに麦茶を入れて手渡し、フローリングにあぐらをかいた。熊沢は唇を濡らす程度に麦茶をすすった。
「お前、何日連続で俺んちの麦茶飲んでるの」
瞭司は少なくとも一週間は前から、欠かさずこのワンルームで麦茶を飲んでいる。それより以前のことは覚えていない。
「僕からも言いたいことあるんだけど」
「何だよ」
「冬場になったらほうじ茶にしてほしいんだけど。あったかいやつ」
「アホ。勝手に飲んでるやつが言うな」
熊沢はリモコンで冷房のスイッチを入れた。
「あっついな、今日。五月でこれなら、八月とかどんだけ暑いの」
東北出身の熊沢は暑さに弱い。昨年初めて東京の夏を経験し、すっかり夏バテを起こしていた。自腹でエアコンを買って部屋に設置した学生は、瞭司の数少ない知人のなかでは熊沢だけだった。
熊沢は座卓にのしかかるようにして本を読んでいる。瞭司は背後から熊沢の手元をのぞきこんだ。
開かれたページにはリーマン予想の解説が掲載されている。リーマン予想は最も重要な未解決問題のひとつとして、百数十年にわたって数学の世界に君臨している。この予想が解決すれば、その他の多くの問題も同時に解決されるといわれていた。
「次のテーマ、素数分布にしてみる?」
素数は、1とその数以外に約数がない正の整数のことである。瞭司は2、3、5、7、11、13……と素数を小さい順に暗唱した。227まで数えたところで暗唱は終わった。
「規則性はないなあ」
リーマン予想は素数の分布にかかわっている。順番に出現する素数には一定の規則性があるように見えながら、はっきりとそれが証明されたことはない。
素数という捉えどころのない数字はいつの時代も数学者を魅了し、絶望させてきた。リーマン予想に挑む数学者はプロアマ問わず無数に現れ、いくつもの証明が提示されてきたが、いまだに正しいと認められたものは存在しない。
「なあ、予想解決したら百万ドルもらえるんだって。一億円だよ。一億」
い、ち、お、く、と熊沢は一語ずつ区切って言った。
「そんな大金、誰がくれるの」
「さあ。外国の研究機関とか?」
内容に飽きたのか、熊沢は本を閉じて仰向けに寝転んだ。眼鏡の弦がかちゃりと音を立てる。
「読む?」
「読まない」
「あ、そう……なあ、俺らの論文っていつになったら受理されんのかね」
ムーンシャインの一般化に関する成果を投稿してから、三か月が経とうとしている。エディターから小沼の元に連絡が来るはずだが、まだ何の音沙汰もないという。熊沢は、初めて名前の入った論文が受理される日を待ちわびているようだ。
この一年は、瞭司にとって最も密度の濃い日々だった。毎日のように熊沢や佐那と顔を突き合わせては互いの進捗を披露しあい、小会議室で意見をぶつけあった。はじめたばかりの頃は熊沢も佐那もムーンシャインどころかモンスター群すら知らなかったが、数学オリンピックの日本代表だけあって、勉強をはじめると吸収は早かった。
証明の骨格を瞭司が作りあげ、熊沢たちは論理の肉付けを担当した。時おり小沼が顔を出し、二、三アドバイスを与えてくれた。最初に証明が完成した日は興奮のあまり一睡もできなかった。ひとりきりで証明を書きあげるよりも、ずっと達成感があった。
東京に出てきたのは間違いではなかったのだ。
「わかんないよ。僕の論文なんか、受理まで一年半かかったし」
高校生の頃に書いた論文がようやく受理されたのは、大学二年へ進級する寸前の三月だった。査読者から何度も指摘が入り、そのたびに小沼と顔を突き合わせて対応を考えた。ただ、苦労に見合うだけの反響もあった。最近、小沼は同業者と顔を合わせるたびにその話をされるという。
熊沢は身体を起こして座卓に頬杖をつき、ため息を吐いた。
「ムーンシャインの一般化ってどれくらいすごいのかな。リーマン予想には負けるよな」
瞭司にはどちらのほうがすごいのか、よくわからなかった。未解決という意味ではどちらも同じだ。
「まあでも、実質的に仕事したの瞭司だもんな」
「そんなことないよ」
つい大きな声が出た。熊沢は振り向き、眼鏡を押しあげた。
「どうしたよ、急に」
「いや。だって本当にそうだから。僕だけじゃ、あの論文は書けない」
「俺たちは瞭司に言われた通りに調べた結果を書いただけだよ」
億劫そうに立ちあがり、熊沢はグラスを台所の流しに置いた。
「昼飯、行くか」
瞭司と熊沢はどこに行くとも相談せずに部屋を出た。熊沢との昼飯といえば、大学の学食かコンビニだ。話し合う必要もない。
キャンパスまでの道のりをだらだらと歩く。周辺を歩くのは学生らしき人影ばかりだった。ホッケーのスティックをかついだ女子。リクルートスーツに身を固めた先輩。どういうつながりかわからないが、道路の幅いっぱいに並んで歩く若者の集団。
「ガロアって二十歳で死んだんだよな」
熊沢のつぶやきの意味がわからず、瞭司は首をかしげた。
「俺らもう、二十歳だよ。ガロアは十代でガロア理論構築してたんだぞ」
「僕らはガロアじゃないよ」
「そうだけど、ちょっと憧れるんだよな。短命って、いかにも天才って感じしない?」
瞭司は、熊沢が才能に対して過剰な憧れとコンプレックスを抱いていることを知っていた。みずからも数学の才能に恵まれていながら、より恵まれた人間に嫉妬している。そしてその矛先が自分自身に向けられていることも、瞭司は承知していた。
行く手から突風が吹いた。向かい風に手をかざすと、指の間から熊沢の冷静な横顔が見えた。通行人がみな足を止めるなか、熊沢だけは髪を風になびかせながら歩いていた。
突風がやむと、唐突に熊沢は尋ねた。
「瞭司って、挫折したことあるか」
「挫折って?」
「いやたとえば、どうしても解けない問題とか、ぶち当たったことないの」
「あるよ。いくらでもある。でも死ぬまでに解ければいいんだから、挫折じゃない。今解けなくても、死ぬまでに何回でもチャレンジすればいい。それに僕が解けなくても、他の誰かが解いてもいい。だからそもそも、問題を解くことに挫折はない」
顔の高さに蚊柱が浮いていた。熊沢は不愉快そうにそれを振り払う。図に乗っていたつもりはないが、瞭司の答えはプライドを刺激したようだった。
「テストで解けなかった問題とかないのか」
「テストなら、ないよ」
「本当に、たった一問もない?」
「ない」間髪を容れず、瞭司は答えた。
「僕、テストって嫌いだけどね。テストの問題って答えがあるでしょ。答えがあるってことは、すでに誰かが解いてるってことだよね。他の誰かが解決済みの問題なのに僕が解く必要あるのかなっていつも思う」
熊沢は口をつぐんだ。今の返答がなぜ友人を不快にさせたのか、瞭司には理解できない。日頃考えていることを素直に話しただけだった。
「ごめん。何か変なこと言ったかな」
「ん? いや、特に。ちょっと別のこと考えてた」
作り笑いの裏にあるものについて、瞭司は考えないことにした。
熊沢は入学したばかりの頃、数学はやらないと言っていた。毎日顔を合わせる今も、その理由は知らない。佐那に聞いたこともあるが、彼女も知らないようだった。
ちょうど昼休みの時間に訪れたせいで、学食は人であふれかえっていた。二人とも人混みは大の苦手だ。購買部でパンと飲み物を買い、理学部棟へ向かった。
居室にはいつもの通り、田中と木下がたむろしていた。彼らの同級生たちは就職活動に忙しく大学から出払っていたが、博士課程への進学を希望するふたりは研究室で数学三昧の日々を送っている。
パンをかじりながら読んだばかりのリーマン予想について話していると、小沼が居室に飛びこんできた。いつになく表情が緊張している。
「瞭司、クマ」
つられるように二人は立ち上がり、はい、と揃った声で答えた。
「論文、受理されたぞ」
「本当ですか!」
叫んだのは熊沢だった。一方、瞭司には喜びよりも困惑のほうが大きかった。
「リバイスなしで?」
「一発アクセプトだ」
興奮した小沼の声と同期するように、田中もはしゃいでいた。
「すげえな、お前ら!」木下は拍手で祝福してくれる。
「斎藤にも連絡しないと」
熊沢はさっそく携帯電話で佐那の番号にかけていた。瞭司ひとりが、興奮の渦から取り残されている。
論文が掲載されることは嬉しい。しかし、そこがゴールであるかのように喜ぶことには違和感があった。論文が雑誌に掲載されようがされまいが、瞭司たちが導いた結論は何ひとつ変わらない。数学者たちからの反響がほしいわけではない。瞭司が喜びを覚えるのは、真っ白な新雪に足を踏み入れるように、未解明の領域へ踏みこむ瞬間だけだった。
佐那への連絡を終えた熊沢はまだ笑っていた。
「瞭司」
「うん」
「ありがとう。瞭司がいなかったら俺、たぶんまだあのマンガ喫茶でバイトしてたよ」
そのひと言で胸に温かな火が灯った。そうか。そういうことか。
瞭司にとって、世間という知らない人間の集団に認められることはどうでもいい。こうして、身近な人が受け入れてくれることが重要だった。この場にいる誰もが自分を受け入れてくれている。そのことのほうが、論文の受理よりもずっと、瞭司に多幸感をもたらしていた。
家の背後に広がる森は、幼い瞭司にとって庭も同然だった。
集落の住人はわずかで、木造二階建ての一軒家は両隣と数十メートル離れていた。裏庭はそのまま森とつながっていて、縁側から少し歩けば深い樹々に取り囲まれる。森は延々と続き、やがて険しい崖や谷に突き当たる。どこからどこまでが自宅の敷地なのか定かでなかったし、明らかにする必要もなかった。
深い森は幼い瞭司にとって唯一の遊び場だったが、どれだけ長い時間遊んでいても飽きることはなかった。気温や風、光の具合が変化するたび、森は異なる姿を披露する。他の遊び場は必要なかった。
瞭司は生い茂る樹々やそこに棲む生き物の姿に心を奪われた。クヌギの葉に走る脈や、カナブンの節くれだった足、下草に隠れた石くれの模様。そのどれもが、誰かが巧妙にデザインしたかのように美しかった。森は広大な天然の美術館だった。
学校にその美しさを共有できる友人はいなかった。一度、家の裏の森を友人たちと探検したことがあった。瞭司は先頭に立ち、誰よりも積極的に森の奥へ突き進んだ。雑草を踏みならし、小川を越えて、気が付けば背後には誰もいなくなっていた。皆、飽きて勝手に解散してしまったのだ。
同級生は皆、集落の風景に飽き飽きしていた。一刻も早く都会に出たいと公言する者も多かった。
瞭司に都会への憧れはなかった。それよりも、森の美しさの奥に潜んでいるものの正体を突き止めることを望んだ。樹にも虫にも石にも、得体の知れない何かが宿っていることを本能的に察知していた。
時おり、森を散策していると遭遇することがあった。目の裏で火花が散るような感覚。同時に視界のすべてがうっすらと光りはじめる。それまでわからなかったことを理解した時にだけ得られる、あの爽快感。
生物学に今ひとつ興味をひかれなかったのは、生き物たちの種類が細かく分類されているせいだ。瞭司が知りたいのは、植物や動物や昆虫に共通する美しさだった。細分化することはその逆を行く。瞭司の探し求める〈得体の知れない何か〉は、生物学の言葉では表現することができなかった。
だから数学と出会った時の感動はひとしおだった。
きっかけは、歳の離れた兄の教科書だった。居間のテーブルに放置された教科書を何気なく開いたときの感動は、二十歳になっても忘れられない。学校ではまだ四則演算しか習っていなかったが、微分積分、行列、ベクトルといった概念は、一度読んだだけで自然と染みこんでいった。まるで旧知の友人であるかのように親しみを感じた。
これこそが、森に潜む〈得体の知れない何か〉を表現する言葉だと直感した。
マンガを読むように兄の教科書を読破し、みずから問題集を解くようになった。家族は一心不乱に数学の問題を解きはじめた瞭司に仰天した。算数は割合得意だったが、学校の成績が特別いいわけではなかったからだ。
しかし、誰かのつくった問題をいくら解いても、〈得体の知れない何か〉の正体は明らかにならなかった。その先にある、まだ見たことのない領域に触れたい。願いに突き動かされるように、瞭司は貪欲に知識を求めた。
中学に進んだ瞭司は公立図書館に通いはじめた。自転車で片道一時間の道のりを毎日のように往復し、分厚い専門書を借り出して独学で知識を身につけた。専門書を読むことは一向に苦にならない。同級生が雑誌を読むのと同じ感覚で、数式でつむがれた物語に夢中になった。ほしい本はリクエストすれば他の図書館から取り寄せてくれる。手元に置いておきたいと思う本もあったが、定価数千円の本を親にねだるのは気が引けた。代わりに、その内容を脳裏に焼きつけた。
学校の授業はまったく退屈なものになった。問題を見れば、答えは書いてあるに等しい。同級生がごく初歩的な代数や幾何の問題に手こずるのが心の底から不思議だった。
数学教師は瞭司をたたえるどころか、異端視した。たまに職員室まで足を運んで質問をしても、誰も答えることができない。瞭司の興味は普通の中学教師の手にはおえないものになっていた。プライドを傷つけられた教師のなかには、瞭司を無視する者さえいた。
一度、試験後に呼び出されたことがあった。呼んだのは五十代の女性教師で、生活指導も担当していて、校則違反にはとりわけ厳しかった。
夕暮れ時の職員室で瞭司は教師と二人きりで対面した。
「どうして途中式を書かないの」
室内に夕日が差し、教師の顔の半分を照らしていた。瞭司は素直に答えた。
「わかるからです」
「わかるってどういうこと」
「途中式を書かなくてもわかるんです。問題を見れば答えはわかります」
「式を間違えてたらどうするの。答えも間違ってしまうでしょう」
「僕、答えを間違えたことありますか」
挑発するつもりはなかった。単に事実を確認しただけだった。しかしそのひと言が逆鱗に触れたらしく、教師は声色を変えた。
「間違えないからおかしいんでしょうが」
「何がおかしいんですか」
「あなた、証拠がないからって居直るつもり」
「証拠ってなんですか。僕が問題を解いたという証拠ですか」
教師はひと際声を高くした。
「カンニングは最悪、停学処分もありうるんですよ」
疑惑をかけられていることに、瞭司はようやく気付いた。反論する気にはなれなかった。証拠もなく疑念を抱いている相手には弁解のしようがない。瞭司は無言でうなだれてその場をやり過ごした。教師はその態度を反省と受け取ったのか、じきに解放した。以後、瞭司は数学の試験で必ず途中式を書くようになった。
同じ時期、校内の掲示で数学のコンテストがあると知ったが、出場する意欲は湧かなかった。コンテストも所詮は試験と同じだ。また不正の疑惑をかけられてはたまらない。
小学生までの友達とは、年を追うごとに疎遠になった。顔を合わせるたびに瞭司が数学の話をするせいだ。嫌味のつもりはなかった。ただ、自分が好きだと思うものを友達にも知ってもらいたかった。それなのに、数学というだけで誰もが顔をそむける。瞭司にも、普通の中学生より多少は数学のことを知っているという自覚はあった。だからできるだけわかりやすい話し方を選んだつもりだったが、反応は変わらなかった。
社会科見学の帰り道だった。バスのなかで、瞭司は家が近い男子に懸命に話しかけていた。何を話していたかは忘れてしまったが、相手の退屈そうな表情は覚えている。彼は長いこと沈黙していたが、ついにこう言った。
「面白くないんだよ」
瞭司は口をつぐんだ。
「お前といても、つまらない」
そう言って彼は目を閉じ、学校に到着するまで二度と目を開かなかった。それでも瞭司の頭に浮かぶのは、やはり数式だった。
それからは教室で話すことを諦めた。自分の興味と同級生の興味の間には、絶望的に深い溝がある。退屈という名の溝を埋める術を瞭司は持っていなかった。寂しいときは、数を友人に見立てた。数の世界では誰もが瞭司に好意を示してくれる。こうして、ますます数学にのめりこむことになった。
受験勉強は人並みにこなし、中くらいの偏差値の高校に進んだ。もはや学校には何も期待していない。数学者という職業につくにはどうすればいいのか、ということばかり考えるようになった。数学をやりながら金を稼ぐには、さしあたり大学の教員になるしかない。教員は瞭司がもっとも嫌いな職業だったが、他に手がないなら仕方がなかった。
高校に進学すると瞭司の才能はますます際立った。授業についていけなくなる生徒たちが相次ぐなか、試験で満点を取り続けた。物理の試験でもほぼ毎回、満点だった。友達は教室にはひとりもいなかったが、数の世界でならいくらでも遊ぶことができた。
孤独には慣れたが、時おり強烈な劣等感にさいなまれた。呼吸をするように友達をつくることのできる同級生たちが異星人に見え、そのただなかで孤立する自分が哀れだった。瞭司には空気や間と呼ばれるものがよく理解できない。臆病だと思われるのも嫌だから、無理に話してまた傷つく。その繰り返しだった。
中学と違ったのは、瞭司の才能に気づいた教師がいたことだった。
その数学教師はかつて研究者を目指していた。博士課程を経てポスドクを経験したが、どこにも本採用されず、挫折して高校の教師になったのだった。彼は最初の試験で、瞭司がとてつもない才能の持ち主であると見抜いた。
この先生は違う、という直感は瞭司にもあった。数学者特有の、信仰に近いひたむきさをその教師は持っていた。本を読んでいてわからないことがあれば、ふたたび職員室を訪ねて質問するようになった。
大学図書館に行くことを勧めてくれたのもこの教師だった。英語さえ読めれば、収蔵された貴重な論文がいくらでも読める。瞭司は興味の赴くまま、英和辞典を片手に論文を読みはじめた。図書館のテーブルに夜までかじりつき、むさぼるように知識を吸収した。一年もしないうちに、瞭司は自分で検討するときも英語を使うようになった。そのほうが日本語よりもずっと速い。
教師はじきに瞭司の質問に答えられなくなった。数学コンテストへの出場を提案したが、瞭司は頑として出場を拒んだ。しかし教師は、とてつもない才能が埋もれてしまうことを忍びなく感じた。どうにかして瞭司の存在を世に知らしめたかった。
放課後、一目散に大学図書館へ行こうとする瞭司を教師は呼びとめた。
「三ツ矢に紹介したい人がいる」
「先生の知り合いですか」
瞭司はあどけない顔をまっすぐに向けた。
「大学の教授だよ」
教師には心当たりがあるようだった。
「小沼という名前だ」
(第5回へ)
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