冲方丁さん、辻村深月さん、森見登美彦さんの三人の選考委員が絶賛し、圧倒的な高評価で野性時代フロンティア文学賞を受賞した『永遠についての証明』。ご好評につき、以前実施した試し読みのつづきを3日に渡ってお送りします。
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(承前)
小会議室の窓から差す朝日を浴びながら、瞭司は一心にペンを動かしていた。円卓には図書館で借りた素粒子物理の専門書が積みあげられている。時おり専門書のページをめくりながら、瞭司は計算用紙を黒々と埋めつくしていた。
インクがかすれてきた。瞭司はペンを投げ捨て、新しい一本を手に取る。五本百円でまとめ買いした安物だから、使い捨てても財布はたいして痛まない。
午前八時をまわった頃、ドアがそろそろと静かに開けられた。
「げっ、いるよ」
ドアを開けたのは田中と木下だった。そろって朝食の入ったレジ袋を提げている。自分の世界に没入している瞭司は振り向きもせず、ペンを動かし続けていた。田中たちもこの反応には慣れている。パイプ椅子を引き寄せて腰をおろし、田中は卓上の専門書を手に取ってぱらぱらとページをめくった。木下は携帯をいじっている。
やがて、切りのいいところで瞭司が手を止めた。ペンが走る音が止むと、部屋は静寂に包まれる。瞭司は顔を上げ、かすれた声で言った。「おはようございます」
「お前、いつからここにいんの」
「昨日の夕方からです」
「寝ずに?」
「……そういえば、寝てない」
「お前の集中力ってどうなってんの。腹とか空かないの」
田中に問われると、今まで忘れていた空腹感が急激に押し寄せてくる。
「空きました」
レジ袋からコンビニのおにぎりが転がり出てきた。田中はそのひとつを無造作につかみ、瞭司に突き出した。
「とりあえず、これ食え」
「いいんですか。すいません」
「これもやるよ」
木下はクリームパンをくれた。紙コップに注いだ水道水で流しこむ。おにぎりをかじりながら田中が尋ねた。
「ムーンシャインは解決できそうなんか」
「ゴールは見えてるけど、説明するためのうまい言葉が見つからないんです」
瞭司には到達すべき点がはっきりと見えている。しかしそれを理論的に説明する言葉がまだ見つかっていなかった。上空から悪天候の迷路を見下ろしているような気分だった。ゴールの位置はわかるが、そこに至るルートにところどころ霧がかかっている。霧を追い払うには、瞭司ひとりの力では限界があった。
「ところで、なんで素粒子なんよ」
「素粒子の言葉で説明できるかなと思って。コクセター群は理論物理でも使われるし、この感覚に当てはまる言葉が物理学のどこかにあるような気がするんですよね」
瞭司は問題解決に物理の理論を導入するのが得意だった。ある種の潔癖症ともいえる数学者は純粋数学を愛するあまり物理の言葉を嫌うが、瞭司はその真逆で、数学の問題解決のため積極的に理論物理を勉強していた。
田中はペットボトルの緑茶を飲み、包装のフィルムを丸めた。
「素粒子までいっちゃうと、俺にはもうついていけないな」
「最初からついていけてないだろ」
木下が呆れたように指摘し、ついでに瞭司にも言った。
「俺たちより研究室にいる時間が長い学生なんて、三ツ矢しかいないよ」
またたく間に食べ物をたいらげた瞭司は、卓上の専門書を積み直した。
「先輩たちの研究はどうですか」
「三ツ矢に心配されなくても進んでる。木下はどうか知らんけどな」
「はいはい。神童には負けるよ」
田中と木下の研究テーマは岩澤理論の一般化だった。田中は保型形式、木下は楕円曲線が専門である。岩澤理論は小沼が最も得意とする分野であり、この研究室の主要な研究テーマだった。
大口を開けてあくびをした木下の目尻に涙が浮いた。
「そういえばこの間、熊沢見たぞ」
「どこでですか」
歓迎会以来、研究室を訪れている特推生は瞭司だけだった。熊沢や佐那が何をしているかは小沼も知らない。瞭司のように入学早々研究に取りかかる者はごく一部で、大部分の特推生は周囲に流されるまま遊びやアルバイトで忙しい生活を送っていた。
「駅前のマンガ喫茶。深夜に働いてるらしい」
「特推生が時給千円ちょいとはな。数学オリンピック日本代表だぞ」
田中が茶々を入れる。木下は大柄な身体を縮こめた。
「話しかけたけどそっけなくてさ。関わり持ちたくなそうな感じだったんだよな」
「別にうちの研究室の学生じゃないからな。指導教官が小沼先生ってだけで」
「そうだけど。でも露骨に嫌がられるのも悲しいな」
俺はもう真面目に数学やる気ないから。瞭司は宴会の夜に聞いた、熊沢の芝居がかった台詞を思い出した。彼が本心から数学を捨てたとは思えない。本当に嫌になったのなら、そんな捨て台詞を残さずそっと去ればいい。数学科を選んだことといい、熊沢の行動はどこかちぐはぐだった。
「何時から働いてるんですか」
「わからんけど、俺が行ったのは十一時くらい」
「行くつもりか」田中の反応はやめておけと言わんばかりだった。
「僕、マンガ喫茶って行ったことないんです。興味あって」
木下が教えてくれた店名をメモに取った。
瞭司はそのまま検討を続けて夕方にアパートへ帰り、仮眠をとった。目が覚めるとちょうど夜十一時を回ったところだった。財布と鍵を入れたバックパックを背負い、駅前へ向かう。
駅前はチェーン居酒屋とコンビニのネオンサインでまぶしいほどだった。木下に教えてもらったマンガ喫茶は雑居ビルにあり、ダイニングバーとファミレスに上下を挟まれていた。五階の受付までエレベーターで昇る。エレベーターの室内には芳香剤の匂いが充満し、壁にはテープの跡やガムのような汚れがへばりついていた。
両側に開いた扉の正面が受付だった。カウンターは無人だったが、瞭司が歩み出ると右手のカーテンからさっと店員が現れた。裏手で監視カメラでも見ているのだろうか。
黒い制服を着た店員は生気のない顔でカウンターに入った。店員は胸元に〈くまざわ〉という名札をつけている。瞭司の顔を見るなり、セルフレームの眼鏡が鼻の上で躍った。
「やっぱり、ここでバイトしてるんだ」
「……だから?」
「木下さんが教えてくれた」
「あの坊主の先輩か? それで、わざわざ俺をバカにしに来たのか」
熊沢はホワイトボードの座席表を指さした。「早く席選べよ」
「また研究室に来てほしい」
視線を手元に落としたまま、苛立った調子で熊沢は応じる。
「何言ってんの、お前。俺は数学やらないから。バイト先で邪魔するのやめてくれ」
「一緒に解いてほしい問題があるんだ。僕にはもうゴールは見えてる」
「だったらひとりでやれよ。ほら、席。勝手に決めるからな」
熊沢は〈在室中〉のマグネットを13番の座席にくっつけ、瞭司を残してカーテンの奥へ消えた。瞭司はしばし考えたのち、カウンターに転がっていたボールペンを拝借し、コピー機からA4用紙の束を勝手につかみとった。
マンガが隙間なく詰めこまれた本棚の間を抜け、13番の座席にたどりつく。およそ一畳の個室はデスクトップのパソコンとリクライニングチェアに占領されていた。瞭司は身体をねじこみ、チェアに身体を横たえた。
パソコンのキーボードを除けてコピー用紙を置く。ペンを握り、思うまま紙束に数式を書き連ねた。二十四時間数学のことを考えている人間にとっては、意識する必要もない作業だった。
検討すべき問題は決まっている。熊沢はムーンシャインについては知らないようだったが、コラッツ予想なら知っていた。瞭司は入学式の日の続きを見せてやるつもりだった。脳裏には、ダイヤモンドダストのようにきらめく粒が舞い散っている。頭に浮かんでは消える事象を、片端から紙の上につなぎとめる。マンガ喫茶の個室でも、理学部棟の小会議室でも、やることは変わらない。
どんなに息苦しい空間でも、いったん数学の世界に没頭してしまえば関係ない。デスクライトを頼りに、瞭司は白紙を記号で埋め続けた。熊沢を説得するには、幾千の言葉よりも数式のほうがずっと力があるはずだ。
一夜を費やして、瞭司は五十枚の白紙に数理の幻想世界を描きだした。数覚に優れた者なら惹きつけられずにはいられない光を放っている。瞭司にとっては一瞬の出来事だったが、すでに時刻は午前五時を過ぎていた。
ひどく喉が渇いている。六時間飲まず食わずでいたのだから当然だった。瞭司はドリンクバーでメロンソーダを立て続けに三杯飲んだ。四杯目を注ぎ、口に運びながら席に戻った。安っぽい香料が妙にくせになる。
エレベーター前に戻ると、ふたたび熊沢が無言で出てきた。瞭司は一夜かけてつむいだ数式の物語を、カウンターに静かに置いた。
「続きが読みたくなったら、研究室に来て」
熊沢は一瞥すると、わざとらしく紙束を横にずらして料金を受け取った。ひと言も交わさず、ふたたび背中を見せてカーテンの奥へ消える。
瞭司が雑居ビルを出ると、吸殻まみれの路上に朝日が降りそそいでいた。壁に窓がなかったせいで時間の感覚がない。目をしょぼつかせながらキャンパスへ足を向ける。もしかしたら、今日にも熊沢は研究室に来るかもしれない。いや、きっと来る。勝算はあった。
しばらく歩いたところで、瞭司はマンガ喫茶のコップを持ったまま出てきてしまったことにようやく気づいた。引き返すのも気恥ずかしく、仕方なく中身を飲みほしたコップをバックパックにしまった。熊沢には後で謝っておこう。
研究室にはまだ誰も来ていなかった。瞭司は小会議室にこもり、いつものようにムーンシャインの検討をはじめた。専門書を見比べながら数式を書き起こす、地味な作業が続く。
今までずっと、瞭司はひとりきりで数式と向き合ってきた。小沼と手紙のやりとりはしていたが、伴走者というよりは道標のような存在だった。同級生に数学の話ができる相手がいるはずもない。一緒に走る仲間をつくることは、瞭司にとって目標のひとつだった。同じ特推生なら数学の実力は申し分ないはずだ。わざわざ東京に来てまで、ひとりで研究を続けるのは寂しかった。
一限目の時刻が近づくと、理学部棟に少しずつ活気が満ちてくる。今日は何か授業があった気がするが、目の前の検討のほうが大事だった。瞭司は手を休めることなく、一心に素粒子の世界へ没入した。
じきに二限目の開始時刻が訪れ、唐突に小会議室のドアが開いた。驚いて瞭司が振り向くと、佐那が立っていた。
「斎藤さん」
「三ツ矢君、授業出てないでしょ。特推生が線形代数の単位落としたら笑われるよ」
佐那はごく自然な動きでパイプ椅子に腰かけ、ジーンズをはいた細い足を組んだ。
「なんで居室じゃなくてここでやってるの」
「一年生はまだ研究室の所属じゃないから。席もないし」
「そっか。じゃあ、あたしもこっちだ」
瞭司には意味がわからなかった。佐那は打ち明け話をするように、声のトーンを落とす。
「入学してから学生団体とか入ってみたんだけど、あんまり面白くなくてさ。飲み会やって、わーっと騒いで終わりだもん。どうしよっかなあと思ってたら、小沼先生に三ツ矢君が面白そうなことやってるって聞いたから」
「僕はここで数学やってるだけだよ」
「結局、数学やってる時が一番面白いの」
「じゃあ一緒に検討してくれるの」
まあね、と言って佐那は物理の専門書を手に取り、不思議そうにページをめくった。
「それで、どんな問題やってるの」
瞭司は取り組んでいる問題について、嬉々として説明をはじめた。
生物が光に接近する性質を、正の走光性という。蛾やある種の微生物は明るい場所を好み、暗い場所を忌避するため、正の走光性を持つといわれている。
瞭司は、人間には生まれつき数学への正の走性が備わっていると信じていた。特に感覚の発達した一部の人間は、数学が放つまばゆさに否が応でも引き寄せられてしまう。本人の意思とは無関係に、本能的に魅了されてしまうものなのだ。瞭司も佐那も、本能的に数学を欲している。
そして熊沢の数覚が本物なら、彼も必ずここに来るはずだった。もうひとりの仲間が集まるのを、瞭司は待った。
窓から入る日差しが一段と強まる正午前、ひとつの足音が小会議室の前で止まった。瞭司は気づいていたがドアを開けには行かなかった。無理にやらせても意味がない。本人の意思で開けることが大事だ。
やがて、ためらいがちにドアが開いた。わずかな隙間から男が顔を見せる。あ、と佐那が声をあげた。ドアはさらに開き、熊沢は部屋へ足を踏み入れる。
「あれ、コラッツ予想だろう」
徹夜明けの疲れた熊沢の顔を見て、瞭司は頬からこぼれ落ちる笑みを我慢することができなかった。「よくわかったね」
「馬鹿にするなよ。もしかして、解けたのか」
「これから解くんだよ」
瞭司はパイプ椅子の座面を手でたたいた。
「さあ、座って」
万年筆のインクが切れた。
計算用紙の余白で試し書きしてみたが、ペン先は何の軌跡も残さない。この万年筆は、昨年の誕生日に妻の聡美から贈られたものだった。替えのカートリッジを買い置きしておかなかったことを後悔する。
小会議室を出て准教授室へ移動する。かつて小沼が使っていた部屋は、今では熊沢の居室となっている。文房具入れを探してみるが、ボールペンの一本すら見つからない。こういう時、秘書を雇っていれば、と思わずにはいられなかった。しかしそれだけの予算を獲得する術は若手の熊沢にはない。すでに夜十時を過ぎ、学生は誰もいなかった。
念のためデスクも探ってみる。ここになければ今夜は諦めて帰ろう。そう思いながら引き出しを見てみると、書類の下に濃紺色のボールペンがあるのを発見した。軸には〈Y. Kumazawa〉と彫られている。もらったのは修士一年だからもう十三年も経っている。試しにメモ用紙の上を滑らせると、まだインクが残っていた。
嫌でも佐那の顔がよぎる。熊沢は躊躇したが、雑用を片付けてようやく確保した時間を無駄にしたくはなかった。終電まで一時間ほど残されている。熊沢はペンを手に、小会議室に戻った。
帰国して協和大の助教として働きはじめてからは、小会議室は熊沢専用の作業部屋だった。准教授に昇進した今でも、どうしても集中したいときは小会議室を使う。この部屋に内線はないから、鍵をかけて携帯の電源を切れば、容易に外部との連絡を断つことができる。
円卓の上には瞭司のノートが広げられている。熊沢は埃をかぶっていたペンを手に、検討を再開した。
ノートを再発見してから二か月経つが、解読の糸口はつかめていない。准教授になってからというもの、日々の雑務に忙殺され、まとまった時間を取ることができなかった。熊沢の研究室には他の教員は所属していない。学生の指導も、事務も、交渉も、予算申請も、何もかもを熊沢がやらなければならなかった。
瞭司が愛用していた専門書を脇に置き、ノートを幾度も見比べては試算する。新しい定理が前触れなく登場し、論旨が説明されないまま証明がはじまり、複雑な図形が唐突に出現する。熊沢は足りない説明を補足しつつ整理するのが精一杯で、まだ論理の正確さを検討する段階まで踏みこめていない。
何度も登場する〈プルビス〉という言葉は、ラテン語で〈塵〉を意味する。この概念こそが理論の根幹を成しているはずだった。しかし熊沢には〈プルビス〉の正体が一向につかめない。
独自の造語を整理し、理解するだけでもひと苦労だった。聞き覚えのない言葉が登場すれば、関係のありそうな専門書を片端から読みあさる。しかしその言葉が見つかることは稀で、大抵は瞭司の手による造語なのだった。そんなことを続けているから、二か月経ってもまだ一パーセントすらまともに理解できていない。
一時間はあっという間だった。参考書を卓上に広げたままあわただしく戸締まりを済ませ、熊沢は駅に向かった。
キャンパス最寄りの駅から私鉄で二十分。ベッドタウンのただなかに熊沢の自宅はある。結婚してすぐにローンを組んで買ったマンションの一室。戸建ては手入れが大変だからマンションにしよう、と主張したのは聡美だった。
ダイニングではパジャマ姿の聡美がテレビを見ていた。
「おかえり」
昇任してから、平日はいつも帰りが終電近くなる。今日は遅いね、とも言われなくなった。起きている娘の顔が見られるのは土日だけだ。
部屋でジャケットを脱いでダイニングに戻ると、テレビは消えていた。肉じゃがと味噌汁を温め直していた聡美が熊沢の胸元に目を留めた。
「そんなボールペン、持ってたっけ」
無意識のうちに、胸ポケットにボールペンを差していた。熊沢は、聡美の何気ない口調の裏にある疑念を感じ取った。ポケットからペンを出してテーブルに置く。
「昔、友達からもらった。誕生日プレゼントで」
「名前まで彫ってある」
「もらったの、十何年も前だよ。聡美にもらった万年筆のインクが切れちゃったから、代わりにこのペン使ったんだ」
「そう。何でもいいけど」
聡美は鍋に向き直った。「ビール飲むなら、冷蔵庫から出して」
毎日瞭司の遺品と向き合っていると、あの室内にこもった、むせるようなアルコールの臭いを思い出す。熊沢は冷蔵庫の扉にかけた手をひっこめた。「今日はやめとく」
「最近飲まないんだね」
「疲れちゃって。悪酔いしそうだから」
四歳下の聡美と知り合ったのは、助教になった頃だった。理学部の教務課で働いていた聡美とは顔を合わせることが多く、教職員の懇親会で話したのがきっかけだった。会話の端々ににじむ好意を感じ取り、熊沢のほうからアプローチした。そこから交際がはじまり、結婚に至るまで長くはかからなかった。
やや几帳面な聡美の性格を窮屈に感じることもあったが、結婚生活は順調と言ってよかった。娘が生まれてからは父としての使命感も芽生えた。娘の成長に比べれば、数学などどうでもいいと思えることすらある。
それでも、どこかに寂しさはあった。
准教授の仕事はいわゆる管理職だ。ペンを握って計算用紙と向き合う時間は極端に減った。気が狂うほど研究に没頭し、精根尽きるまで数理に没頭したあの日々が、懐かしくないと言えば嘘だった。
温められた味噌汁をすすると、昆布だしの風味が口のなかにひろがった。一からだしを取るのは聡美のこだわりだ。
椀から立ち上る湯気を眺めていても、思い出すのはあのノートのことだった。当然のように登場するプルビスという言葉。その言葉が指し示すものはまだ見えない。
「どうしたの」気づけば、聡美に顔をのぞきこまれていた。
「え?」
「話、聞いてなかったでしょ」
「ああ、ごめん。何」
「保険のこと。変えようかと思ってるんだけど」
機嫌を損ねないよう、妻の話に意識を集中する。聡美は最近勉強しているというネット保険について十分ほど話すと、ふいに黙りこんだ。娘が眠る寝室に視線を送っている。
「准教授になってから、ずっと帰り遅いよね」
妻にこういうことを言われるのは初めてだった。胸元のボールペンが尾を引いているのかもしれない。
「雑用増えたからね」
「それだけなの」
「俺がやましいことしてると思ってる?」
「そんなこと思ってないけど。隠し事してほしくないだけ」
瞭司のノートの件はまだ話していない。話せば機嫌が直るというものでもないが、熊沢は観念した。
「三ツ矢瞭司の話、覚えてる?」
「学生時代の友達でしょ。何年か前に亡くなった」
聡美の口調に、わずかだが嫉妬が混じった。文学部を卒業した聡美は数学が大の苦手で、夫の研究内容は端から理解する気がない。その割に、熊沢が数学者仲間の話をすると嫉妬するところがあった。特に学生時代の話はそうだ。明かしたことはないが、佐那との関係についても勘づいている節がある。
熊沢は瞭司のノートを再発見した経緯を簡単に説明し、解読のために夜遅くまで大学に残っていることも明かした。
「そのコラッツ予想を証明するのは、そんなにすごいことなんだ」
「本当ならものすごいことだよ。新聞記事になる」
「その三ツ矢さんも、わかるように書いてくれればよかったのに」
これ以上わかりやすくは書けなかっただろう、と熊沢は感じていた。
瞭司は緻密に論理を積みあげて証明するやり方をとらない。最初にゴールが見え、その後に現在地からゴールまでの距離を埋めるのだ。証明を急ぐあまり、論理が飛躍することはよくあった。それに晩年の状態を考えれば、まともに数学をやっていたこと自体が奇跡に近い。
「学生さんにやってもらうわけにはいかないの」
「学生には無理だ。難解すぎる。それに、この問題が解決できれば数学界全体、社会全体のためになるかもしれない。それくらい重要な証明なんだよ」
「……本当は、自分がやりたいだけでしょう」
諭すような声音だった。熊沢は、勇ましく振り上げた拳を背後からそっと包みこまれたような気がした。
「教務課で働いててさ、たまに科研費の申請書類読むと、この研究は社会の役に立ちます、ってみんな書いてくるんだよね。この研究は情報セキュリティに応用できるとか、あの研究は自動車の制御に応用できるとか。それも嘘じゃないんだろうけど。でも、本当の本当の理由は違うんでしょ。ただ、やりたいからやってるだけなんでしょ」
内心、熊沢はうなずいた。数学者の道を選んだのは、数学に歓びを見出しているからだ。社会のためとか何とか言っても、結局、楽しいから数学をやっているだけだ。きっと、研究者と呼ばれる人種には多かれ少なかれそういう側面がある。
「それじゃいけない?」
「いけなくないよ。でも、そのことは認めてほしい。科研費の書類に書く建前と、自分の本当の気持ちくらいちゃんと区別してほしい」
聡美は目をこすった。家事と育児に疲れたせいか、顔がやつれた気がする。
「もう寝るね。食器、流しに置いといて」
パジャマの背中が寝室に消えた。椀の底の冷えた豆腐をすすりこむ。
もう一時近い。すぐにシャワーを浴びて眠らなければ、朝がつらい。わかっていても、熊沢はまだ眠れる気分ではなかった。ついさっきまで検討していたせいか頭が冴えている。ダイニングの照明を消し、自室に移った。
四畳半の洋室は本棚とデスクでほとんど一杯だった。卓上のライトを点灯し、本棚から青いファイルを抜き取った。論文の別刷りを収めたファイルだ。熊沢が著者として名を連ねた論文はすべて記録してある。全部で三十篇あまり。
熊沢は最初のページに収められた論文を抜き取った。筆頭著者は瞭司で、熊沢は二番目。その後に佐那、小沼と続く。これが初めて熊沢の名前が載った論文であり、いまだに最も被引用回数が多い論文だった。群論の歴史をひもとく総説では、今でも必ずと言っていいほど引用されている。
瞭司と別の道に挑むことを決心した仕事。
内容は暗唱できるほど読み返した。大学に入学してから一年あまり、ほとんどこの研究にかかりきりだった。論文が受理された日のことは今でもはっきりと記憶している。五月下旬、爽やかに晴れた日だった。
思い返すまでもなく、熊沢のそばには瞭司や佐那がいた。
(第4回へ)
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