冲方丁さん、辻村深月さん、森見登美彦さんの三人の選考委員が絶賛し、圧倒的な高評価で野性時代フロンティア文学賞を受賞した『永遠についての証明』。選評の公開に続き、冒頭部分の試し読みを2日連続で実施します!
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(承前)
コラッツ予想。数論の未解決問題として名高い難問である。瞭司も問題の内容は知っていたが、真剣に検討したことはなかった。
予想の内容は、足し算、掛け算、割り算ができれば理解できる。
〈任意の正の整数nを選ぶ。nが偶数の場合は2で割り、nが奇数の場合は3をかけて1を足す。この操作を繰り返すと、どのようなn からはじめても有限回の操作のうちに1に到達する〉
仮に最初の数が21、24、29だとすると、次のような操作を経て1に至る。
21→64→32→16→8→4→2→1
24→12→6→3→10→5→16→8→4→2→1
29→88→44→22→11→34→17→52→26→13→40→20→10→5→16→8→4→2→1
現在までに、コンピュータで約7000兆の正の整数まで成り立つことが確認できている。
しかしそれ以上の数で反例が存在しないとも限らない。つまり計算を繰り返すだけでは、証明までたどりつくことは永遠にできない。
瞭司は筆記用具を探したが、見つからないので学生居室に戻った。長髪の男はパチンコ雑誌を隠す暇もなく、「なんだ、なんだ」とあわてた。
「紙とペン、借りてもいいですか」
坊主頭の男からコピー用紙の束とボールペンを受け取り、瞭司はさっそくコラッツ予想の証明に取りかかった。退屈しのぎにはちょうどいい。手はじめに、得意の群論への拡張を試みる。分野が異なっても、骨格は共通しているというのは数学ではよくあることだ。
しばし、瞭司は時計を見ることも忘れてペンを走らせ続けた。3n+1の操作を半群へ変換し、ここからどう料理しようかと考えこんでいたところ、背後から声をかける者がいた。それでも気にせずペンを走らせようとしたが、肩を揺さぶられ、瞭司はようやく我に返った。振り向くと小沼が立っていた。
「ああ、先生」
「何やってんだ」
小沼が前髪をかき上げた。壁の掛け時計は二時を示している。瞭司にはほんの数分に感じられたが、しっかりと腹は減っている。
「コラッツ予想を検討してました」
「コラッツ予想? また面倒くさそうなところに足を突っこんでるな」
小沼の背後には、スーツ姿の新入生がふたり立っていた。ファンデーションで真っ白い顔になった女子と、眼鏡をかけた瘦せ型の男子。ふたりは緊張した面持ちで、瞭司と小沼のやりとりを見守っていた。
「なんでこの部屋がうちの研究室だってわかった?」
「髪の長い人と、坊主の人に教えてもらいました」
「田中と木下か」
「あのふたりは何歳ですか」
「君らの三年先輩だ。ふたりとも老けてるけどな」
白い顔の女子が後ろから割って入った。
「あの、お知り合いですか。小沼先生」
「知り合いというか……きみたちと同じ特推生だ」
質問した本人は、えっ、と言ったきり二の句が継げないでいる。男子のほうは意に介さず、関心がなさそうな顔で突っ立っていた。
小沼は新入生たちを円卓に座らせ、自分は窓を背にしてパイプ椅子に腰をおろした。瞭司は未練がましく検討を続けようとしたが、注意されて渋々手を止めた。男女は小声で会話をしている。もともと知り合いなのかもしれない。
「熊沢君、三人目がいるって知ってた?」
「知らない」
「数オリでも見たことないけど」
瞭司は頭の片隅に居座るコラッツ予想の影を追いやり、小沼の配る封筒を受け取った。
「では、これから特推生向けのガイダンスをはじめます。改めて指導教官の小沼です。どこの学部学科でも特推生には担当の指導教官がつくことになっていて、理学部数学科では今年度は私が務めることになっています。研究室配属のある三年までは、研究でわからないことがあったら私に聞いてください」
生返事をしながら、瞭司は封筒から冊子を抜き取った。特別推薦生のみなさんへ、と表紙に印字されている。空腹を紛らわせるために目を通す。特推生はゼミや研究室への配属まで、必要に応じて担当の指導教官に指導を仰ぐことができる。そうだったんだ、と瞭司はようやくこの制度を理解した。
協和大学が特別推薦制度を導入したのは七年前。理系の名門として質の高い学生を確保するため、実績ある学生を集めている。見返りは学費免除と研究環境の提供。
「まあ特推といっても大学生だから、たいてい一、二年はサークルやバイトで忙しくて指導教官の出番はないらしいけど。別に研究することは強制じゃないし、遊びたければ好きなように遊んでくれ。冊子は家で読んでおいてくれればいいから。じゃあ、一応自己紹介しとこうか。熊沢君から」
退屈そうに眼鏡の男子が口を開いた。「熊沢勇一です」
「彼は数学オリンピックの日本代表なんだ」小沼が瞭司に向かって付け加えた。
「メダルは取れませんでしたけど」
自嘲的に言うと、熊沢は笑いもせずに瞭司へ視線を向けた。
「三ツ矢君だったよね。コラッツ予想、解けたの?」
素直に首を振る。「いや、まだ解けてない」
「だろうね」熊沢は片頰を持ち上げて、皮肉な笑みをみせた。
「解けるわけない。エルデシュが、今の数学じゃ絶対解けないって言ったんだよ」
「でもいつか解けるかもしれない」
「百年経っても無理だね」
それきり熊沢は口をつぐんだ。眼鏡の奥の目が、冷ややかに瞭司を見ている。喧嘩を売られたような気がしたが、瞭司には心当たりがなかった。小沼はあっさりと熊沢の紹介を終えた。
「次、斎藤さん」
「斎藤佐那です。私も熊沢君と同じ、数オリの日本代表でした」
「斎藤さんは銅メダリスト」
ふたりが知り合いだった理由はわかったが、メダルの意味はわからない。
「銅メダルって、どのくらいすごいんですか」
「え、知らないの。特推生でしょ」
佐那は珍獣でも見るような目をしていた。居室にいた先輩たちと同じ反応だ。やはり知っていて当たり前のことらしい。無愛想を決めこんでいた熊沢は眉をひそめている。瞭司は戸惑った。知らないものは知らないのだ。
「僕は数学の大会とか出たことないから」
「でも、特推生には卓越した実績が必要でしょ。だから数学科の特推はほとんど数オリの日本代表か予選上位だって聞いたけど。そうですよね、先生」
食ってかかる佐那に、小沼は苦笑しながら答えた。
「三ツ矢君は論文を投稿してるからね。それも卓越した実績ってこと」
小沼は教授室から数枚の紙片を持ってきて、佐那の前にすべらせた。瞭司が書いた論文のコピーだった。
「群論の重要な問題に別解を与えた。まだ受理はされていないけど、非常に画期的な手法だ」
佐那はコピーにさっと目を通すと、悔しさを押し殺すようにつぶやいた。
「納得しました」
熊沢はひと言も発しないまま、音を立てて冊子を閉じた。
「え、じゃあ何、先生と会うのは入学式が三回目? それであのなれなれしさ?」
田中は顔だけでなく、首から手の甲まで赤く染まっていた。身体を揺らすたびに長い前髪も一緒に揺れる。瞭司が入学前に小沼と会ったのは高校二年生の頃が一度目、入試面接が二度目だった。そんな話をすると、田中は指を折って数えはじめた。
「高二ってことはいつだ。三年前?」
「二年前だろ。数学科のくせに引き算もできないのかよ」
田中を諭す木下の顔色は素面の時と変わらない。体格のいい木下が持つと、ビールジョッキもコーヒーカップくらいに見える。
特推生の歓迎会に小沼の姿はなかった。二日前になって海外出張が決まり、とるものもとりあえず小沼は出国した。やたらと忙しなく見えるのは彼自身の問題なのか、教授という立場のせいなのかはわからない。
教員の不在をいいことに熊沢も佐那も酒を注文しているが、瞭司はウーロン茶を飲んでいた。瞭司にとって、アルコールは美しい数学の世界を曇らせるものでしかなかった。かつて、おひたしに入っていた料理酒に酔い、検討していた問題のことがまともに考えられなくなったことがある。宴会中も問題のことを考えている瞭司にとって、飲酒は思考の邪魔でしかなかった。
田中と木下は学部四年生だった。瞭司がいつ研究室を訪ねても、だいたいこの二人がいる。博士課程の学生をさしおいて、居室の主のような風格を醸し出していた。
木下はカプチーノでも飲むような仕草でジョッキを干した。
「手紙のやりとりだけでよく論文が書けたね」
「でも、電話より手紙のほうが検討内容を共有しやすいんで」
「俺らとは住む世界が違うな」
田中は唇をとがらせながら、お猪口に冷酒を注いだ。
「ボーダーギリギリで合格した俺が、特推生と一緒に酒飲んでるなんてなあ。何か不思議な気分だよ。あ、三ツ矢は飲んでないか」
瞭司はウーロン茶を喉に流しこむ。
「なんでボーダーギリギリって知ってるんですか」
「開示請求したら教えてくれんだよ。お前らは面接しかやってないから知らないのか。でもこれ自慢だけど、数学は満点だった」
瞭司は隣に座る熊沢を横目で見たが、黙ってビールを口に運んでいるだけだった。へー、と試しに言ってみたが、白々しさがただようだけだった。
「田中、昔は神童って呼ばれてたんだろ」
木下がとりなしたが、田中は空しそうに冷酒の水面を見つめている。
「親戚にな。でも俺みたいなエセ神童と違って、こいつらマジの神童だろ。まあ、せいぜい俺らは一般人らしく生きるさ。な、木下」
「同類かよ。勘弁してくれ」
別のテーブルからは斎藤佐那の嬌声が聞こえる。男たちの視線は自然とそちらに吸い寄せられた。ただでさえ女っ気の少ないこの研究室では、女子というだけで人目を引く。田中はいじらしく日本酒をすすった。
「俺も佐那ちゃんのテーブル行こうかな」
「露骨だろ」
「そういえば熊沢って、数オリで佐那ちゃんと一緒だったんだろ。どんな子なの」
熊沢は両手を振ってはしゃぐ佐那を冷ややかに見やり、顔色を変えずに言った。
「別に。あんな感じですよ」
「だから、どんな感じ」
「初対面でも自分からどんどん話しかけてくるんです。社交的っていうか、臆面がないっていうか。まあ、いい時もあるけど、そういうのが嫌いな人もいるじゃないですか。だから苦手に感じてる人もいました」
「……お前、本当に十八歳? 冷静すぎじゃない?」
冷静というより、関心がない。熊沢のそっけない横顔を観察しているうちに、瞭司の思考はいつの間にか群論の世界へ飛んでいた。
瞭司の意識は四六時中、数の世界とつながっている。ひとりで検討に集中している時だけではない。歩いている間も、食事をしている間も、関係のない話をしている間も、意識の片隅で途切れることなく問題を考えている。飲み会の最中も例外ではない。
高校の頃から考えている問題のひとつが、急に頭をよぎった。一本の紐が自在に形を変えながら、何もない空間を泳いでいる。じきに紐は輪となり、多角形に変化する。折り、ねじり、重ね、ずらし、ほどいては別の場所を結んでみる。紐の動きを次々と試しているうち、意識がとらわれていた。
「おい、三ツ矢」
気づくと、田中の顔がすぐ目の前にあった。肩が前後に揺さぶられ、酒臭い息が瞭司の顔に吹き付けられる。
「あ、はい。なんですか」
「なんですか、じゃねえよ。お前、急に意識飛んだからどうしたのかと思った」
田中の隣で、木下も心配そうに様子をうかがっている。瞭司は平然と答えた。
「ムーンシャインの一般化について考えてました」
熊沢は我関せずといった調子でから揚げを食べている。一瞬の沈黙の後、田中と木下はゆっくりと顔を見合わせ、苦笑した。木下が愛想のない熊沢に話を振った。
「熊沢は知ってるか、ムーンシャインとかなんとか」
「知りません。聞いたこともない」
その返事を聞いて、瞭司は無邪気に言った。
「へえ。じゃあ、数学オリンピックには出てこないんだね」
熊沢は勢いよく箸を皿に叩きつけて瞭司をにらむ。陶器が鳴る高い音がした。
「仲良くしなさいよ」
諭す木下の隣では、田中がにやにや笑っていた。
飲み会は最後まで他愛のない話をして終わった。居酒屋を出ると、田中が率先して「二次会行きまーす」と叫んだ。木下は携帯電話で別の居酒屋に予約を入れている。田中が新入生のほうを振り向いた。
「お前らも二次会行くか」
「すぐに問題の続きをやりたいんで、今日は帰ります」
瞭司の答えに怒るどころか、田中は胸を張った。
「気にせず帰れ。俺は飲みたくない人間に無理強いはしないタイプだからな」
熊沢も二次会の誘いを躊躇なく断り、その場を去ろうとしていた。佐那は迷っていたが、同期がいないのを見てひるんだのか、一緒に帰ることになった。参加者のおよそ半数が次の店に消え、瞭司たちは何となく並んで歩きだした。三人とも途中までは帰り道が同じだった。
学生街の夜道は人気が少なく、明かりといえばアパートや民家から漏れる照明の光くらいだった。垢抜けない瞭司や熊沢と並んで歩いていると、佐那のしゃれっ気が際立つ。淡い黄色のワンピースにデニムジャケットを羽織り、手指の爪は控えめな桃色のネイルで彩られている。宴会の余韻か、佐那は高い声を張りあげた。
「二人ともバイトとかするの」
たぶんしない、と瞭司が答え、考え中、と熊沢が答えた。佐那はサークルや研究室選びについても尋ねたが、男たちが似たような反応を示すのを見て質問の角度を変えた。
「小沼先生、カッコよくない? 独身らしいよ」
あ、そう。熊沢が気のない返事をした。瞭司はまた頭のなかで紐を動かすことに夢中になり、黙って足を動かしていた。佐那は急に無口になった瞭司の顔をのぞきこむ。
「どうかしたの」
「ううん。ちょっと気になる問題があって、考えてただけ」
「飲み会の後まで数学のこと考えてるなんて、筋金入りだね。あたしには真似できない」
熊沢が棘のある声で口をはさんだ。
「三ツ矢君さ、自分が才能あるって自覚してるんだろ」
え、と言うのが瞭司には精一杯だった。関心のなさそうだった熊沢の目に、いつの間にか嫉妬の火が灯されている。
「入学式サボったり、ガイダンスにもスーツじゃなくて私服で来たりさ。飲み会の最中もこれみよがしに先輩のこと無視したり。自由奔放な天才のアピールかもしれないけど、そういうの鼻につくよ」
「なに、熊沢君酔ってる?」
佐那が割って入った。熊沢は横目で佐那を見て、鼻を鳴らした。磨かれた眼鏡のレンズが街灯の光を反射している。
「俺はもう真面目に数学やる気ないから」
十字路に差しかかると、熊沢は右手に方向を変えた。こっちだから、じゃあ。それだけ言い残し、熊沢の背中は遠ざかっていった。取り残された瞭司と佐那は直進する。
「熊沢君って、高校の時に何かあったの?」
佐那は不機嫌そうに返す。
「さあ。でも、前からああいうところあったね。何考えてるのかわかんないっていうか。数オリの合宿でもみんなと距離置いてたし。気にしないほうがいいよ」
じきに佐那が住む十二階建てマンションの前に来た。彼女の部屋は最上階にあり、大学のキャンパスが一望できるという。瞭司の部屋からは隣家の植木しか見えない。
「斎藤さんも、三年までは数学やらないつもり?」
自動ドアをくぐろうとしていた佐那は首をかしげた。
「わかんない。これから考える」
瞭司はエレベーターに消えた佐那を見送り、歩き出した。
佐那のマンションからアパートまではすぐだった。大学の正門からも歩いて十分とかからない。理学部棟に負けず劣らず古びた二階建てで、外廊下の蛍光灯は大半が切れている。家賃はこのあたりでも特に安い。鍵を差しこみ、固い感触に抵抗して手首をひねると、がちゃりと大きな音がして解錠される。いつか鍵が折れるのではないかと心配だった。
瞭司の部屋は二階の角部屋だった。玄関のすぐ脇に背の低い冷蔵庫が押しこめられ、おもちゃのようなコンロと流し台がある。六畳半の狭苦しい和室には実家から送られた布団が敷いてあった。枕元の座布団と座卓の周囲には、計算用紙の束や教科書、論文の類が散乱している。まだ引っ越してひと月と経っていないというのに、何もかもが無秩序に散らばっていた。
服を部屋の片隅に脱ぎ捨て、ユニットバスでシャワーを浴びる。出の悪い湯水がシャワーカーテンを濡らした。居酒屋に行ったのは初めてだったが、あんなに煙草臭い場所だとは思わなかった。薬品の匂いがするシャンプーを手のひらに取って、頭髪にこすりつける。ドラッグストアの店頭で一番安かったものだ。
何となく、熊沢のことが気にかかった。熊沢は瞭司のことを天才のアピールをしていると言ったが、瞭司にはそういう熊沢こそ傷ついた数学少年を演じているように見えて仕方なかった。ふてくされた態度で不満を訴え、関心を惹こうとしている。
怒りや軽蔑より、もったいない、という感想が先に立った。
国際コンテストの日本代表になるくらいなのだから、熊沢も優れた〈数覚〉の持ち主のはずだった。その彼が数学を放棄することは大きな損失だ。もったいない。
泡立てたシャンプーを洗い流した。細かい泡が渦を巻いて排水溝に流れていく。目をつぶって温かい湯を浴びていると、ふと、目の前を何かがよぎった。目を閉じているのだから網膜が像を結ぶはずはないのだが、確かに何かを見た。
瞭司は顔を上げ、先ほど見えたものをふたたび呼び戻そうとした。湯を浴びたまま、注意深く思い出し、真剣に考える。あれはひらめきの予感だった。
脳裏に浮かぶのは、幾重にも絡みあう紐。鏡映群の紐だ。複雑に踊る紐たちは、やがて結晶構造を形成する。カッティングされたダイヤモンドのようにうつくしい結晶が、突如として瞭司の眼前に出現した。
あわててシャワーを止め、素っ裸のままユニットバスを飛び出した。もしかしたら、例の問題の手がかりをつかんだかもしれない。ムーンシャインの一般化。頭のなかはそのことで一杯だった。
身体から水を滴らせながら瞭司は座卓に取りついた。バスタオルで乱暴に手を拭き、ボールペンを握りしめる。左側に積み上げられた計算用紙を抜き取り、思いつくままにペンを走らせる。ペン先が座卓を叩く音だけが部屋に響き、五分としないうちに白紙が記号と数字で埋められた。隙間は英語のメモで埋められる。
肌に浮いていた水分が蒸発しきる頃には、手の親指の付け根が痛んできた。いつものことだ。爆発的に拡散するイメージに身体が追いつかない。瞭司が英語を学んだのは、少しでも書くスピードを速くするためだ。日本語で書けばどうしても漢字で時間を食う。ちまちまと線を引いているうちに、ひらめきに靄がかかってしまう。
痛みに耐えかねてわずかに手を止めると、急に寒気を感じた。四月中旬の夜はまだ全裸で過ごすには気温が低すぎた。下着と寝間着をまとい、毛布をかぶって座卓に向かう。
実在しないはずの抽象的なイメージなのに、触れるような現実感を伴っていた。
まだ日付も変わっていない。瞭司の前には長い夜が残されている。
熊沢のこともコラッツ予想のことも、きれいに頭から消えていた。
(この続きは是非、単行本でお楽しみください!)
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