君の顔では泣けない
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この顔も、体も、本当は君のものだから。『君の顔では泣けない』試し読み#5
圧倒的リアリティで「入れ替わり」を描く小説野性時代新人賞受賞作!『君の顔では泣けない』
9月24日に発売される小説 野性時代 新人賞受賞作『君の顔では泣けない』。
同級生と体が入れ替わって、元に戻れないまま15年が過ぎた――。
そんな驚きの設定とリアルな描写で発売前から話題沸騰の注目作です。
ありそうでなかった「入れ替わり」の物語、特別に試し読みをお届けします!
『君の顔では泣けない』試し読み#5
「母親は、なんつーか、厳しい。めっちゃ怒る」
「そうなんだ。怖い感じなんだ?」
「昔はそんなことなかった気がするんだけど、最近なんか、めっちゃ怒る」
その頃の母は、常に何かに
「お父さんは? どんな人?」
「幽霊みたいな人」
「えー、何それ。お父さんも怖いってこと?」
「違くて。存在感がない」
「影が薄いんだ」
「まあ、そんな感じ」
そもそも、父親と顔を合わせる機会が少ない。父がどんな仕事をしているのかはよく知らないが、大抵遅くまで帰ってこない。工場で働いていて、どうやら随分と忙しくしているらしい。知っているのはそれくらいだ。休日にはぼんやりとテレビを見ていたり新聞を読んでいたり、とにかく覇気がない。いつの間にかいなくなったと思ったらふらりと散歩に出ていて、そしていつの間にか戻ってきている。そんな人だった。
「弟くん、禄くんは? どんな子なの?」
「あいつは、馬鹿。ほんとめっちゃ馬鹿」
「めっちゃばかなんだ」
水村が笑う。弟とは仲が良い。喧嘩もよくするが、俺に懐いてくれている。十三歳にしては少し幼い顔立ちと性格をしている。
ちょっと前までは、俺たち家族はもっと仲が良かった気がする。家族旅行も年に一度は必ず行っていた。父がリストラされ、新しい職に就き、そして今の家に引っ越してから旅行は行かなくなった。母もパートを始め、家族としての時間がだんだんと消えていった。その頃中学生だった俺はそんなことは気にも留めず、むしろ
今も険悪というわけではないが、どことなく空気が張り詰めている。父のいない食卓で、母は小言を繰り返す。
「お前んとこはどんな感じなんだよ」
「うち? うちはね、お母さんは普段は優しいけど、怒るとめっちゃ怖い」
「あー。なんかそれ、分かるかも」
「ほんと? 分かる? お父さんは普段は結構無口なんだけど、お酒飲むとすっごいおしゃべりになる」
「へー、家でお酒とか飲むんだ」
「飲む飲む。お父さんは毎晩飲んでるよ。お母さんもたまーに付き合ったりしてる」
水村の家族の話を聞きながら、俺は胸の奥がざわつくのを感じていた。その当時はその理由を知ることができなくて、訳の分からぬまま苛立ちになりそうなのを抑えていたが、今考えればきっとあれは嫉妬心だったのだろう。穏やかで柔らかな家庭で育ち、一人娘として愛情を一身に受けている水村への。実際それは間違いではなかった。入れ替わってからの十五年間、俺は二人から充分過ぎるほどの愛情を受け取ってきた。
その他にも好物や食べられないもの、家の間取り、
「そういえば結構メールとか入ってて、無視しまくっちゃってるけどいい?」
ふと思い出して、ポケットに入れていた携帯電話を振る。
「えっ、ほんと。ちょっと貸して」
差し出された手に携帯電話を置く。そしてそれを開くと、どこか真剣な眼差しでその中身を確認する。自分の顔の男の瞳に、液晶の光が反射して映るのを俺はじっと見ていた。しばらくして、携帯電話を手の中へ返される。
「うん、無視しててだいじょうぶ。ていうか、中身とか読んでないよね?」
「さすがに読んでないわ。なんだよ、なんか読まれたらまずいやり取りでもしてんのかよ」
「いやあそういうわけじゃないんだけどさあ。彼氏とのメールとか、見られたら恥ずかしいじゃん?」
ちょっとからかってやろうと差し向けた軽口でにやついていた俺の顔は、水村のその一言で硬直する。
「え、なに、お前彼氏いるの」
「いるよー。べつの高校で、二つ上だから今高校三年生かな。っていっても、まだつきあって三ヶ月くらいだけどね」
異様にショックを受けている自分に驚いていた。うちのクラスにもグループは明確にあって、特に女子は見た目や雰囲気で分類されている部分が大きい。ちょっと不良っぽい女子が集まるグループはやはり見た目が派手な奴が多いし、あまり目立たないグループには小太りだったり眼鏡をかけていたり、あまり可愛くない女子がいるイメージだ。水村はどちらかというと後者に近い。背が低く少しぽっちゃりしていて、太い眉や厚い唇は田舎臭さすら感じさせる。同じようになんとなく
「うわ、なんだそれやらしいなあ。どうせエロいメールばっかしまくってんだろ。ヘンタイだ、ヘンタイ」
そんな俺の幼稚な冷やかしに、水村は顔を赤らめて
「そんなことしてないよ。私たち、キスとかもまだだし」
自分が赤面している姿を見て、一気にテンションが下がる。俺の顔でそんなことを言うな。気色悪い。
「まあ、メールは見ないから安心しろよ」
「うん。ありがとう」
気付けば、空が
「そうだな」
「なにかあったらすぐに連絡してね。私もしちゃうかもだけど」
「ああ、分かった」
「坂平くん、がんばろうね!」
明るく激励する水村の姿に思わず笑ってしまう。まさか自分に励まされる日が来るだなんて。
「おう。頑張ろうぜ」
右手を高く掲げる。水村がその手のひらを見て、きょとんとした顔をする。
「お前も右手おんなじふうにして」
俺に言われるがまま、水村は右手を挙げる。それに向かって、俺はハイタッチする。ぱあん、と高く触れ合う音が境内に響いた。
「わ。今のなんかすごい、すごい男子っぽい」
そうはしゃぐ水村になんだか急に恥ずかしくなってしまって、「まあお互い頑張ろうってことだよ」ともごもごと言い訳をする。
それじゃあ、とどちらからともなく立ち上がり、手を振って別れる。自転車のペダルを漕いで水村家への道を進んでいく。家が近付くにつれ、どんどんと強く
そして家に着く。車庫に自転車を停め、鍵をかける。飼い主の帰還に舌を出してはしゃぐペロの頭を撫で、ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。深く息を吸い、吐いて、ドアを開ける。
「ただいま」
声をかける。違和感なく自然に声を出せただろうか。たった四文字だけの言葉なのに気になって仕方がない。エプロン姿の水村の母親が、スリッパの音をぱたぱたと鳴らして駆けてきた。
「おかえり。遅くまでどこ行ってたのよ、ちょうどあんたの携帯に電話しようかと思ってたとこだったわよ。もう具合は平気なの?」
眉根を寄せて少し責める口調で訊いてくる母親に、俺はどうにか口の両端を持ち上げて、ゆっくりと答えた。
「うん、もう大丈夫。ありがとう、お母さん」
それが、俺の水村まなみとしての長い人生の始まりだった。もちろんその時は、そんなことはちっとも思っていなかったけれど。
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作品紹介『君の顔では泣けない』君嶋 彼方
君の顔では泣けない
著者 君嶋 彼方
定価: 1,760円(本体1,600円+税)
圧倒的リアリティで「入れ替わり」を描く小説野性時代新人賞受賞作!
高校1年の坂平陸は、プールに一緒に落ちたことがきっかけで同級生の水村まなみと体が入れ替わってしまう。いつか元に戻ると信じ、入れ替わったことは二人だけの秘密にすると決めた陸だったが、“坂平陸”としてそつなく生きるまなみとは異なり、うまく“水村まなみ”になりきれず戸惑ううちに時が流れていく。もう元には戻れないのだろうか。男として生きることを諦め、新たな人生を歩み出すべきか――。迷いを抱えながら、陸は高校卒業と上京、結婚、出産と、水村まなみとして人生の転機を経験していくことになる。
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9月24日発売予定単行本・第12回小説 野性時代 新人賞受賞作『君の顔では泣けない』(著・君嶋彼方)と、10月22日発売予定単行本・第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉受賞作『虚魚』(そらざかな)(著・新名智)という、ふたりの実力派新人のデビュー作を盛り上げるべく立ち上げられたプロジェクトです。 文芸界の新たな才能をお見逃しなく!