3月27日発売の「本の旅人」2018年4月号では、中山七里『カインの系譜』の新連載がスタート!
カドブンではこの試し読みを公開いたします。
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玄関を出るなり、寒風が肌を刺した。
「うーっ、寒っ」
押野はぶるりと身体を震わせると、犬小屋から愛犬リョータを連れ出した。二日間の雨で散歩はお預けだったせいか、リョータは喜び勇んで飛び出した。
午前六時、石神井の街はやっと目覚めたばかりで、まだ人通りもまばらだ。十二月を過ぎ、都内では既に冬将軍の足音が聞こえている。銀杏の葉が歩道を舞い、しんしんとした冷気が足元から忍び寄る。東京という街は雨も雪も少ないところだが、この分では今年降雪があるかもしれない。
二日ぶりの散歩にリョータは興奮を隠さない。いつもより燥ぎ、強い力でリードを引っ張る。
どこの犬もそうだろうが散歩のコースは決まっている。リョータの場合は自宅を出てから関町南二丁目を突っ切り、たけしたの森緑地をひと回りして帰る。往復で約一時間、今年六十六歳になる押野にとってもほどよい運動になる。加えて、家で古女房に生ゴミ扱いされるより、ずっと精神衛生上よろしい。
仕事をしているうちはそれなりに押野を立てていた女房も、定年退職の三日後には「掃除中は邪魔だから出ていってくれ」と言うようになった。退職金もあるのだから再就職先を探すのは一年休んでからにしようと目論んでいた押野は渋々ハローワークを訪ねてみたが、定年過ぎ資格なしの男に門戸を開いている企業は僅少だった。条件に合致する以前に求人がなく、やっと面接まで漕ぎつけても不採用となることが続いた。
次の勤め先が決まらないと女房は日毎に不機嫌になっていった。不機嫌な顔に晒されて愉快になれる亭主はあまりいない。家の中で顔を突き合わせているのが億劫になり、自ずと朝晩の犬の散歩は押野の役目になった。押野に異存はない。散歩に出ていれば押野も女房も顰め面をしなくて済む。おまけにリョータも喜んでくれる。いいことずくめではないか。
雨上がりの直後に寒波が来襲したため、水分を含んだ土には霜柱が立っている。踏み込むとぱりぱりと音を立てるのが面白いのか、リョータは跳ねるようにしてリードを引く。
「そんなに急ぐな、リョータ。公園は逃げやせん」
しかしリョータは押野の命令を無視して、先へ先へと駆けていく。押野はリードを放さないようについていくのがやっとだ。
人も犬も吐く息は白く、薄闇の中にうっすらと浮かび上がる。この時間に散歩しているのは自分たちだけで、まるで道路を独占しているような充実感がある。
関町南二丁目を抜け、ようやく押野たちはたけしたの森緑地に辿り着く。
緑地の銀杏が独特の匂いを漂わせる。昨夜までの雨で、銀杏の葉が地面を黄色く染めている。
いつもなら雑木林を回り込んでいる歩道を一周して折り返すはずだった。
ところがリョータの様子が少しおかしい。歩道の中途で足を止め、束の間鼻をひくつかせたかと思うと、今度は雑木林に向かっていこうとする。
「おい。どうした、リョータ」
引き寄せようとした時、道の段差に足を取られ、ついリードを放してしまった。
自由になったリョータはひと声吠えて駆け出していく。
「リョータっ」
押野の制止を振り切ってリョータは雑木林の中に消えてしまった。飼い主としては後を追わざるを得ない。
「今度は何だっていうんだ、全く」
ぶつくさ言いながら、押野も雑木林の中へと分け入っていく。成犬になっても未だにリョータは好奇心旺盛で、これはと思うものを感知したら近寄らずにはいられなかった。
雑木林はこぢんまりとしているが、その分木々が鬱蒼と茂っている。寒風を防いでいるため、外よりは空気が尖っていない。真下は落ちた銀杏の葉で黄色いカーペットのようだ。
リョータの姿はすぐに見つけられた。雑木林のほぼ中央、人目からも陽光からも遮断された場所で一心不乱に地面を掘っている。お蔭で銀杏の葉が周囲に散らばり、お世辞にも美しい光景ではない。
公共の場所を汚して平然としていられるほど、押野は図太い神経を持ち合わせていない。後で埋戻しをしなければと思いながらリョータに近づいていく。
だが、至近距離に入って足が止まった。リョータの鼻先にある物体が視界に入ったからだ。
銀杏の葉が撒き散らされた中心から、人の手首がにょっきりと突き出ていた。
色を失い、泥塗れになっていても、指の形や爪の歪さでマネキン人形などではないことが分かる。
押野はその場で氷漬けになったように立ち尽くす。
一方、リョータは早く褒めてくれと言わんばかりに千切れそうなくらい尻尾を振っていた。
(このつづきは、「本の旅人」2018年4月号でお楽しみください)
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