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試し読み

【新連載試し読み】冲方丁『麒麟児』

11月13日発売の「小説 野性時代」12月号では、冲方丁、高杉良、東山彰良、本多孝好の4大新連載がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。
本日は冲方丁『麒麟児』新連載第一回を公開いたします。

慶応四年三月。迫りくる官軍を目前に、江戸を巡る最後の戦いが幕を開けようとしていた――。
『光圀伝』(第三回山田風太郎賞受賞作)より五年、幕末を舞台に男たちの生き様を描く待望の新連載!

 いい風が吹いていた。
 全身に濃密な潮の香りを浴びているせいで己の肌まで真っ青な海の色に染まりそうだ。
 透き通るような快晴である。だが気分はひどかった。最悪といっていい。
 勝麟太郎(かつりんたろう)舳先(へさき)にしがみつくようにしながら、船に波濤(はとう)がぶつかるたび、胃の()まで上下に揺れる思いを繰り返し味わっていた。
 船については多くの知識を修めたし、操船の訓練にも何度となく立ち合った。軍艦奉行のお勤めを頂戴する以前から、船を見るだけでわくわくしたものだ。最新鋭の船に乗って異国の地に赴くことを思うといまだに血が沸騰するような興奮を覚える。
 だが現実には、船旅は勝に容赦のない試練を与えた。船酔いである。訓練でもどうにもならない。個人の体質によるものだった。これだけは体が慣れてくれるまで如何(いかん)ともしようがない。だが勝の体は一向に船の揺れに慣れてくれなかった。船底で腹這(はらば)いになろうと、甲板に出て体を動かそうと、ふと息が詰まる感じに襲われるや、次の瞬間にはぞっとするような虚脱感とともに激しい吐き気がこみあげてくるのだ。
 今も、そうだった。いや、こいつはとりわけひどい。勝は、ぎらぎら輝く波濤を睨みつけ、いったいなんだってこんな目に遭うのか、どんな因果の種がこのおれの体に植わっていやがったんだと無窮の空へ(わめ)き散らしていた。
 そうしていると空の彼方(かなた)に人の顔が浮かんで見えた。公家(くげ)好みの化粧などしている。顔色は悪く、いかにも憔悴(しょうすい)した面持ちだった。洋服で、お飾りの刀を肩からかけていた。
 大坂から逃げ帰ってきた、徳川将軍・慶喜公だった。
(頼む、安房(あわ)――)
 しわがれた声で慶喜の顔が言った。実際のところ慶喜はそんなことを言ってはいない。単なる勝の思い込みである。現実の慶喜は、どれほど窮地に立たされようとも内心を容易(たやす)く他人に話す男ではなかった。
 勝にしても、今さら将軍様に安房などと官名で呼ばれることに何の気概も感じてはいなかった。のちに勝は「安房」から「安芳」に通称を換えている。「あんほう」という読みにかけてのことで、「あほう」とも読める、と諧謔(かいぎゃく)したものだ。
 いまや将軍をはじめ幕府高官の官位はことごとく剥奪されている。譜代大名たちの中には自分から官位を捨て、朝廷との縁を切って徳川家につくと吠える者もいる。
 そもそもそれ以前に、勝を無役に等しい身にしたのは慶喜なのである。軍議に参加することはかなわず、おかげで幕府や諸藩の動きをただ傍観するしかなかった。
 慶喜もその周囲の人間も、誰も彼も、思い切り罵ってやりたかった。だが言葉が出ない。込み上げてくる吐き気で息が詰まった。
 気づけば海も空も真っ暗になっている。慶喜の顔も見えない。びゅうびゅう吹き(すさ)ぶ風の音で耳がどうにかなりそうだ。
 ――こりゃあ、たまんねえや。
 すっと腕の力が抜けた。大波がぶつかってきた拍子に、しがみついていた舳先から振り落とされた。勝は激しい嘔吐感に襲われながら海へと転げ落ちた。
 慌てて水をかこうとして、手が、畳をばしんと叩いた。
 その音で、はたと目が覚めた。
 咄嗟(とっさ)に己がどこにいるのかわからなかった。
 わからないまま、夢を見ていたことは理解した。暗い海に落ちたのではない。そのことに安堵したが、忌々しいことに吐き気は夢から醒めた後も消えてくれなかった。
 がばっと身を起こした。
 そうしながら、今いる場所が、自室であることを確認した。御城でも陸軍所でも、あるいは築地(つきじ)の海軍所でもない。自宅の部屋である。
 確か、夜っぴて市内をかけずりまわったため、ちょっとひと休みしたくて、布団も敷かずに自室の畳の上で大の字になったのだったか。いや待て、御城に行ったんだっけか。
 うろ覚えである。このところ毎日が忙しすぎて、朝に誰と会ったか、夜になるといまいち思い出せなくなることが多々あった。
 それでもなんとか思い出そうとしながら、足早に部屋を出て、(かわや)へ入った。
 入って後ろ手に戸を締めるなり、狙い澄まして、げえっと吐いた。
 二度三度と嘔吐(えず)くうち、気分が良くなってきた。
 もう大丈夫かなと思ったが、念のため最後にいっぺん、おえっとやっておいた。胃液しか出なかった。だが気分はすっきりした。
 念入りに吐いてのち、口元と顔の脂汗を拭い、涼しい顔になって厠を出た。
 我ながら慣れたものである。御城でもお勤め先でも、たいてい気づかれない。家人などは勝が普通に厠に入って出てきただけと思っているから心配もしない。いや、近頃は日に一度は命を狙われるのだから、勝に関しては心配することが多すぎて厠のことまで気にしていられないのかもしれない。
 もとから勝は人にあまり気を遣わない。そのせいで図太いと思われている。玄関先で護衛についてくれている従卒たちも、勝の命は心配するが精神については気にしていない。
 お陰で、この吐き癖についてとやかく言われないのが楽だった。
 勝〝安房守(あわのかみ)〟こと麟太郎、あるいは海舟、このとき四十六歳。
 小兵(こひょう)だが剣術で鍛えた体躯はどこも引き締まっている。気力胆力は横溢(おういつ)しているといっていい。それなのに、重大な局面が迫ると、決まってよく吐いた。神経が弱いと思われるのがしゃくで人には話さないが、こればかりは船酔いと同じで、どうしようもなかった。
 気が(たか)ぶり、血が沸くと、胃がひっくり返って中身をぶちまけたがるのである。たっぷり吐けば体も気分もすっきりするのが船酔いと違うところだった。吐いた後はなんの異常もない。むしろ士気快然となることの方が多い。
 薄暗い部屋に戻り、再び自室の畳に腰を下ろしたとき、もう寝る気は失せていた。
 ――確か、大船に乗っていた。けしからんほど揺れる大船だったな。
 大海原を見た気がするので、きっと咸臨丸(かんりんまる)に乗って太平洋を横断したときの記憶だろう。五年か六年ほど前だったっけか、とひとりごちたが、実際は八年前である。そういう細かい年数はすぐに忘れる男だが船酔いの辛さは骨身にしみている。船内ではほとんど病人のように過ごし、ずいぶん悔しい思いをさせられたものだった。
 それに比べれば、今は心気も澄み、肉体も健全そのものである。むしろ体が火事場の馬鹿力を出そうとして、勢い余って胃をひっくり返してしまうのだ。そう理屈をつけ、勝手に納得していた。
 ――そういや、なんだか、えらく虫の好かねえのが出たような。
 夢で見た誰かの顔を思い出そうとした。ああ、慶喜公か。思い出せてすっきりした。
 ――このおれに、拝むような目を向けていたっけか。
 誇張ではなかった。江戸に帰った慶喜は数日にわたり、それまでの態度からは考えられないくらい、人に意見を請うた。相手が誰であれ意見を聞くというので、建白する者が後を絶たなかった。ひたすら休まず聞き続けたため、ただでさえ弱っていた慶喜がいっそう憔悴するさまを小姓たちがしきりに心配したという。
 勝は割と最初の方に意見を述べた。御城でではなく浜の海軍所でである。そのとき自分は何を口にしたか。
「大政奉還の大義を救い給わん」
 確かそんなようなことを言った気がする。私心私欲を排して(おおやけ)に尽くし、上下の身分を廃して真に有能な者たちによる大会議で国政を再生させ、攘夷などという絵空事を忘れて諸外国と対等たる開国を実現すべきである。いつも自分が考え、人に話すことを、そのまま慶喜相手にも述べたはずだった。
 それが、約二ヶ月前のことだ。
 勝の言を、慶喜が真面目に受け取ったかどうかはわからない。だがその後、慶喜が断行した城内諸役の大異動において、勝は軍艦奉行から海軍奉行並に昇進させられ、かと思えば陸軍総裁に任じられた。
 陸軍所は、幕府の主戦主張派の筆頭格だった。主戦の根拠は、フランス人を教師として迎えていることにある。フランスは幕府支援を約束し、慶喜に決戦を促そうとしていた。
 勝はといえば、そんなフランスが大嫌いで、陸軍局の面々を心底うとましく思う、和議交渉派の一人である。その勝を、あえて陸軍総裁に据えた。慶喜の意図は明白だった。
 フランスを切れ。主戦派を切れ。何とかこれ以上の戦を止めろ。和議にこぎつけろ。
 ――まあ、このおれも、なかなか骨が折れた。
 これまでの自分の働きを漠然と思い返した。ついでに今日の日付も思い出した。勝にしては珍しいことだった。いつも暦というものに無頓着で、大事なことを記録しておこうとすると、たいてい日付がわからなくなり、適当に書くという悪癖があった。
 だが今は、ほんの数日、あるいは数刻で、状況が一変しかねない危急のときである。そのせいで普段はいい加減な勝の日付感覚も正確だった。
 ――慶応四年(一八六八年)の三月十二日。
 勝は立ち上がって雨戸を開けて縁側に出た。明け始めた空の下で、びゅうびゅう風が吹いている。思わず、不敵な笑みが浮かんだ。
(――いい風じゃねえか)
 江戸の空っ風だ。からからに乾き、濛々(もうもう)砂塵(さじん)を巻き上げ、ときに土くじりなどと呼ばれる旋風と化す。この大都市が築かれて以来、ちょっとした火種を、たびたび大火災へと変貌させてきた風だった。
 (ほこり)っぽい風の中に歩み出て、くっくっと笑った。
「こいつはよく燃えるぜえ。なあ、おい」
 軍艦にまつわるお勤めのおかげで天候を読むすべには()けている。雨になる気配はない。少なくとも数日は空っ風が吹き続けるだろう。
 江戸を業火で包むには、もってこいの天気だった。

(このつづきは、「小説 野性時代」2017年12月号でお楽しみいただけます)
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