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試し読み

【新刊試し読み⑥】史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸! 松岡圭祐『出身成分』

6月28日発売の『出身成分』(著・松岡圭祐)より冒頭を公開!
――貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。
(第1回から読む)


>>第5回へ

 ミンチェは無言でアンサノの手もとを眺めた。さっさと箸を手にとってよ、目がそううったえている。
 最年長者が箸を持たないかぎり、ほかの者は食事に手をつけられない。いちおうマナーは守っているといいたいのだろう。アンサノは金属製の丸箸をとりあげた。「保安署勤めで帰りが遅くなりがちなのは、申しわけないと思ってる。いえた義理じゃないが、おまえも気をつけてくれないか。保安員の娘にふさわしい生き方を……」
いただきますチャルモクケッソヨ」ミンチェはすかさず箸を手にし、白菜キムチをつまみあげた。
 チャルモクケッスムニダと、ていねいな言葉遣いをすべきだ、そう叱りたかった。だがタイミングを逸した。ミンチェはもう父親と目をあわせようとしない。微笑も浮かばない。
 妻スンヒョンの二十年前にそっくりだとアンサノは思った。そのスンヒョンは野菜スープを運んできた。仏頂面で食卓のわきに座る。しぐさも娘にうりふたつだった。
 褐色のレディススーツは安物の古着だが、外出着にはちがいない。見慣れないネックレスを身につけている。本物の真珠だろうか。模造品にしては光沢がある。
 アンサノがたずねようとしたとき、スンヒョンが一瞥してきた。娘と同じまなざしで発言を制してくる。
 黙って箸を進めざるをえない、そんな状況に思えた。主食は雑穀。きのうはトウモロコシを炊いたものだった。ほかに大根の千切りの和え物。ソーセージや卵焼きにありつけたのは、ずいぶんむかしのことだ。
 飢饉のころも食いっぱぐれがないとされた保安署だったが、いまは食糧配給が滞っている。給料は雀の涙、月に一キログラムの米が買えるかどうかだ。かといって転職は許されない。無職も処罰の対象となる。人民保安部政治大学を卒業し、保安署員になったというのに、むしろその役職に縛られている。暮らしぶりを改善できない。
 妻のスンヒョンが化粧品を売る店で働きだしたのは、三年前の春だった。娘ミンチェの義務教育が終わるまで家計を支える、彼女はそういって許しを求めた。発覚すれば問題視されるが、いまや保安員の妻なら誰でもやっていることだった。
 生活を維持できているのは妻のおかげだ。ネックレスを買うぐらいの贅沢はあってもいいのかもしれない。だが夫にひとことの相談もないのはどういうわけだろう。
 やはり苦言を呈したくなる。アンサノはスンヒョンを見つめた。「ちょっと話せないか」
 かすかな困惑のいろをのぞかせ、スンヒョンが応じた。「なに?」
 どのように切りだすか、一瞬の迷いが生じた。すると野太い男の声が耳に入った。おはようございます。
 同僚なのはあきらかだったが、またしてもタイミングが悪い。わずかに苛立ちをおぼえたとき、ミンチェがこれ幸いとばかりに箸を食卓に戻した。すでに食べ終えていた。もともと時間がかかるほどの量もない。ミンチェがそそくさと退散していく。スンヒョンも同様で、腰を浮かせ片付けだした。いつものことだ。からになっていないアンサノの器だけ残し、ほかを盆に載せ、流しへと運んでいく。妻も娘も、先にでかける準備を整えてしまった。
 気づけば食卓にひとりきりだった。アンサノは唸りながら箸を置いた。この歳になり、腰痛が悪化している。動作をおっくうに感じる。鬱屈とした気分とともに立ちあがった。
 部屋の戸口をでると、すぐに玄関だった。とはいえ外に面した扉があるだけの手狭な空間でしかない。解錠し、扉をそろそろと開ける。わりと近代的な住宅地内だが、この長屋は路地裏に面している。ジャンパーを着た男が立っていた。
 二歳年下の丸顔に疲労感が漂っている。カン・ポドンは大判の封筒を差しだした。「同志。きみに頼まれた資料、徹夜でなんとか揃えた」
 ずいぶん薄っぺらい。アンサノは失望とともに受けとった。「これでぜんぶなのか?」
「ああ。イ・ベオクの妻による離婚裁判で、訴えが却下された件。それにウンギョが稲穂を盗んだ件、これは事件化されてなかったが、役所にブロック塀建築申請とその理由として記録があった。それにウンギョの首吊り自殺」
 封筒の中身は実際、三枚だけだった。アンサノはつぶやいた。「どれもスカスカの書面だな」
「集落についての役所仕事なんてそんなもんだ」ポドンがうながすようにささやいた。「同志」
 しばしポドンの目を見かえし、催促されているのに気づいた。アンサノはポケットから財布を取りだし、五百ウォン札を渡した。
 ポドンは辺りを見まわしながら、紙幣をしまいこんだ。「感謝する、同志」
 友情と頼みごとの謝礼は別ものだった。もともと職場の同僚とのあいだに、友情が成立しているかどうかも疑わしい。きみという二人称は他人行儀で、会話も常にぎこちない。それでも月給の十分の一を払った以上、感謝の念は伝わっているだろう。
 金を受けとっておきながら、ポドンはいまさら申しわけなさそうな面持ちになった。「すまない、アンサノ。きみのところも、そんなに余裕はないんだろ?」
 アンサノは資料に目を通した。「二十年前、ウンギョは稲を盗んだ疑いをかけられ、家ごと塀で隔離された。二年後、ウンギョは首を吊って自殺。彼女の犯行疑惑を告げ口した夫のグァンホは、それから七年後に殺害された。同時に娘のチョヒも強姦被害に遭った。第一発見者のイ・ベオクは悲鳴と騒音をきき、塀のなかの一本道をペク家に駆けつけたが、途中誰にも会わなかったと証言した」
「ベオクは誰かを匿ってると疑われ、教化所送りになった。素行不良のせいで、いまだ出所できず。きみが調査したとおりだ」
「調査だなんて。あんなのは調べたうちに入らない。ペク家の惨劇以前には、イ・ベオクが妻に暴力を振るい、離婚裁判を起こされている。裁判所は離婚を認めなかったため、妻は憤り、子供を連れ家出した」アンサノは思わず吐き捨てた。「たった二軒の家に、これだけのことが起きてるんだぞ。なのに情報や事務処理の一本化すらおこなわれてない。しかも当時の捜査担当者名すら記載なしときてる。うちの署はいったいなにをしてきた」
「しっ。声が大きいよ」ポドンはあわてぎみにいった。「村巷そんこうを訪ねては、不正を見逃す代わりに賄賂を受けとる。それが仕事だと誰もが思ってきた。いまさら大昔の捜査を見直せといわれても、ろくな記録が残ってるはずもない。そもそもちゃんと調べてもいないんだから」
「ちゃんと調べもせずに、被疑者を犯罪者ときめつけるなんてどうかしてる」
「たいてい本人の自白がとれてる。それ以上の証拠はないだろ?」
 自白か。便利な言葉だとアンサノは思った。
 たしかに保安署の取り調べでは自白が重視される。被疑者が口を割ったら、内容を書面にまとめ、裁判所に提出する。黙秘の場合、あらゆる手段を講じ、なんとしても自白を引きだす。疑惑の度合いにもよるが、取り調べ担当者による暴力はあるていど容認される。薬物使用の許可すら下りる。
 常に自白が必要とされる反面、その裏づけ捜査は不要だった。物証も求められない。事件の長期化と拡大を防ぎ、早期解決を図ることで、秩序の安定が果たされる。大学でそのように教わり、署でも実践してきた。被疑者の自白さえあれば、裁判も迅速に結審し、ただちに刑が確定する。それが司法における伝統とされた。
 証拠の収集もないわけではない。気まぐれに実施されることがある。現にペク家の件でも、強姦されたチョヒを病院で検査している。庶民の事件にしてはめずらしい対応だったが、おかげでイ・ベオクの犯行でないとわかった。だがベオクは結局、長年の教化所暮らしを強いられている。
 自白が得られず、証拠も揃わなくても、なんらかの理由をつけ被疑者を刑罰に処す。捜査はそれで終了だった。真相も真犯人も追及しない。手柄を立てたところで見返りがないのだから、誰も現状を変えようとするはずがない。
 組織内での地位は固定されている。出身成分のよさと上役への賄賂なくして、昇進や昇給は期待できない。よって保安署員はその場しのぎにのみ腐心する。自分の仕事に疑問は抱かない。この国の法は、あくまで統治のための法だ。権利の体系ではない。人民にとっての事実など二の次とされてきた。自白さえあれば、それこそが事実だった。
 だがそんなことでは真相に迫れない。
 書面の一部に目がとまった。気になる記述があった。アンサノは読みあげた。「故ウンギョの娘チョヒ、長興里チャンフンニ安復アンボク集落に移住。肅川郡のなかか。そう遠くないな。主体七九年生まれだから、いまは二十八歳だ。会えば話がきけるかもしれない」
 ポドンが表情を険しくした。「やめといたほうがいい。過去の事件を洗い直すだけでいいんだよ」
「だから洗い直してるんじゃないか。いまの俺たちの職務だ」
「なにも問題なければ、問題なかったと報告すればいい」
「問題があるから真相を探ってる」
「十一年も前に起きた事件の被害者に会うなんて、やりすぎだと思わないか」
「思わない。犯人はわかってないんだ。南だったら……」
 あわただしい動きがあった。ミンチェが靴を履き、外へでていこうとする。やあ、とポドンが声をかけたが、ミンチェはぶっきらぼうに、おはようございます、そう応じただけだった。スンヒョンもあとにつづいた。戸締まり忘れないでね、そのひとことを残し、スンヒョンも屋外に消えていった。
 胸にぽっかり穴があいたような空虚さとともに、アンサノは妻子を見送った。家族内での序列を思い知らされた、いつもながらそんな気分に浸りきる。
 ポドンが声をひそめ告げてきた。「南だなんていうな」
「方角の話だ。南朝鮮とはいってない」
「おい、よせよ。保衛員は家族にも抜き打ちで質問するぞ」
「妻や娘は俺を売ったりしない」
「みんなそう主張する。ひっぱられる前まではな」
「いいから黙ってろ。俺は職務に従ってるだけだ。南には保安省じゃなく警察組織がある。彼らのやり方は興味深い」
「きかなかったことにする。もう方角の話じゃないだろ?」
 監視体制は緩んでいる。どこの国のことかあきらかでも、南という表現で通せば、ただちに拘束される心配はない。いまや保衛員による連行にも一定の基準がある。かつてのように悪意が感じられるというだけで、告発の対象にはなりえない。是と否のあいだに横たわる境界線を、人民の誰もがわきまえている。
 アンサノは紙の裏表を眺めまわした。「チョヒは犯人の顔を見ていないのか。ここには書いてない。直接会って問いただすだけの価値はある」
 ポドンは硬い顔のままだった。「その資料を探してるとき、コク課長が声をかけてきてな。きみへの伝言を頼まれたよ。ほどほどでいいといってた」
「どういう意味だよ。正確を期すよう命じられてるのに」
「わかってるだろ? きみのやり方は、従来の方針に対する批判に見られかねない」
「過ちを否定して悪いか」
「当時の保安員にも、あるていど尊敬の念をしめしておいたほうがいい。みんな命令に忠実だっただけだ」
「賄賂の横行もか?」
「生きるための知恵だ。きみが金銭を受けとりたがらないのは知ってる。賄賂も副業も本当はいけない。ただ一時的に必要とされてる」
「社会の機能不全が是正されるまでか。いつになるんだ、それは」
 ポドンがうんざりした表情で、説得の口調に転じた。「同志。俺は仲間として心配してる。事情が事情だけに、むきになってるように見える。保衛員から目をつけられやすい。そこは自覚してるんだろ」
 神経に障る物言いだった。細い針で肌を刺されたような痛みが走る。できればききたくなかった。アンサノは書類に目を戻しながらつぶやいた。「親のことは関係ない」


(つづきは本編でお楽しみください)

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最新号 2019年9月号

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