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連載

真藤順丈「ビヘイビア」 vol.4

技能実習生の女性が、謎の死を遂げた。移民国家・日本の様相を直木賞作家が描く! 真藤順丈「ビヘイビア」#1-4

真藤順丈「ビヘイビア」

 水天宮前通りを北上して、国道四号線に乗った。同乗する男をつぶさにミラーで確認する。あれだけの全力疾走をつづければ消耗もするだろう、あえぐように肩で息をして、馬や猫のフレーメン反応のように口を半開きにしている。中国系でも東南アジア系でもないようだ。中央アジアのほうか? 旧ソビエト連邦のカザフスタンとかキルギスとか。城之内はそれらの国の違いもわからなかった。
「もう……しかない」
 すると男が、抑えこんだものを吹きこぼすような声音でつぶやいた。
 ミラーで見ると、濃い眉や目鼻がいびつに引きつっている。
「何か言ったか」
「もう二千円しかない。乗るお金、ないよ」
 城之内は拍子抜けして鼻を鳴らした。なりゆきで乗ることになったのに運賃のことを気にするとは律儀なやつだ。日本語もそこそこわかるようだし、警戒心でいたずらについたてを立てることもない。この男とは話ができそうだと思った。
「タクシー代なら、支払いは万代さんだ。あの人がタクシー券を切ってくれる」
「そんなのありますか、タクシー券」
「あるんだよ、だからあんたは一円も払わなくてもどこまでも行ける」
「だったらあります、お願い、行きたいところ」
「ああいや、好きなところに連れていこうってわけじゃない。俺の仕事は言われたところにあんたを運ぶことだ。つまりあんたは客じゃなく、万代さんの荷物ってわけだ」
「だけどタクシー、お願いのところ行くでしょ」
「この場合は、そうじゃないんだよ」
 男の表情に影が差して、引き潮のような沈黙が生じた。不満をくすぶらせ、胃になまりを飲んだように返事をしなくなる。荷物という言葉のニュアンスが通じてしまったか、うかつな物言いがうしろめたくなって、城之内は話の接ぎ穂を探した。
はどこなんだ、あんた」
「ウズベキスタンです」
「こっちは、日本は長いのか」
「三年になるよ」
 詮索したってしかたがない。袖擦りあうも他生の縁というが、運転手と乗客とでは防犯カバーに阻まれて袖すらもふれあわない。だから通常であれば、乗せた相手の素性をあれこれとくことなんてありえなかった。
 ウズベキスタンについての知識は、皆無に等しかった。地図も指差せないし、首都もさだかにできない。それにひきかえ後ろの男はこっちで仕事に従事し、こっちの慣習にも通じているわけで、それだけで引け目をおぼえないこともない。
「あんた、名前は?」
 訊いてからそれはどうなんだ、と自問した。逃亡した実習生は氏名や素性を名乗りたがらないのではと思ったが、
「ガフール」と即答が返ってきた。「ガフール・ジュノルベク。みんなガフと呼ぶよ。ガフはシャンディ・ガフのガフ」
 そこまでが定型句らしかった。名乗るのにためらいはなかった。こっちが色眼鏡で見ているだけかと城之内は思った。職場から逃げだした技能実習生は、契約違反者ではあっても、罪を負った指名手配犯というわけではないのだ。
「運転手さん、あなたは」とガフが訊き返してきたので、
「そこに載ってるよ」城之内は乗務員証を指差した。
「サトシ・ジョノウチ」
「そう、それが俺だ」
 てんじんしたで右折して不忍しのばず通りに入った。真夜中のボート池や上野動物園、なかせんの街並みが通り過ぎていく。ガフの受け答えにはよどみも気負いもなかった。ウズベキスタンのなかでも古都にあたるサマルカンドという都市の出身であること。ウズベキスタンは多民族国家だが、ガフはテュルク系ウズベク人だということ。ひとたび水を向ければ、自分からよくしゃべってくれる男だった。
「ジョーノチさん、いまどこいますか」
「上野を過ぎたあたりだ、あとすこしだ」
「どこまで行きますか、このタクシー、新大久保は行きませんか」
「そっちは通らない。こまごめはわかるか、万代さんが言うには、駒込のある場所まで行けばあんたは安全らしい」
「みんなどうしますか、一緒にいたでしょ」
「あんたのお仲間か。万代さんが現場に来たんだ。部下のやつらも追っていったからフォローするはずさ。俺はいま携帯が使えないんだ。画面も映らない、連絡も取れなくて大変なんだが、ああくそ……やっぱり映らないな。そんなに心配しなくても集合場所にちゃんと集まってくるさ」
 本来であれば、関東近郊の大型複合施設から逃げてきた〈六人〉全員をこのタクシーに乗せるはずだったこと、自分がまごついていたせいで混乱を招いたことはすすんで話題には出さない。
「それはなんですか、行くところ」
「俺もそれは知らない。新しい仕事が見つかるまであんたらを保護してくれる、セーフハウスのようなところじゃないかな」
 受け入れ機関から逃げた外国人が駆けこむのは、同郷者たちのコミュニティか労働者支援団体が営んでいる保護施設と決まっている。あの万代が差配している以上、後者であっても表立って看板を掲げられない団体かもしれないが。
「もうすぐ着くぞ」と信号待ちで城之内は言った。「良かったら、これ」
「はあ、なんですか」
「二千円しかないんだろ」
 ちょっとしたせんべつのつもりで、城之内はつなぎのおにぎりやパックの巻き寿司とともに買っておいたペヤングのカップ焼きそばを差しだした。「三年もいれば食べ方はわかるよな、日本の名産品だ」と偽りのない本音を添える。
「これ、くれますか」
「着いたさきで食べてくれ」
「ジョノウチさんのご飯でしょ」
「俺のぶんは、他にもあるから」
「それはどうも、ありがとう」
 城之内にしてみれば大盤ぶるまいだが、期待したほどの喜びや感謝は返ってこなかった。受け取ったカップ焼きそばをひざに載せたガフは「ここはいま、どこですか」と現在地をしきりに気にしている。
「着くのまだですか、車、気持ち悪いよ」
「あともうちょっとだ、我慢してくれ」
「トイレ、行きたいです」
 どこかで停めてくれ、と言って聞かないのでコンビニに立ち寄ったが、貸してもらえなかったといって戻ってきた。やむなく公衆トイレのある近場の公園を探す。降りる寸前にガフは運転席を振り返って、
「ありがとう、ジョノウチさんはとてもいい人。だからあなたも心配しない。奥さんや子供ともまた会える、ですよ」
 すぐに返す言葉が見つからなかった。ガフはそそくさとトイレに走っていく。妻や子のことなんて話題に上げていない。どうしてわかった? られるようなことを言っただろうか。万代から個人情報を吹きこまれたのでなければ、優れた観察眼の持ち主ということになるのか。それにしても別居のことまで見抜かれるなんて、駒込に着くまでには種明かしをさせてやると息んだが、ガフはいつまでたっても戻ってこない。
 様子を見にいくと、その姿はトイレや公園のどこにもなかった。ちょうど反対側の出口からも街路に出られるようになっている。
 あいつ、逃げたのか?
 危地を逃れるために、城之内とその車を使えるところまで使って。支援者のもとに身を寄せられるのに、ふたたび逃げる意味がわからない。他にもっと大事な約束や、自らに課した目的でもあるのだろうか。
「あの野郎、なんでこれを……」
 そしてトイレの前の水飲み場には、餞別に渡したカップ焼きそばが封も切らずに放置されていた。
 こんなものは要らない、施しは受けないということか。車内の会話でそれなりに打ち解けたつもりでいたのに、ささやかな厚意に泥をかけられたようで、城之内は顔の奥がカッと熱くなるのを感じた。野良の犬猫に餌を恵むような態度と受け取られたのか、向こうは車の中で窮屈な思いを抱いていたのかもしれない。俺は独りよがりな優越感のこちら側から相手を見ていたのかもと思った。たとえば志穂なら、このてんまつを見ていったいなんて言うだろう。
 ガフール・ジュノルベク、黙って消えてしまわなくてもいいだろう、お前はどこに行くつもりなんだ?
 城之内はあごを上げて、うわずる呼気を夜の風に溶かした。
 そして俺は、万代に何をされるんだろう?

      §

 もう二千円しかないし、一ケ月とちょっとしかない。
 ガフール・ジュノルベクは切羽詰まっていた。
 所持金は尽きかけていたし、睡眠も食事もまるっきり足りていない。
 何よりも在留の許可が、ほどなく期限切れを迎えようとしていた。

 タクシーの窓から見上げる東京のビルは、せいぜい十階建てぐらいのものまで二倍か三倍の高さに見えた。それらの形はいやに鋭く、異郷であることをさっぴいても素っ気なくて、温もりを欠いている。壁という壁はくすんだこう岩の色合いで、装飾も何もかもがうらぶれてわびしく、建築現場のクレーンは首なしの竜の死骸のようだった。
 深夜の路上を歩いていても足元がふらついた。ずっと目を閉じずに洗濯機の中を覗きこんでいたかのようで、道路の標識や案内表示がわけのわからない暗号にしか映らない。誰かの大きな手で、腸を揉まれ、内臓の形をいじられている感覚が消えない。ガフは疲弊や空腹にもまして、確かに恐怖に襲われていた。腹を突かれるような焦燥とともに土地勘のない蒸し暑い街路を抜けていくのは、大量の汗のなかを必死に泳ぐ競泳選手になったような心地がした。
 新大久保までの経路をたどるのには、Facebookを通じた友人とのやりとりがものを言った。職安通りから路地に入ったところにある四階建ての雑居ビル。狭いベランダにカラフルな洗濯物がられている。やっと着いた──一階の玄関で靴を脱いで、ぎしぎしと音が鳴る階段を上がる。各階には四、五部屋ずつあって、トイレやシャワーや台所は各階にひとつずつしかない。六畳ほどの部屋に粗末なベッドがL字形にふたつ置かれ、ネパールやベトナム、バングラデシュ、インドネシアといった国の出身者が、かいこだなのようなその場所で身を寄せあっていた。
「ファル、腹が減ったよ」
 声を出すと、がちがちという歯の音が頭の奥で際立った。
 おなじサマルカンド出身の、ファル・ムロドが出迎えてくれた。ひげを生やした小肥りで童顔の男で、あと十キロも瘦せれば、日本のテレビ番組に出ているジャニーズアイドルに見えなくもないはずだ。
 ファルや住人たちで金を持ち寄ってくれて、スパイスやバターオイル、野菜や豆や袋麵を買ってきた。三階の台所を借りてガフが料理をする。ひよこ豆のペースト、でたほうれん草とヨーグルトのサラダ、麵料理の〈ラグマン〉はうどん用の麵を代用して、硬めアルデンテに茹でたものに玉ねぎや人参、レーズン、メギの実、の代わりの魚肉ソーセージをかけて冷めないうちにはふはふとかっこむ。ホールスパイスのクミンの隠し味が効いたか、これはうまいな、とファルに賞讃された。
「しかし本当に来るとはなあ、ガフ」
「来たよ、ぼくは噓を言わない」
 ファルはタタール人だけど、ウズベク語で話すのに支障はない。故郷の言葉の通じる相手とひさしぶりに話せるのは、意思疎通にストレスがなくてありがたかった。
「そんなに噂の彼女が忘れられないのか。こっちに来てからちょっと関わっただけなんだろ? 百人町っていったらすぐそこだよな。だけどお前、勝手に憧れてただけで付き合ったわけじゃないんだろ」
「いつの話だよ、ファル。情報は常に更新しないとな」
「お前、まさか、やったのか」
「それは言えねえ」
「言えねえじゃねえ、言え」
「ぼくと彼女の関係は、ぼくと彼女だけのものなんだよ、ファル」
「お前、送金のほうはどうなってるわけ」
「あとすこし残ってる。だけどまあ、どうにかなるぐらいの額だ」
 たとえ帰国したくても、借金の返済が滞ったままでは帰るに帰れない。ガフもファルも送り出し機関に保証金を取られている。この原資はサマルカンドの田畑を担保にした借金で、一家の七年分の収入に当たる金額をガフは返済しなくてはならなかった。
「俺は帰りたいけどな、お前はもうすぐなのに。他の連中とは事情が違うんだから、わざわざ逃げなくてもいいのに」
「ぼくはまだ、帰れない」
 所持金こそおぼつかなかったが、借金返済だけなら残すところあとわずかだ。このまま勤めていけば、在留ビザが切れる一ケ月後には目途もついて、晴れてウズベキスタンに帰国もできる。それこそ、呼びこまれた労働者の理想の形として、せっせと働いて、期限が来たらさよならだ、廻転ドアをくぐるみたいに──
 終わりのない代謝、そこに乗っからない者たちもいる。
 技能実習生や留学生は、逃げつづけている。
 ガフが逃げたのは──非正規滞在になることもいとわずしゆつぽんしたのは、労働環境のひどさを訴えるためでも、転職や待遇改善の望みをつなぐためでも、支援団体に保護してもらうためでもない。こちらでやり残したことができてしまったからだ。
 だからガフは、逃げたのだ。

>>#2-1

※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
「文芸カドカワ」2019年7月号収録「ビヘイビア」第 1 回より


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