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連載

真藤順丈「ビヘイビア」 vol.29

彼女の転落死の真相は、ふたたび昏い靄の向こうに遠ざかった。残された新しい命は……。直木賞作家・真藤順丈による現代ミステリ!「ビヘイビア」#8-3

真藤順丈「ビヘイビア」

※この記事は、期間限定公開です。

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       §

 肌の色は白いを通り越して、ほとんど青みがかっていた。
 あまり血の気を感じさせない、青白くてちいさな顔。
 鳥がひと鳴きして、窓の外で翼を開いたり閉じたりしている。
 病院の人に聞いたところでは、身寄りのないこの子はこれから乳児院に入れられて養子縁組をめざすことになるらしい。生まれてすぐに母親と死に別れた赤ちゃん、その運命を思うと途方もなく恐ろしくなった。彼にはまだ家族というものがない。いまはこの世のなかで完璧に独りぼっちで、そしてガフは窓越しにその寝顔を見ながら、犯行現場に舞い戻ってきた犯人のようにこそこそしている。
 彼を見るのは怖かった。勇気をふりしぼって見ているいまも怖い。新生児室のなかでは数人のナースが立ち働いている。廊下に面した窓の外側にいるガフのことはあんまり気にかけていない。中へどうぞと誘われることも、どの子のご家族ですかと問われることもなく、教会に入りそびれている浮浪者のように放っておかれていた。鼻の奥のほうがぐずぐずして、手をあてがったらはなみずで指が汚れてしまったので、赤ちゃんに触れる予定はなかったけど玄関フロアに戻って手洗いと殺菌消毒をやり直した。
 眠っている顔だけでは判断しきれないので、起きるまでねばって待っていた。しばらくして開いた目は、焦点のさだまりがなく、ここがどこだかを思い出そうとするようにふわふわとものげに眼差しを漂わせる。どことなく多国籍の混交が感じられた。これまでに鏡で見てきた自分の顔──それから日本に来て何度となく思い返し、むしろ一緒にいるときよりもくっきりと瞼の裏に焼きついている父や母の顔、祖父母の顔──そのいずれの面影も探りだすことはできなかった。
 ただでさえ客観視できないし、新生児の面立ちだけを頼りに血筋をさかのぼれるわけもないけど、面と向かうことで「あっ」とわかっちゃう事実もあると思っていた。そういうのって日本語でなんというんだろう。第六感? 野性のカン?
 ずっと恐れてきたこと。知るのを避けつづけてきたこと──初めてこのひそやかな礼拝所のような場所に足を運んで、それらに直面することになったけど、引きずってきた気負いも忘れてガフは、窓越しのその子に目を奪われた。
 そこからはどんな景色が見える? 自分がどこにいるのかこの子は知らない。医療機器の音やリノリウムの床のきゅっきゅと鳴る足音から、病院だろうと推測できるような知恵も経験もそなわっていない。いや違うか、病院が何かも知らないのか。
 違うか、知らないということも知らないのか。感覚や概念をひっくるめたなにもかもが彼にとっては未知のミステリーなのだ。その謎のひとつひとつを解きほぐしていくための大事な存在が彼にはいない。母親が、父親が。ぼくって独りぼっちだと思うことも彼にはできない。ぼくというのが何かを知らないのだから。
 まばたきをした彼が、口元をうごめかせた。
 なんとなく、寝返りを打ちたがっているような気がした。
 君がこれから解いていくミステリーに、一緒に取り組んでいきたかった。
 この部屋だけが世界のすべてじゃない。海や森やたくさんの異郷、そのすべてにいちばんに連れていきたかった。太陽と雲がなにを企んでいるか、どうしてあの木は倒れているのか、視界の端を横切った影の正体はなんなのかを一緒に考えたかった。
 だってそれが生きるってことだから。君も、ぼくも、ほかのみんなもそうしている。ぼくたちは今もそれをしている。だれかと一緒にそれをできるのがいちばんだ。ぼくもそうしたかった。こちらよりもずっと安全な世界から、暗くて静かで温かい場所から出てきてくれた君と、その母親と──
「そうだよな、君は生きてくんだ」
 シトラの息子。ガフのなかに込みあげるものがあった。
 彼のつぶらな黒い瞳が、謎の対象を天井の照明から窓越しのガフに移した。
 ガフにはそう感じられた。やあ、こんちはと声に出して言ってみた。
 するとなんだか、すごくつまらないことにこだわっていたような気がした。そこにいるのはシトラの息子。シトラに命を吹きこまれて、これから何かを食べたり、笑ったり、驚くような風景を見たり、遠くの国に行ったり、だれかに恋をして、自分だけの秘密を持って、子どもを作ったりもするだろう。もしかしたらそれらを他人より上手くできるかもしれないし、下手くそかもしれない。ぼくだってそうだからね、人間をやるのがすごく下手くそだ。だけど下手でも懸命にミステリーに取り組んでいけば、ごくまれに天のおんちようを信じられるような瞬間にめぐり逢えるから。今のぼくのように。
 あれこれと念を送ったせいで疲れさせちゃったか、彼はふたたび瞬きをすると、すぐに瞼を閉じた。ぼくを見ても泣かなかったとガフは思った。恐れや喜びも次第に静まってくる。ひとつの謎解きを終えたガフは、玄関ホールに戻り、今度は手洗いと消毒をやり直さずにそのまま施設をあとにした。シトラの息子、また来るからね。
 また来るから。

「感慨に浸ってるところ悪いんだが、大変なことになったぞ」
「ジョンノチさん、なにかありましたか」
「今、電話があって。ばんだいが逮捕されたって」
「バンダイさんが?」
 迎えにきていた城之内が取り乱していた。寝耳に水だったらしい、ガフを後部席に乗せるとシートベルトを装着するのも忘れてタクシーを出発させる。
「今のところ、こっちまで飛び火はしそうにないが、どうなるかわからん」
 屋上での出来事の後日、アカウントの検証や剱持みずからの供述によって、警視庁はクロックワークの犯行にくみした者たちを複数の傷害および殺人容疑で一網打尽にした。容疑者たちはみな一様にシトラ・ヴァルヴァノワの転落死への関与は否認し、裏取りや証拠の洗い直しをしても供述を覆すだけの物証は得られていない、と全労議の鵜飼弁護士が教えてくれた。予想に反していたのは一連の事態が引き金になったのか、もとから目をつけられていたのかはわからないが、万代までもが数日後に勾留されてしまったことだった。軍艦マンションの持ち部屋も家宅捜索され、オサやイケドを始めとして多くの関係者が芋づる式に引っぱられ、数々の違法行為が裁かれて懲役を受けるのは避けられそうにないという。うわー万代さんも災難ですね、見かけほど邪悪な人じゃなかったのに、とガフは思った。ぼくたちに関わったせいで逮捕に踏みきられたんだとしたら、それはとても悪いことをしちゃったな。
「お前、これからどうするつもりなんだ?」と城之内が訊いてきた。
「ぼく? ぼくは日本こつちに残ります」と答えるとすこし驚かれた。
「追われる身だし、そろそろ在留期限も切れるんじゃなかったか」
「追われても、期限が切れても」
「オーバーステイか。彼女のことはわからずじまいだったからなあ。だけどずっと探偵の真似事はしてられないだろう。住むところも食いぶちの問題もあるし。身柄を押さえられたらそれまでだし、全労議に相談したっていったん帰らされるだけだ」
「まずは新大久保です。ウズベキスタンとか他の国の人たちが隠れるコミュニティがあるよ。ここから車でどのぐらいですか」
「送れってのか、あつかましい奴だな。お前はこれからもせっせと事実を嗅ぎまわるつもりなんだな。せいぜい捕まるなよ」
 万代という雇用主から解放されたからか、剱持たちの犯行を暴いて区切りがついたからか、サポートの役割も終わったというのが城之内の認識らしかった。がさつだけど善良で、都内の道もよく知っているタクシー運転手ともこれっきりか。寂しくはあったけどしかたがない。城之内にだって別居中とはいえ妻も子もある、毎日の営業もある。いつまでも頼りっぱなしというわけにはいかない──
「たまに呼んだら、安く乗せてくれますか」
「あ、なにか言ったか?」
「ジョンノチさん、聞いてない」
「ああ、ちょっと思い出したことがあってな。万代がすこし前に言ってたんだけど、自分に何かあったらここに行け、とかなんとか……」
 赤信号で車が停まると、城之内は手元でスマホをいじりはじめた。メモをしておいたという住所も新宿区百人町。シトラが死を遂げたマンションからも遠くない地区だった。ひとまず行ってみるという城之内にガフもついていった。雑居ビルの階段を上がると、水道のメーターの上に隠した鍵を使って三〇五号室に足を踏み入れた。
 雑然と散らかった2DKの部屋。ステンレス製のラックやテーブル、長椅子、未使用のまま包装された家具調度や非常食の段ボール箱が積まれている。木目調のブラインドの間から差しこむ斜光が室内のちりほこりを粉雪のように舞わせている。倉庫代わりに使われていたようだが、警察の立ち入り捜査が及んでいないところからして、公的な契約を交わさずに万代が秘密裏に所有していた部屋らしかった。
「こんなところに来させて、どうしろって言うんだ」
「黙ってジョンチさん、なにか鳴ってませんか」
 ずいぶんと手が込んでいる。机のひきだしに入っていたスマホが液晶画面を灯して振動していた。電話をかけてきたのは万代だった。
「スピーカーにしろ。ガフール・ジュノルベクもそこにいるな」万代はどうやってかけてきているのか、拘置所の職員に金を握らせたか、別の方法で手配したのか、勾留中の身でありながらあけっぴろげな話しぶりも変わらなかった。「まあそういうわけでおれはしばらく拘束されるが、ガフ、お前はに帰らないんだろう」
「はあ、どうしてお見通しですか」
「帰らないなら、オーバーステイだな」
「そうなりますね」
「だったらその部屋を使え。そこなら警察にも出入国管理庁にも知られてない。踏みこまれたときの保証はないけどな。当座の費用に五十万、下から三段目の抽斗の簡易金庫に入ってる。七桁の解除番号はチャールズ・ダーウィンの生年月日だ」
 裏社会で生きる男ならではのけいがんなのか、万代はガフが不法滞在をつづけることを先読みしていて、そのうえで寝泊まりの場所と先立つものを用意し、さらには生活費を稼ぐための手段まで与えてくれるという。
「お前の賢い頭を使え。アウェイのかせや言語の壁をものとしない才能、野良犬の本分のようなもんを、もうちょっと見てみたい。おれの下で働け」
「え、いやです。ヤクザはいやです」
 ぜったいやめとけ、と城之内も唇の動きだけで賛成している。
「移民の時代だからな。おれのように裏の窓口のような仕事をやってると、そっち方面からの、困った問題を抱えた外国人からの事案処理や人探しやトラブルシュートをいろいろと頼まれる。そういうのをお前に投げるから。きちんと金は払わせる、あとはお前の裁量で細かいことを決めろ。城之内さん、まだそこにいるか」
「こいつは不法滞在者ですよ、万代さん? 使い走りやら運び屋やらならまだしも、調査だのトラブル処理だのは無理な望みですよ」
「あんたは引き続き、運転手兼雑用係をよろしくな」
「はあっ? 勘弁してください」
「ここからは運賃までは払わねえが、そこでの仕事の日当を借金返済に当ててやる」
「いやいやいやいや、それはない。そんなかけ持ちは……」
「さっそく仕事がある。住所を言うからそこに向かえ。細かい依頼の内容はそこにいるもじゃもじゃ頭の韓国人から聞け。メモの用意はいいか」
 なにが運転手兼雑用係だ、あんたにこき使われるのはもうごめんだ、とスピーカーに聞こえないような小声でつぶやくと、城之内はやさぐれた様子で部屋を出ていった。期待してるぞガフール・ジュノルベク、あんたにはおあつらえ向きの仕事だ、万代がこちらの意思確認をしてくる。ぼくが調査員? 裏の便利屋のように利用されるだけなんじゃないかと腰が引けたけど、最後に万代が口走った言葉は聞き流せなかった。
「あんたにすれば、こっちに残ることが大事なんだろ? 突き止めきれてない真相がまだあるから。こっちで外国人がらみの問題処理にたずさわっていれば、恋人の死について手がかりを拾えるかもしれない。あのマンションの避難シェルターを運営してたのは何者なのか、他にも彼女に関わった人間はいなかったか、あんたが知りたい事件の真相はまだまだわからないことのほうが多いんだから」
 伝えられた住所をメモして屋外に出ると、城之内がぜんとした面差しで、エンジンをかけた車の運転席で待っていた。たそがれの色に貫かれた街路を出発したタクシーがヘッドライトに火を点す。万代の提案をどう受け止めるか、やるのかやらないのかは道々考えようとたがいの意見が一致を見ていた。
「で、どこに向かうんだ?」城之内がルームミラー越しに訊ねてきた。

▶#8-4へつづく
◎第 8 回全文は「カドブンノベル」2020年4月号でお楽しみいただけます!


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