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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.17

【連載第17回】東田直樹の絆創膏日記「個人旅行っぽい毎日」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす25歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載第16回】「思考しすぎる脳」

 人というのは知られたくない思いがあると、そのことを隠すために言葉を重ねる癖がある。相手に感付かれたら、どうしようという心配が心を不安にさせ、余計な説明を加えてしまうせいかもしれない。
 思いを伝えるために言葉は存在している。真っ直ぐな自分の気持ちや考えを精一杯言葉に込めて届けるなら、心に響く美しい音楽みたいに人を酔わせるだろう。けれど、自分の思いを悟られないために言葉を使おうとすれば、その言葉が、きれいな音色を奏でることはない。
 ごまかそうとしている人の言葉は、不自然に聞こえる。なぜなら、人は正直であることが美徳だと、小さい頃から教え込まれて来たせいで、自分が悪者になった気がするからだ。後ろめたさを感じながら話す嘘に、自分が怯えてしまう。そうなると本心はどこにあるのか、聞いている方も探る必要が出て来る。
 話し合えば、必ずわかり合えるはずだと考える人は、今までだまされたことのない人のような気がする。人を信用しない人は、話し合うことに意味を見出していない。相手が信用できるかどうかを、言動から確かめているだけである。
 話し合いは、その場にいる人たちの思惑が一致した時、初めて意義のあるものになるのだろう。
 言葉を操っているつもりが、言葉に操られている。自分の都合のいいように話は進まない。それが普通ではないだろうか。

 3月に入り、急に暖かくなった。僕は、春という季節には、あまりいい記憶がない。
 僕が環境の変化に対応するのが、苦手だからだと思う。
 新年度が始まると、団体旅行で一人ぽつんと旅先に取り残されたような気分になる。悲しくて寂しい、二度とこの場所から家に帰れなくなるのではないか、と心配する気分に似ている。心配がつのると、だんだんと恐怖を感じ、僕の体は焦り始める。自分が知っている目印を探さなければいけない、そんな気分になる。
 あった、遠くに知っているマークを見つけた、僕は駆け出す。
 目の前に立ち、マークを確認する。これだ、これだ、間違いない。僕はマークを手でなぞり満足する。それが終わると、あれっ、ここはどこかなと、また思う。おかしいぞ、おかしいぞ、僕の体が揺れ始める。止まらない、止まらない、止まらない。この揺れは、地面の振動に違いない、いつ止まるのだろう。困っていると、誰かが僕の手を引っ張る。何だろう、この人は誰だろう。僕は、その人の腕を見る。みんなの所に行きたいのに、知らない人に連れて行かれる。「助けて!」その人の手を振り払い、逃げる僕。
 ハァハァ、今日はやけに暑い。桜が見える。そういえば、前にも、こんなことがあったような気がする。あれは、いつのことだったのだろう。
 学校に行ったはずなのに、気が付けば、僕は家にいるのである。
 こんな混乱を繰り返しながら、徐々に自分の脳と体が現実になじんで来るのが、毎年の春の過ごし方であった。
 大人になった僕が、環境の変化に戸惑うことはなくなった。それは、みんなと同じことを要求される団体旅行みたいな日常は無理だと悟り、自分のペースで動ける個人旅行っぽい毎日に切り替えたからだと思う。

 春になって日差しが明るくなって来た。僕の心もうきうきする。この時期に気持ちが上向きになるのを感じると、人間も動物なのだと再認識する。僕にとって、春は目覚めの季節である。
 冬眠していたわけではないが、春になると少ししゃきっとする。
 なんていい気持ち、僕はうーんと背伸びをする。「ウヒャー」訳のわからない声がお腹の中から飛び出して来る。
 一皮むけたような皮膚、紅潮した頬。僕は体ごと覚醒したに違いない。新しく生まれ変われたのだ。そんな錯覚をしてしまうくらい気持ちいい。どうしてだろう。
 春だからだ。新芽が出て来る、羊の赤ちゃんが誕生する、モグラが顔を覗かせる、あちらこちらで命が輝く。僕の体も春の訪れを察知し、見映えを良くしようと、頑張っているに違いない。
 時折、つらつらと夢を見る。体ごと宙に浮く夢。僕は蝶なのか、人間の姿をした羽のない蝶。花を求めてさまようが、綺麗な花は、僕に見向きもしてくれない。
 目が覚めて、自分が蝶ではないことに気づく。街では、色とりどりの可憐な花が並ぶ。ここでも花はやはり僕に知らん顔をする。
 でもいい。
 そこにいるだけで、みんなを幸福にしてくれる花たちが、この春、自分の美しさに気づく瞬間が訪れることを僕は祈ろう。少し離れた場所から、花たちの幸せを、ただ見守ろう。

 昔は、僕の家でも雛人形を飾っていた。
 小さい頃は、その人形が少し怖かった。何だか不気味だった。
 人形の顔が怖かったのだと思う。笑っていないからだろうか、それとも、昔の人のような顔立ちだからか、理由は、はっきり覚えていない。
 人形が規則正しく並んでいる。その上ひとつひとつの人形は、各々、置き場所や持ち物まで決まっている、不思議だった。
 物に関していえば、僕は定位置が決まっていると安心するが、これは几帳面とは少し違う。あるべき所にあるのが正しいという感じなのである。
 雛人形を手に取っては親に叱られた。数年経つと、僕が雛人形を触ることはなくなった。それは、毎年全く同じように雛人形を飾ることがわかったからである。
 お雛様と一緒の3月は、とても華やかだった。雛人形を眺めながら家族でお祝いをする。災いが振りかからないように、幸せな人生を送れるようにと、女の子のすこやかな成長を願う日本古来のしきたりである。女の子であることをねたましく思えるほど、雛人形は立派だ。
 雛人形の顔は、今も忘れない。格調高く凛とした姿は、人形の最高位というに相応しい。
 雛人形は、人の心に深く突き刺さるような表情をしている。
 どうして人形の顔が怖かったのか、今わかった。雛人形に心を見透かされていると感じたからだ。僕の気持ちを人形は見抜いてしまう。胸の奥に閉じ込めていた切ない思いを。
 大人になった僕が雛人形を怖がることは、もうない。


第18回は3月20日(火)の更新予定です。


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