文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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(解説:
第一次世界大戦の約十年前から一九二八年にかけてのヨーロッパを、他者の頭の中に入り、探り、動かすことができる〈感覚〉を
主人公はジェルジュ・エスケルス。グレゴール(またの名をライタ男爵)という馬泥棒から度胸と才覚でのし上がった悪党の私生児として生まれ、育ての親であるヴァイオリン弾きが路上で野垂れ死にすると、顧問官と呼ばれる男にウィーンに引き取られ、十歳から〈感覚〉の英才教育を施される。顧問官の右腕コンラート・ベルクマンの荒っぽい洗礼を受けて、めきめきと磨かれていく能力。顧問官のボスであるヨーゼフ・フェルディナント大公の
男は死体を離し、ジェルジュを引きずり起した。壁に叩(たた)き付けられる勢いで感覚まで押え込まれた。頭蓋(ずがい)の底が唸(うな)りはじめたが、男は平然と力を加えた。握り潰(つぶ)されないようにするのがやっとだった。咽喉(のど)に掛った手首を摑(つか)んだ。ナイフを握った手を捉(とら)えた腕が震えはじめた。腹を蹴(け)り付けた。頭の中を押え付けていた力が僅(わず)かに緩んだ。箍(たが)が外れたように感覚が暴発した。
文字通り、裏返しになった。弾(はじ)き飛ばされた相手の叫びを聞きながら、無我夢中で体を取り戻し、コンラートの銃に身を投げ出した。一撃されて目が眩(くら)み、体が潰れた。ほとんど見もせずに殴り返した。手を伸ばして銃を摑み、向けた。
誰もいなかった。
〈感覚〉を使った初めての死闘。この時、一九一四年。以降、ジェルジュは顧問官に命じられるまま、ヨーロッパ各地で、同盟国(オーストリア=ハンガリー帝国・ドイツ帝国ほか)が協商国(ロシア帝国・フランス共和国・イギリス帝国ほか)に対して仕掛ける工作や諜報活動に身を投じていくのだ。
その間に出会う大勢の〈感覚〉を具えた者たち。敵となる者、友情を
大勢の人物が登場し、世界大戦という大事の中、さまざまな出来事が起こり、死ぬ者は死に、生き残る者は生き残っていき、彼らの来し方や思いが物語の「ここぞ!」という箇所で明らかにされていくことで、恐ろしいほどの〈感覚〉の持ち主であるジェルジュの像がじょじょに、多角的に、くっきりと立ち上がっていく。
ポストモダン文学的な奇は
先にジェルジュとメザーリの初めての死闘の一部を引用紹介したが、この小説は〈感覚〉を具えた者が多々登場するゆえに、彼らがどのように相手の中に入り、意志を探り、支配しようと試み、
浅くゆっくりと呼吸しながら、体を緩め、蟀谷(こめかみ)の緊張を解いた。頭蓋の底が騒(ざわ)めき始めた。内側から押し上げる力を感じた。
それを少しずつ膨れ上がらせた。酒を飲んだ状態で押すのに似ていたが、はるかに自然で、殆(ほとん)ど快くさえあった。中庭の木に小鳥が来ているのを見付けた。小さな体の重みや羽毛のふくらみ、陽の光に溶けて滴る枝先の水滴まで感じ取れた。彼はその暖かい塊を手の中に包み込むように感覚で包んだ。それから、軽くつついた。小鳥は驚いて飛び去った。更に体の力を抜いた。捉えられる全てのものが眩(まばゆ)いくらいに鮮明になり、影は濃さを増した。どこにも注意を向けることができなくなった。どこかに気を引かれると、その強烈な色彩が視野を塗り潰そうとするからだ。抑え込もうとしたが突き上げる力に振り切られた。衝撃とともに、世界が暗転した
これは、十六歳のジェルジュがコンラートに教えられた方法にのっとり、〈感覚を完全に解放する〉ことで感覚者としての自死を試みる場面。
愛撫(あいぶ)は随分と長く続いた。五感が溶け去ったような錯覚に陥ってから漸(ようや)く、感覚を絡み合わせて相手を貪(むさぼ)った。彼らの感覚は交わる体を包んでお互いを吞(の)み込み、触れ合う皮膚との区別を失った。甘い果肉に包まれた固い種子のように感じられるのがお互いの肉体なのか、入り込めば入り込むほど固く内側に巻き込まれながら熱を放つ意識なのかもはっきりとしなかった。寝台の中で交わっている、一番重く、脆(もろ)く、敏感な一部は、肉体と感覚に幾重にも包まれて、身を捩(よじ)り、痙攣(けいれん)した。
こちらは、感覚を具えたレオノーレとの情交の描写。
軽い共振を起していた。相手の感覚があまりにも強いのだ。不愉快ではなかった。意識の表面がダーフィットの声に洗われているような気がした。取り出して宙に浮べるように、ダーフィットは縺(もつ)れた毛糸玉のようなもの、ひどく複雑な知恵の輪のようなものを示した。あらゆる事柄を、ダーフィットは高さと広がりだけではなく、時間の経過まで深さや距離として把握できるような、空間的認識として整理していた。
途方もなく複雑だった。しかも明晰(めいせき)で、厳格で、精確だった。ジェルジュはその思考の建造物の周囲を回り、欠落した部分を指摘し、当て嵌(は)めるべきものを見せた。
これは、外務省役人ダーフィット(後に、ジェルジュと特別な関係であることがわかる)との、感覚を介した接触の表現。
サイキック同士の対決シーンだけでなく、作者はこの小説の中でジェルジュが異能を使う場面すべてにおいて、わたしたち五感に
とはいえ、佐藤亜紀の小説は決して易しく/優しくはない。状況の説明はその場では最小限に
選ばれし者の
▼佐藤亜紀『
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