世の中に「虫屋」と自称する人々がいることを知ったのは、実は本書の著者のひとり、cocoさんとの出逢いがきっかけだった。
今を去ること八年前、『リトル・リトル・クトゥルー』というクトゥルー神話の掌篇アンソロジーを編纂刊行した際、装画用の邪神造形をお願いした雪狼さんから、カバーに使う造形写真の彩色を、知人の漫画家さんにお願いしたい……という御提案をいただいた。
聞けば、4コマ漫画シリーズ『今日の早川さん』の作者で、雪狼さんとは「虫」つながりの方だという。『早川さん』は本好きの間で話題になっていたので私も知っていたが、作者が大の昆虫好きとは知らなかった。ネットを介してcocoさん撮影の虫写真や鳥写真を拝見、そのクオリティの高さに舌を巻いた。
その後、cocoさんやお仲間のツイッターをおりおり拝見して、虫屋の皆さんの驚くべき生態(!?)を窺い知るようになった。無我夢中でスズメバチに接近しすぎて危うく襲われかけたりとか、うひゃあ〜と呆れながらも、その愛すべき熱中ぶりに共感を覚えた。これには私自身が少年時代、『ファーブル昆虫記』を愛読して、いっぱしの昆虫マニアを気取っていたことが関係しているのだろう。家の近くの野原や山林を、捕虫網片手に日がな一日歩きまわることを日課のようにしていた頃の記憶が、虫屋諸賢の写真とコメントを眺めるうちに猛然と蘇ってきたのだ。路傍の植物の花弁や枝先に人知れず繰りひろげられる虫たちの小宇宙に、息を殺して飽かず眺め入っていたあの頃……本書の「まえがき」に記された次の一文に、何度も大きく頷くことになったのも、それゆえだろう。
「生き物屋とは蝶に限らずあらゆる生き物、生きてさえいないもの、まだ認識されていない存在、そういった不思議への想いを成長のどこかで忘れ去ることなく大切に抱えつづけてきた人種である」
本書は、そんな「生き物屋」トリオ(日高トモキチさんは漫画家、玉川数さんは堅気のお仕事の由)が、里山徘徊のさなかに自ら遭遇したり、生き物屋仲間や土地の人々から聞かされた、怪しい話や不思議な話、全四十話を収録した奇談集である。
あえて「怪談」ではなく「奇談」と銘打ったところに、著者たちの本書に寄せるこだわりと主張が透けて見える。本書に収められた話の中には、果たして何らかの超自然的な出来事なのか、たんなる偶然の産物、もしくは「気のせい」なのか、判然としないものも少なくない。いわば「怪談未満」ともいうべき物語群だが、著者たちはそれを脚色して(いわゆる「話を盛る」というやつですな)、いかにもな怪談話に仕立てることもしないし、だからといって捨て去ることもしない。眼前の不思議を不思議として、奇異の念を奇異の念として、能うかぎり、ありのままに記し留めようとしているのである。
こうした姿勢は、かれらが里山の自然に対するときのそれ——眼前の、もしくはファインダーごしに向き合う虫や鳥にそそぐまなざしと、同じものなのではないかという気がする。そこには、旺盛な好奇心と、対象物に寄せる敬愛の念が、あふれているのだ。
ひとつひとつの話は片々たるものであっても、そのコアに妖しく息づく不思議への想いが累積し増幅されることで、いつしか読者は里山というトポスが、この世とあの世もしくは異界とが隣り合うボーダーランドなのだということを、惻々と実感するに違いない。
山奥にひそむ忌まれた場所の恐怖を暗示的に描いて秀逸な「ヱド」、古寺の参道傍にうずくまるモノの無気味さ際だつ「鉤虫」、虫時雨にまつわる密やかな不思議を描いて同名の謡曲を髣髴させる「松虫」……。
往年の『新耳袋』シリーズ、近くは『山怪』連作に初めて接したときに覚えた、清新な驚きと畏怖の念を、まざまざと想い出させる画期的な一冊だ。おばけ好きはもとより、虫好き鳥好き山好きの読書家諸賢も、疾く読むべし。そして、おののくべし。
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