【カドブンレビュー】
2017年夏に発行された『いくさの底』は戡定(※「平定」の意)後の1943年春、中国と国境を接するビルマ北部の山村を舞台に、日本人将校が殺害された事件の真相を追った。『生き残り』は本文中に「米支軍相手の北ビルマも英印軍相手の西ビルマも負け戦」とあり、日本軍は転進し南下しているところから、時は1944年夏、史上最悪の作戦とも今に伝えられるインパール作戦中止後のビルマ中部、イラワジ河中流域が舞台である。
ビルマ中部に位置する古都サガイン、イラワジ河のほとりに、たったひとりでたどり着いた兵隊がいた。
北ビルマからマンダレー、さらにその先のナンカンなる町を目指す転進将兵たちとともに渡河を待つ丸江一等兵は、その兵隊の存在に気づく。
兵隊とは常に隊の一員でいなければならない。もし指揮官を失った場合はただちに身近な将校か下士官の指揮下に入るはず。つまり、その兵隊は異様であった。
丸江の上官である戸湊伍長はその兵隊を自分の指揮下に入れることとする。
兵隊の名は森川。階級は上等兵。もともとは戸湊や丸江たちと同じ兵団に所属していた。しかし転進の途中、ビルマ腐れ(熱帯潰瘍)を下腿に抱えた森川は同じ症状を持つ独歩患者たちとともに兵団の行軍から切り離される。患者5名に見習士官1名が指揮官としてつき、彼らは分進隊としてマンダレーへと向かうこととなった。
患者集団ゆえ伸びない歩度を補い、ゲリラの罠を避けるため、見習士官はマンダレーへと至る街道に並行して流れる河を下ろうとするが、彼らの乗った筏は飛来した英軍機の掃射を受ける。
筏を失った森川たちが泳ぎ着いた中州はゲリラに包囲されていた。籠城を余儀なくされるなか、兵隊たちは次々と命を落としていったという。
しかし森川の独白にはいくつもの嘘があった。
人間としては森川の不運に深く同情を寄せてやまない。しかし軍人の立場として見れば、疑念だけが募ってゆく。ついに戸湊は森川に銃口を突きつける。「お前が殺したのか」と。
兵隊。
個人を指して使うには奇妙な言葉である。
そして考えるだに曖昧な言葉である。
その一文を読めば、とくに戦争を知らない読者にとって、兵隊という存在ほど遠く、理解の難しいものはないと気づく。さらに、大戦中のビルマ戦線がどんなふうであったか、記録も証言も多く残ってはいても、若い世代ほど知る人も少なくなる。
おそらくわたしたちに最も感覚が近く、感情を理解できる本書での登場人物は森川たち分進隊の指揮を任された見習士官、白方ではないだろうか。
彼は赴任して日が浅く、経験はとぼしい。それゆえ部下たちに軽んじられてなお、傷病を抱えた彼らへの責任を果たそうとする誠実さはあるが、戦地を知らない彼は万事間が悪い。彼の選択は裏目に出てばかりだ。
わたしはいまだに兵隊が分からない。命のかかる行動を庶民の感覚でこなす兵隊が理解できない。(中略)兵隊が分からないというより人間が分からず、分からないがゆえに恐ろしくてならなかった
そう嘆く白方の視点で見る兵隊たちの姿はたしかに理解しがたい。心の所在を摑みかね、なにを考えているかわからず不気味で、中州のなかで敵に因らずにつぎつぎと兵隊たちが死んでいく過程には恐怖さえ感じる。その感覚は、物語を最後まで読み進めたとき、「ああ、こういうことだったのか」というわたしたちの驚きをより大きくするものとなる。
中州でいったいなにがおきていたのか。『生き残り』という物語は虚偽を暴き真実を明らかにして、それで終わるものではない。生き残っている者にとって転進はいまだ道半ばであり、マンダレーは遠く、終戦の時はさらに遠いからだ。
これは兵隊の話。
それぞれに確かな物語をもって生きていた人びとが個を失い、とるに足らない無名の存在となって、ある者は河を渡り、ある者は渡ることなく斃れていった。
しかしこれは人間の話でもある。
他人という存在を、突きはなしながらも情をかけずにはいられない、兵隊に徹しきれず感情に揺れる、人間の物語である。