【カドブンレビュー】
虚談。きょだん。意味は、根も葉もない話。つくりばなし。物語。
『虚談』に収録されている九つの短篇は、みんな「噓」なのだという。
全篇の語り手である〈僕〉なる人物、または〈ナッちゃん〉。デザイン事務所に勤務後、小説家としてデビュー。酒を飲まないけれど、居酒屋にはよく行くという。彼は「世に蔓延るオカルトというオカルト心霊という心霊を、悉く、何もかも、一つ残らず木端微塵に粉砕する筋金入りのアンチビリーバー」、つまりオカルト的言説を信じている「ビリーバー」とは正反対の人間だ。
それなのに、否、だからこそ、なのか。〈僕〉のもとには、不思議な出来事を体験している友人知人たちから相談が持ち込まれてくる。
30年以上前に自殺したかつての恋人が、いつも台所にいる。一人暮らしの女性宅の天井裏に、忍者が潜んでいるらしい。つい何日か前に納骨を済ませたはずの死んだ父親が、窓から部屋の中を覗き込んでいた――。
〈僕〉は至極冷静に聞き手に徹し、そこにある怪異に対して常に理論的かつ現実的な正体を見出していく。
〈僕〉に相談を持ちこむ友人知人たちは、意外なほど怖がっていない。悩みも迷いもない。
相談というよりは、話を聞いてほしいだけだ。
彼らの体験は怖いとか、助けてほしいとかいう感情や欲求を伴うことなく、つまり〈僕〉に話すさいには、すでに体験ではなく物語になってしまっている。そして虚談になる。
本書は怪異の謎を解き明かそうとするミステリだが、幽霊が怖い、呪いは恐ろしいという趣向ではない。
居酒屋や喫茶店で、脱線しつつも交わされる〈僕〉たちの会話は飄々としていてテンポが良く、主題である相談の内容の異様さをつい忘れそうになる。ぜんぜん怖くない。
しかし、確固とした聞き手であるはずの〈僕〉も、ある一篇のなかで気付いてしまう。
この世には不思議なことなど何もない。
そんなふうに、常に虚と実を仕分けていた〈僕〉が、その境目を見失う。その瞬間、虚実が綯い交ぜになって、わからなくなる。
どこまでが妄想で、どこまでが事実なのか。どちらが夢で、どちらが現実なのか。自分に見えているものが、果たして他人にも見えているのか。死んだ者の姿を見るとき、自分もまた死んでいるのではないか。
〈僕〉は物語の客観的存在だ。その〈僕〉の現実が揺らぐとき、彼の視点を通して『虚談』に没頭する読者であるわたしたちの現実も同時に揺らぐ。
境界が曖昧になり、わからなくなって、怖くなる。
『虚談』に感じる怖さの正体。それは自分を含めて、だれが信じている現実が「本当の現実」なのかわからない、物事を見抜けなくなったゆえの「不明」の怖さだ。
もしかしたらそんな感情すらも全部、噓かもしれないけれど。