タイムマシンが発明されない限り、私たちは過去に行くことはできない。したがって歴史家たちは残された史料を手がかりに過去に起きた出来事を類推する。歴史小説が歴史書と大きく違うのは、創作が許されている点と、登場人物の内面に踏み込むことができることだ。つまり優れた歴史小説は私たちに時を超えた世界を脳内体験させてくれる。『火定』はその力が存分に発揮された、臨場感あふれる長篇小説である。
舞台は天平時代。飛鳥から寧楽(奈良)に都が移されて二七年というから、七三七年だ。主人公は平城京内の病人を治療する施薬院の官人、名代。光明皇后の肝いりでつくられた施設である。しかしその崇高な理念とは裏腹に、皇后の一族、権力を一手に握っている藤原氏のイメージアップが目的だといわれていた。したがって宮城内の医療機関からの協力も不十分で、職場環境は劣悪。名代は仕事にやりがいを見いだせずにいた。そんなある日、名代の眼の前で新羅に遣わされていた使節の一人が高熱を出して倒れる。それはやがて恐ろしい疫病が大流行するほんの始まりだった。
『火定』はいわゆるパンデミック、伝染病の恐怖を描いたパニック小説として読める。病の正体を突き止めることもままならず、治療は生薬に頼るほかはない。あとはお祓いに頼るか、お守りを手に神仏にすがるかだ。そして現代の私たちから見れば、あっけないほど簡単に人が死んでいく。まずその恐ろしいほどの災いをまざまざと描く筆力が圧倒的である。
野火のように都を席巻する疫病の描写と両輪となるのが、病に翻弄される人々の描写だ。名代が勤める施薬院には綱手というベテランの医師がいる。不眠不休で働く綱手は山本周五郎の「赤ひげ」のような存在だが、残念ながら疫病を治療する知見は持ち合わせていない。一方、そのヒントを持っていながら沈黙している男がいる。貧しい家柄から身を起こし宮中で異例の出世を遂げたものの、冤罪により獄中へと墜ちた諸男である。獄の描写は悲惨極まりなく、我が身に降りかかった理不尽な運命と、自分を陥れた者とそれを看過した人々、ひいてはこの世界への怨念が諸男のなかに蓄積されていく。その結果、出獄後には宇須という悪党と行動をともにし、疫病の伝染に乗じて「常世常虫」なる神を祀ったお札を売りさばくのである。諸男が立ち直るきっかけは訪れるのか。そして、名代がこの災厄のなかでどのように成長していくのか。時代は変われど、自然がもたらした理不尽な死に直面する彼らの内面を生々しく描いていく。
作者の澤田瞳子は大学院で奈良仏教史を研究したのち、二〇一一年に『孤鷹の天』で中山義秀文学賞を受賞し作家デビュー。江戸時代の天才画家を描いた『若冲』が高い評価を受ける一方、古代を題材にした歴史小説を得意とし、本誌でも『龍華記』を連載中だ。
「火定」とは、修行僧が自ら焼身死し入定することだという。その言葉の持つ苛烈さは、この小説全体を貫く厳しさにふさわしい。そして、同時に、時代の制約のなかで精一杯生きようとする登場人物たちの〝熱〟が伝わってきた。まさに歴史小説の醍醐味である。
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『孤鷹の天 上・下』
澤田瞳子
(徳間文庫)
澤田瞳子の小説家デビュー作。『火定』の時代より二三年後から始まる。藤原仲麻呂が権力を握っていた時代、儒教を講ずる大学寮で学ぶ若者たちを描いた青春群像。権力者たちの政争や、身分制度への葛藤など、上下巻の長さが苦にならないほど中身が詰まっている。
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