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義経と最期を共にした正妻・郷姫の切なくも美しい生涯を描いた時代小説――篠 綾子『義経と郷姫』文庫巻末解説【解説:郷原 宏】

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

篠 綾子『義経と郷姫』



篠 綾子『義経と郷姫』文庫巻末解説

解説
郷ごう原はら 宏ひろし  

 茶道の心得に「一いち期ご一いち会え」という言葉があります。千せんの利り休きゆうの弟子、山やま上のうえ宗そう二じの手記に出てくる言葉で、一生に一度しか会えないつもりで客をもてなしなさいという教えです。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会招致運動の合言葉となった「お・も・て・な・し」は、ここから始まっているといっていいでしょう。
 文芸作品と読者の出会いも、いってみれば一期一会です。私たちがある作品を読むのは、特別なケースを除けば一生に一度きりのことですから、初めての作家と出会うときは、作品選びに特に慎重でなければなりません。最初に読んだ作品がつまらないと、その作家とは二度と会えなくなってしまうからです。
 その意味で、私はとても幸運でした。私が初めて篠しの綾あや子こという作家と出会ったのは二〇〇五年四月、角川書店から刊行された『義経と郷姫 悲恋柚ゆう香が菊ぎく河かわ越ごえ御ご前ぜん物語​』を読んだときです。この出版をプロデュースした遊ゆう子し堂どうの小お畑ばた祐ゆう三ざぶ郎ろう氏に「いい作家がいるから読んでみないか」とすすめられて読みはじめたのですが、開巻たちまち物語のなかに引き込まれ、夜を徹して読みふけりました。そして数時間後、物語の夢から醒さめて再び現実に帰還したとき、私は確かにこの作家から一期一会のおもてなしを受けていたのだと感じました。
 以来十七年、私は篠綾子のすべての作品をほぼリアルタイムで読んできました。いいかえれば、篠さんの茶会の押しかけ常連客として、作家のお点前をとくと拝見してきたわけですが、最近はその作法やふるまいにますます磨きがかかって名人上手の域に達しているように感じられます。
 私のように半世紀近く、小説を読むことを生業なりわいにしてきた人間にとって、まず大抵の作品は退屈です。途中でいやになって投げ出すことも少なくないのですが、この作家の作品に限って、そういうことは一度もありませんでした。
 さすがに全部が全部、後世に残る傑作だというつもりはありませんが、どの作品にも読者に対する温かいおもてなしの心が行き届いていて、最後まで気持ちよく読むことができます。そして本を閉じたとき、「ああ、おもしろかった」という満足感があります。世に作家多しといえども、これほどハズレのない作家は珍しいといっていいでしょう。
 さて、本書『義経と郷姫』は、篠綾子の事実上の出世作ともいうべき作品です。この作品に先立って、第四回健友館文学賞を受賞した長篇『春の夜の夢のごとく 新平家公達草紙』(二〇〇一)、第十二回九州さが大衆文学賞佳作に選ばれた短篇「虚空の花」(二〇〇五)などがありますが、その文名が広く知られるようになったのは、この作品以後のことだからです。
 本書の内容をひとことでいえば、「河越御前」の物語です。「河越御前って誰だっけ?」と思われた人も多いでしょう。実は私も知らなかったのですが、この女性は源みなもとの九く郎ろう判ほう官がん義よし経つねの正妻として歴史に名をとどめる実在の人物です。義経といえば誰もがすぐに思い浮かべる、あの静しずか御前を脇役に回して、ほとんど無名に近いこの女性を主役に抜ばつ擢てきしたのが作者の一番の手柄で、そのキャスティングの妙だけでも、本書は歴史小説ファンには読み逃せない作品になりました。
 本書の読者ならよくご存知のように、篠さんは東京学芸大学で古典文学を専攻し、高校の国語の先生をしながら小説を書き始めたひとで、史料の読みの深さには定評があります。「藤ふじ原わらの定てい家か・謎合秘ひ帖ちよう」シリーズや「紫むらさき式しき部ぶの娘」シリーズは、いずれもその蘊うん奥のうから生み出された作品ですが、そうした古典的な素養の深さは、ここでも存分に生かされています。
 この作家のもうひとつの特長は、強きよう靭じんでしなやかな文体です。強靭としなやかさは本来は相反する特性ですが、この作家には最初からその両方が具そなわっていました。強靭な文体は物語を力強く駆動させ、特に合戦場面の描写に威力を発揮します。しなやかな文体は、自然描写や内面描写、特に女性の繊細な心理を描くのに適しています。
 といえばもうおわかりのように、この作家はまさしく歴史・時代小説を書くために生まれてきた作家であり、この作品はこの作家の文体でなければ書けなかった作品なのです。たとえば序章「入間川」の冒頭の一節を見てみましょう。

《入いる間ま川がわの川かわ面もをなぶるように風が吹きつけた。
 冬の間、少雨のせいで水量を減らしていた川の浅瀬に、小波さざなみが音もなく立つ。川面が陽光を跳ね返すと、その度に黄金きん色の光の粒が宙に舞い上がった。
「小こ次じ郎ろう」
 ぼんやりと川を見下ろしていた少年は、不意に名を呼ばれた。記憶を失なくした少年のため、仮の名前を付けてくれた少女の声であった。
「何ですか、お郷さとさま」
 少年は振り返って、少女を見た。少年を引き取って世話をしてくれた河かわ越ごえ館やかたの当主の娘、郷さと姫ひめである》

 歴史的な悲恋物語の始まりを告げて、これは実に見事な文章です。たったこれだけの描写のなかに、ヒロイン郷姫を取り囲む自然と風土、地位や身分、人間関係までがさりげなく、だが的確に表現されていて、私たちを一気に物語のなかに引き込む力を持っています。それが強靭でしかもしなやかな文体の力であることはいうまでもありません。
 埼玉県川かわ越ごえ市は、いまでは江え戸ど情緒あふれる旧城下町として知られていますが、中世の初めには土地の豪族河越氏の所領で、郷姫はその当主、河越重しげ頼よりの女むすめ。入間川の川辺に咲く柚香菊のように、地味ながら清せい楚そで可か憐れんな少女でした。
 小次郎はのちに頼より次つぐと名乗り、義経の妻となった郷御前に陰ながら献身的な愛を捧ささげますが、こちらはどうやら架空の人物のようです。ただし、この人物を挿入することによって、郷姫をめぐる多彩な人間ドラマにさらに奥ゆきと陰影が加わりました。
 郷姫に思いを寄せたもうひとりの男は畠はたけ山やま重しげ忠ただです。こちらは現在の深ふか谷や市川かわ本もと町まち付近に生まれ、嵐らん山ざん町まちの菅すが谷や館やかたに住んだとされる実在の人物で、寿じゆ永えい三年(一一八四)の鵯ひよどり越ごえの合戦では、愛馬三み日か月づきを背中にかついで断だん崖がいを駆け下りたと伝えられる勇士です。郷姫との関係を示す史料はないようですが、年代、地理、身分の一致という三条件から考えて、この二人が相思相愛の仲だったとしても少しも不思議はありません。このカップリングもまた、この作家の小説作法の巧みさを示す好例といえるでしょう。
 しかし、郷姫は鎌かま倉くら方に味方した父と河越館を守るために、重忠への思慕を断ち切って源義経の妻になります。これは鎌倉殿(頼より朝とも)が仕組んだ政略結婚でしたから、郷姫を迎えた京都堀ほり川かわ館やかたの義経の周辺では、彼女を鎌倉方のスパイと疑って敵視します。義経自身も最初は打ち解けず、愛人の静御前のもとへ通いつづけて正妻には指一本触れようとしませんでした。
 こうした四し面めん楚そ歌かの状況下、それでも必死に誠意を示しつづける郷姫に、義経もようやく心を開き、夫婦としての情愛が芽生えはじめるのですが、そのときにはすでに鎌倉方との決裂が避けがたく、義経一行は奥おう州しゆうへの逃避行を余儀なくされます。
 こうして物語はいよいよクライマックスを迎えるのですが、ここでこれ以上内容に立ち入るのは、読者の「知らされない権利」に対する侵害となるでしょう。ただし、これだけは申し上げておかなければなりません。あなたはいま、歴史小説の名手から一期一会のおもてなしを受けている、この上なく幸運な招待客のひとりなのです。

作品紹介・あらすじ
篠 綾子『義経と郷姫』



義経と郷姫
著者 篠 綾子
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2022年02月22日

義経と最期を共にした正妻・郷姫の切なくも美しい生涯を描いた時代小説。
河越重頼の娘、郷姫は源頼朝の命により、初恋を捨て義経の許へ嫁いだ。周囲は彼女を鎌倉の間者と疑い、義経も次第に愛妾に思いを寄せ、妻を遠ざけるようになる。しかし、彼女は夫を一途に思い続けた。源平の戦いや頼朝・義経兄弟の争いにも巻き込まれていくなか、子を産み、最期は義経と共に壮絶な死を遂げた郷姫。戦乱の世を気高く生きぬいた一人の女性の生涯を描く。歴史に隠された真実が心揺さぶる時代長編。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322110000638/
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