新訳『ポー傑作選』2ヶ月連続刊行記念!
エドガー・アラン・ポーの謎に迫る解説 第5回【全5回連載】
河合祥一郎による、エドガー・アラン・ポー新訳『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』が先月に発売され、その続刊『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』も今月発売されました。
これを記念して、文庫巻末に収録されている「作品解題」や人物伝、そして、研究者やファンの間で長年にわたり解明されてこなかった、ポーの奇怪な死の謎に迫る解説を一部抜粋して、全5回の連載でご紹介します。
最終回の第5回は「ポーの死の謎に迫る」。ファンや研究者の間で長年の謎とされてきた、ポーの死因について、当時の文献をもとに推理します。
ぜひ本選びにお役立て下さい。
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「ポーの死の謎に迫る」
(『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』文庫巻末「作品解題」)
解説
河合祥一郎
推理小説というジャンルを新たに創ったポーは、「数奇なるポーの生涯」(『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』所収)に記したように四十歳で奇怪なる死を遂げ、自らの人生を以て最大の謎を
まず、事件当日の朝を振り返ってみよう。
一八四九年十月三日(水)、ボルティモアは雨だった。朝十時半、州議会議員選挙投票所となっていたボルティモアのイースト・ロンバード街の
「顔はやつれており、むくんではおらず、汚れて、髪も乱れて、体全体はひどいものでした。骨相学者たちが
別の手記ではスノッドグラスは、こうも述べている──「彼の帽子──というよりは誰か他の人の帽子ですが、というのも明らかに服を奪われたか、
こうして午後五時頃ポーはワシントン・カレッジ病院に運ばれ、モラン医師が診察に当たった。そのあとは「数奇なるポーの生涯」に記したとおり、四日後の朝五時頃、ポーは「神よ、わが哀れな魂をお救いください」と祈って息を引き取ったのである。
ポーに詳しい作家ユージン・L・ディディエ(一八三八~一九一三)は、その著書(Eugene L. Didier, The Life and Poems of Edgar Allan Poe, 1877)に「ポーはいつも極めてエレガントで
しかも、どういうわけか、知り合いのジョン・F・カーター医師の
これまでポーの死因として提案されてきた説は多岐に
いずれも可能性はあるが、ポーがボロ服を着ていた理由を明らかにしてくれる説はこの中にはない。仮に心臓発作なり狂犬病なりが最終的な直接の死因だったとしても、どうしてボロ服を着ていたのかの経緯を明らかにしなければ、ポーの死の謎に迫ったことにならないだろう。
これまで考えられてきた説で、ボロ服の説明までつけるものは、大きく分けて二つある。「クーピング」説と暴漢説である。まず、「クーピング」説から見ていこう。
当時のアメリカには、投票権のある人を捕まえて、特定の候補に何度も無理やり投票させる「クーピング」(cooping)──犠牲者を
「モルグ街の殺人」で、当て推量に基づいたいい加減な証言をする人が出てきたように、ポー死亡事件においても、驚くべき「誤った証言」がなされてきた。その「誤った証言」は、ここまでの記述のなかで既にもう紛れ込んでいる。それはどれなのかも、あとで明らかにしよう。
そもそも、ニューヨークに住んでいたポーがなぜボルティモアで倒れているのを発見されたのか。大まかな事実関係をまず再確認しておこう。ポーは、自分の雑誌を発刊する夢を
右の車掌に関する事実は、ポーのまたいとこの判事ネルソン・ポーが調査して得た情報なので信頼できる。しかし、右の説明だけでは、倒れていたときボロ服を着ていた理由がわからない。そこで浮上するのがクーピング説である。
クーピング説を最初に思いついたのは、事件七日前にもポーと会っていた、ポーをよく知る『サザン・リテラリー・メッセンジャー』編集者ジョン・R・トンプソンである。彼は、当初、ポーの死因は飲酒による譫妄だと述べていたが、それでは「ボロ服」の説明がつかないと気づいたらしく、一八六〇年代後半からポーに関する講演を行ってクーピング説を展開し、ポーは「十一か所の投票所を引き回されて投票させられた」という表現を用いた(講演の出版は一九二九年)。そして、トンプソンがまことしやかに用いた「十一か所の投票所で投票させられた」という表現が、トンプソンと仲のよかった記者リチャード・H・ストダードによって『ハーパーズ・マンスリー・マガジン』一八七二年九月号掲載の記事で活字になった。そこには次のように記されているが、ポーが倒れていたのを発見されたのは十月三日なのだから、日付からして、いい加減な記事であることがわかる。
「ポーは十月二日か三日にリッチモンドを出発した。そのあとの四、五日のあいだに何があったのかはかなり不詳であるが、確かに言えるかぎりの事実は以下のようなものと思われる。彼はボルティモアに無事到着したが、不幸なことに、乗り換え列車を待つあいだに友人と一杯酌み交わしてしまい、その結果、譫妄状態となって、フィラデルフィア行きの列車の車掌によってハバードグラースから引き戻されることになった。ボルティモアは選挙で沸き返る日の前日であり、ボルティモアの通りをふらついているあいだに、何らかの政治団体の不法な組織に捕まり、一晩地下に閉じ込められた。翌日、薬を盛られて正気を失った状態で連れ出され、十一か所の投票所で投票させられた。その翌日、〝本部〟の裏の部屋で発見され、ボルティモア街北のブロードウェイにある病院に運ばれたのである」(Richard H. Stoddard, ‶Edgar Allan Poe,” Harper's Monthly Magazine, September 1872, vol.45(whole no. 268), 45: 557‐568)。
この記事は推測に基づいて書かれており、〝クープ〟されたことも確かでなければ、「乗り換え列車を待つあいだに友人と一杯酌み交わし」たことも確かではない(そんな「友人」は特定されていない)。実は、この記事が書かれた前年にジョージ・B・コールというボルティモアの写真家が、ポーのまたいとこの判事ネルソン・ポーに取材をして取材した情報をストダードに送っており、この記事はそれに基づいて書かれたことがわかっている(Matthew Pearl, ‶A Poe Death Dossier: Discoveries and Queries in the Death of Edgar Allan Poe: Part II,” The Edgar Allan Poe Review, Spring 2007, Vol. 8, No. 1, pp.8‐31(p.10))。
推測であろうがなかろうが、この記事が水に投じられた最初の石となり、波紋はひろがっていった。『ザ・サザン・マガジン』一八七四年八月号に、ウィリアム・ベアードが類似の記事を掲載すると、のちにジョンズ・ホプキンズ大学英文学教授となる文人ウィリアム・ハンド・ブラウンが、ポーの伝記を書こうとしていたジョン・イングラムに手紙(八月二十四日付)を書き、このベアードの記事に注意を喚起すると同時に、ボルティモアの歴史家ジョン・トマス・シャーフの『ボルティモア年代記』に一八五八年のクーピングの事例があることを示した。そこには「不幸な庶民のみならず正直な紳士も拉致され、汚れた隠れ家に〝クープ〟され、薬を盛られ、ウィスキーで
ポーがクーピングの犠牲者なのかどうかわからないが、クーピングなるものが一八四九年の時点であったことは確かだ。学者ダグ・ボルターの調査によって、一八四九年十月の段階で「クーピングを警戒せよ」という報道があったことが明らかになっている(Jeffrey Savoye, ‶The Mysterious Death of Edgar Allan Poe,” https://www.eapoe.org /geninfo/ poedeath.htm)。
以上から、当時クーピングなる政治不正行為があった、ないし警戒されていたことが確認される。ただし、ポーが倒れていたのが発見された翌日の十月四日付の『ボルティモア・サン』紙は、前日の選挙の模様を次のように報じている。
「一日を通して町にはほとんど興奮はなく、夜も穏やかだった。選挙は極めて調和的に終わり、投票所等で騒ぎがあったという話も聞かない。投票は粛々と進められ、〔中略〕勝利を得た党が少し音楽を奏し始め、夕刻にかがり火が通りを明るくし、爆竹が鳴って勝利を祝っていた」
警戒はされたが、実際に不正行為は起こらなかったかのような報道だ。そして、ここが重要な点なのだが、仮にそういう行為が実際になされていたとして、犠牲者の服を替えるなどして「変装」させる必要が果たしてあったのかという疑問が生じる。選挙所を次々にまわって投票させるのであれば、それぞれの選挙所の係員はその犠牲者を初めて見るのであるから、変装の必要などないはずだ。変装の目的は、その人の正体をカモフラージュするためのはずだが、「十一か所の投票所」を引き回すのにボロ服に着替えさせる必要がどこにあるのだろうか。それに、ポーは有名人であり、車掌も第一発見者のウォーカーもすぐにポーだと気づいたほどなのだから、そういう人をクーピングに利用するだろうか。多くの場合、クーピングの犠牲者は移民だった。クーピング説では、ポーの変装の説明がどうにもつかないように思われる。
ポーの服に関しては、またいとこのネルソン・ポーが、ポーの
ここで浮上してくるのが暴漢説だ。ポーは雑誌発行のために購読者を募ってかなりの予約金を集めていたはずだが、発見時に金銭は所持していなかったことから、金目当ての暴漢に襲われたのではないかと疑われた。かりに賊が、ポーが金を所持していることを知らなくても、立派な身なりのポーからトランクと服を奪い、ついでに金も奪ったのかもしれない。
その場合、ネルソン・ポーが言ったように、その悪党は、ポーが「奪われたことがわからない状態」、つまりふらふらになっているところを狙って荷物を奪い、立派な服を脱がせてから、ボロ服を着せたのだろうか。しかし、「感覚を失っていて」「死体のように」ぐでんとなった人に服を着せるのは容易ではなく、時間がかかるものだ。犯行現場から直ちに立ち去りたいはずの犯人が、そんな手間をかけるだろうか。服をはぎとったら、荷物を奪って逃げればよいのではないのか。それとも、ポーの意識がはっきりしているうちに脅して服を着替えさせてから、酒を
ポーの死の謎に迫るには、なぜボロ服を着ていたのか、あるいは着せられていたのかを解明しなければならないが、これまで考えられてきたクーピング説や暴漢説ではどうにも納得がいかない。新しい推理が必要なようだ。
まずは、倒れていたポーが発見されたときの状況を再確認しよう。訂正すべきはマラッカ
すなわち、これまでどの伝記にも、ポーは泥酔状態で発見されたと記されてきたが、これが〝事実〟なのかという点だ。
ポーの死因について、これまではアルコール依存症による振戦譫妄や、暴漢説、クーピング説などが唱えられてきましたが、本書はそれらとは別の説を提唱します。それはいったいなんでしょう? 続きは本書で御覧下さい。
ポーの死の謎まとめ
① 当時ポーは、リッチモンドとノーフォークで講演をすませ、自宅のあるニューヨークへ向かう列車に乗り、帰途についたはずだった。だが、ボルティモアの選挙投票所となっていた居酒屋の前で倒れているのを発見される。いったい何があったのか?
② 発見時、ポーはぼろぼろの麦わら帽子をかぶり、安物でサイズの合わないズボンを履き、シャツはくしゃくしゃ、ベストもネッカチーフもつけていなかった。いつも身なりに気を遣い、エレガントな服を羽織り、ネッカチーフも忘れずにつけていたはずなのに…。その理由は?
③ ポーのトレードマークと言えるひげも剃られてた。いったいどうして?
④ そして、なぜポーは亡くなったのか?
作品紹介
ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人
著 エドガー・アラン・ポー訳 河合 祥一郎
定価: 836円(本体760円+税)
発売日:2022年03月23日
ミステリーの原点!世紀の天才のメジャー作から知られざる名作まで全11編
ミステリーの原点がここに。――ポー新訳2冊連続刊行!
世界初の推理小説「モルグ街の殺人」、史上初の暗号解読小説「黄金虫」など全11編! 解説「ポーの死の謎に迫る」
彼がいなければ、ホームズもポワロも金田一も生まれなかった――世界初の推理小説「モルグ街の殺人」。パリで起きた母娘惨殺事件の謎を名探偵デュパンが華麗に解き明かす。同じく初の暗号解読小説「黄金虫」や、最高傑作と名高い「盗まれた手紙」、死の直前に書かれた詩「アナベル・リー」など傑作を全11編収録。ポーの死の謎に迫る解説や用語集も。世紀の天才の推理と分析に圧倒される、新訳第2弾!
【ポーの傑作ミステリー+詩】
世紀の天才のメジャー作から知られざる名作まで全11編
モルグ街の殺人 "The Murders in the Rue Morgue" (1841)
ベレニス "Berenice" (1835)
告げ口心臓 "The Tell-Tale Heart" (1843)
鐘の音(詩) "The Bells" (1849)
おまえが犯人だ "Thou Art the Man" (1844)
黄金郷(エルドラド)(詩) "Eldorado" (1849)
黄金虫 "The Gold Bug" (1843)
詐欺(ディドリング)――精密科学としての考察 "Diddling" (1843)
楕円形の肖像画 "The Oval Portrait" (1842)
アナベル・リー(詩) "Annabel Lee" (1849)
盗まれた手紙 "The Purloined Letter" (1844)
作品解題
ポーの用語
ポーの死の謎に迫る
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