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レビュー

巨匠・松本清張が描く、大学教員たちの濃密な愛憎劇!――『葦の浮船』文庫巻末解説

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

葦の浮船』文庫巻末解説

解説
たかはし とし  

 いつかどこかで、見たことがある。聞いたことがある。接したことがある。
 まつもとせいちよう作品は、わたしたち読者に、そんな既視感をもたらさずにはおかない。
 手元の辞書をひらけば、既視感とは、デジャビュすなわち「それまでに一度も経験したことがないのに、かつて経験したことがあるように感ずること」(『広辞苑』第七版)である。しかし、松本清張作品の既視感は、少しちがう。
 作品でえがかれた特定の事件または出来事そのものを、「一度も経験したことがない」のはたしかである。これはまちがいない。が、そう言いきってしまうと、たちまち、いやそうではあるまいという思いがせりあがってくる。はっきりと特定はできない。いつ、どこでも、あいまいである。しかし、聞いたことがなく、見たことも接したこともないとは、断言できない。かつてそんな事件または出来事の一端に触れた、あるいは、かつて触れただけでなく今なお触れているのではあるまいか……。
 このもどかしさが、松本清張作品を読みすすめるもうひとつの動因となる。物語の上で実際に展開する事件または出来事を追うスリリングな読書は、同時に、読者それぞれの、あたかも白い闇にしずんだ体験をうかびあがらせつつ、それらとの今までにない直面を不可避とするあんうつな読書となる。


葦の浮船 新装版
著者 松本 清張
定価: 748円(本体680円+税)


 たぐいまれな異能力の持ち主である犯人と探偵が、特殊で特異な事件をはさんでたいするという従来の探偵小説に対し、一九五〇年代後半に、短篇集『顔』、『点と線』、『眼の壁』など、松本清張が次つぎと発表した社会派推理小説。それらは、読者が物語と共有する「社会」において生起する、けっして特殊でも特異でもない事件を物語の中心にすえた。
 松本清張は述べる。「私は自分のこの試作品のなかで、物理的トリックを心理的な作業に置き替えること、特異な環境でなく、日常生活に設定を求めること、人物も特別な性格者でなく、われわれと同じような平凡人であること、描写も『背筋に氷を当てられたようなぞっとする恐怖』の類いではなく、誰でもが日常の生活から経験しそうな、または予感しそうなサスペンスを求めた。これを手っ取り早くいえば、探偵小説を『お化屋敷』の掛小屋からリアリズムの外に出したかったのである」(『黒い手帖』の「推理小説の魅力」より)。
 松本清張の新たな試みは、作者の意図において画期的であっただけではない。読者からそれぞれの日常的かつ社会的体験にもとづく既視感(社会的既視感というべきか)をひきだして、読者を物語に積極的に参加させ、一人ひとりに出来事との応答をせまる試みでもあったのだ。

 同じく東京のR大学に勤めているが、性格も学問の研究スタイルも正反対の二人の助教授を主人公とした本作品『葦の浮船』は、一九六六年から翌年にかけて雑誌「婦人俱楽部」に連載された。
 発表からすでに半世紀以上たっている。しかし、生活や風俗の一部はともかく、全体として古びた印象はない。今度初めてこの作品を手にとる若い読者も、さほどの違和感なく物語に接することができるだろう。当時は、一九四五年の敗戦からすでに二〇年をこえ、高度経済成長期のまっただなかで、現在にいたる生活と社会の日常がすでに形成されはじめていた。
 折戸二郎は三六歳、国史科の上代史専攻の助教授で、二つ年下の小関久雄は中世史専攻の助教授である。秀才型の折戸は、独自の発想から研究をすすめて業績もあった。自らを鈍才と思っている小関は、学問研究において尊敬してやまぬ折戸から離れられず、羽振りがよく女遊びのすぎる折戸にへきえきとしつつも、その頼みを断りきれない。折戸には既婚者で過剰なまでに情熱的な笠原幸子を、小関には知的で冷静、考古学好きの近村達子を配し、物語はむごい結末にむかって読者をひっぱりつづける。

 個々の人間関係がめまぐるしくうごくのに対し、ほとんど揺るがないのが、大学における学閥の支配である。学閥すなわち特定の学派または学会に属する学者によってつくられる派閥は、つよい求心性とともに排他性を有する。普通それは、特定の学派または学会の内と外、さらには大学の内と外を切りわけてなりたつが、ここでは、大学内部に「内と外」の支配秩序が形成されている。
「内」で独裁的にふるまうのが史学会の大物でもある浜田学部長で、折戸も小関も浜田の弟子として出世し、すでに助教授のポストを得ていた。他方、浜田と同じ磯村博士門下の西脇俊雄は、浜田によってずっと専任講師にとめおかれたままである。浜田にまさる学問的業績がありながら、あらゆる権威を認めず学会にも出ない万年講師の西脇は、見せしめ人事の犠牲者として、大学内部の「外」をたえず可視化する。
 作品中では、登場する学者それぞれの学問的傾向と具体的な研究内容にはほとんどふれられていない。ときに物足りなく感じられもするが、その内容の如何いかんを問わず、個々の大学において形成されている学問の顔をしたしき支配秩序をうかびあがらせたい、というのが松本清張のもくであったろう。戦前の堅固で排他的なアカデミズムにくらべればはるかに弱体化したかに見えて、しかしそのじつ、小さくソフトでありながら権威主義的な秩序が大学内、学部内にいくつも根をはっているという醜悪なさまを、である。

 折戸を教授に昇格させ小関を地方の大学へ送りだすことで、R大学は何事もなかったように事件をいんぺいした。物語の結末近く、「このままでは大学は腐敗する」と西脇は小関に語る。そして、「この機会に浜田行政を徹底的に批判し、学部内の改革をしなければならぬ」とげきこうした。
『葦の浮船』の発表から数年の後──。
 どこの大学にもはびこる腐敗を、学生たちが中心となり大学内部から鋭く、かつ激しく告発する運動が全国で爆発的に展開した。一九六〇年代末の、いわゆる全共闘運動である。『葦の浮船』が、そうした運動を予見し、導いたとまではいえぬとしても、大学における悪しき権威主義的秩序の告発を、運動と共有していたことはまちがいない。
 では、半世紀以上前に、学問の顔をした権威主義的秩序の腐敗を大学につきつけた『葦の浮船』は、今はもはや懐かしい過去の物語にすぎないか。
 そうではない。
 残念ながら、そうなってはいない。
 いつかどこかで、見たことがある。聞いたことがある。接したことがある。
『葦の浮船』は、折戸二郎、小関久雄、笠原幸子、近村達子、浜田学部長、西脇講師らの言動を丹念にたどる新たな読者に、そんな暗鬱な思いをたえまなく喚起させ、それぞれに応答をせまるだろう──。

作品紹介



葦の浮船 新装版
著者 松本 清張
定価: 748円(本体680円+税)

巨匠・松本清張が描く、大学教員たちの濃密な愛憎劇!
小関と折戸は同じ大学に勤める助教授同士。業績もなく風采の上らない小関に対し、折戸は秀才型で女性からも人気。
性格は対照的だが不思議とウマが合った。折戸は妻子ある身で通信教育で教える人妻と不倫関係に陥る。
やがて、出世に目がくらんだ折戸は、相手を面倒に思うようになるが……。
大学内の派閥争いを軸に男女の愛憎を描いた、松本清張の傑作長編。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322103001862/
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