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レビュー

「この一冊で佐藤亜紀の小説に出合うあなたが羨ましくてならない」宝の山の入口のようなインテリジェンス(知性/諜報)歴史小説『天使・雲雀』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:とよざき / 書評家)

 第一次世界大戦の約十年前から一九二八年にかけてのヨーロッパを、他者の頭の中に入り、探り、動かすことができる〈感覚〉をそなえたかんちようたちがばつする。とうの『天使』と『雲雀』は、オーストリア=ハンガリー帝国のしゆうえんとハプスブルク家の斜陽を、史実とフィクションを巧みに織りまぜた筆致で描くインテリジェンス(知性/ちようほう)歴史小説だ。

 主人公はジェルジュ・エスケルス。グレゴール(またの名をライタ男爵)という馬泥棒から度胸と才覚でのし上がった悪党の私生児として生まれ、育ての親であるヴァイオリン弾きが路上で野垂れ死にすると、顧問官と呼ばれる男にウィーンに引き取られ、十歳から〈感覚〉の英才教育を施される。顧問官の右腕コンラート・ベルクマンの荒っぽい洗礼を受けて、めきめきと磨かれていく能力。顧問官のボスであるヨーゼフ・フェルディナント大公のめいギゼラとの出会いと宿命の恋。弱冠十八歳で与えられる初めての任務。ペテルブルクで無政府主義者たちの結社に潜入し、コンラートと顧問官の連絡係として暗躍するも、そこで宿敵となるアレッサンドロ・メザーリに遭遇し、目の前でコンラートを殺されてしまう。

 男は死体を離し、ジェルジュを引きずり起した。壁に叩(たた)き付けられる勢いで感覚まで押え込まれた。頭蓋(ずがい)の底が唸(うな)りはじめたが、男は平然と力を加えた。握り潰(つぶ)されないようにするのがやっとだった。咽喉(のど)に掛った手首を摑(つか)んだ。ナイフを握った手を捉(とら)えた腕が震えはじめた。腹を蹴(け)り付けた。頭の中を押え付けていた力が僅(わず)かに緩んだ。箍(たが)が外れたように感覚が暴発した。
 文字通り、裏返しになった。弾(はじ)き飛ばされた相手の叫びを聞きながら、無我夢中で体を取り戻し、コンラートの銃に身を投げ出した。一撃されて目が眩(くら)み、体が潰れた。ほとんど見もせずに殴り返した。手を伸ばして銃を摑み、向けた。
 誰もいなかった。

〈感覚〉を使った初めての死闘。この時、一九一四年。以降、ジェルジュは顧問官に命じられるまま、ヨーロッパ各地で、同盟国(オーストリア=ハンガリー帝国・ドイツ帝国ほか)が協商国(ロシア帝国・フランス共和国・イギリス帝国ほか)に対して仕掛ける工作や諜報活動に身を投じていくのだ。

 その間に出会う大勢の〈感覚〉を具えた者たち。敵となる者、友情をはぐくんでいく者。顧問官の仕事のあとがまを狙うがゆえに、っ子のジェルジュを憎み、何かというと邪魔をしてくるぼうの伯爵ディートリヒシュタイン。情熱的な情事を繰り返すことになる、年老いた元帥の後妻レオノーレ。外務省の役人で、〈感覚〉を通して情報をやり取りする任務を通じてジェルジュと親しくなり、やがて単独講和という大きな画策を共に仕掛けることになるダーフィット。国家の戦後処理のみならず、ジェルジュ自身の戦後処理の手助けもすることになるオットー&カール兄弟。グレゴール・エスケルスと、彼に買われてジェルジュを産むことになったヴィリ。宿敵のメザーリ。ファム・ファタルのギゼラ。

 大勢の人物が登場し、世界大戦という大事の中、さまざまな出来事が起こり、死ぬ者は死に、生き残る者は生き残っていき、彼らの来し方や思いが物語の「ここぞ!」という箇所で明らかにされていくことで、恐ろしいほどの〈感覚〉の持ち主であるジェルジュの像がじょじょに、多角的に、くっきりと立ち上がっていく。

 ポストモダン文学的な奇はてらわず、基本的には時系列順に物語は進んでいき、その無駄のない記述の中に効果的に過去のエピソードを挿入する落ち着いたストーリーテリング。「男」「女」「悪人」「善人」といったレッテルを顔に貼り付けてはいない、それぞれがそれぞれに物語世界の中で一個人として生きている人間になっているキャラクタライゼーション。深い教養に裏打ちされたせいな資料渉猟。調べたことすべてを投入したいエゴのために物語を無駄に長大化させるという、多くの長篇作家がはまりがちな過ちを避ける冷静さ。佐藤文学を愛する読者が賞賛する多くの美点の中でも、わたしがとりわけ陶然となるのは文章表現だ。

 先にジェルジュとメザーリの初めての死闘の一部を引用紹介したが、この小説は〈感覚〉を具えた者が多々登場するゆえに、彼らがどのように相手の中に入り、意志を探り、支配しようと試み、こぶしではなく〈感覚〉で殴ろうとするのかの表現はひつ。しかし、おそらくではあるが、作者にその能力はない。ないものを言語で表現しなければならないわけだけれど、それは視覚表現よりも格段に難しい。映画やドラマや芝居や漫画でなら、たとえばけんに力をこめるか、かたまゆを上げるかした主人公の前で、相手が顔をゆがめたり、ぼうぜんとなったり、苦しんだ挙げ句倒れたりすればいいのかもしれないが、小説ではそうはいかない。や、そういう簡単な描写でお茶を濁す作家もいるかもしれないが、佐藤亜紀はそんなズルをしたりはしない。

 浅くゆっくりと呼吸しながら、体を緩め、蟀谷(こめかみ)の緊張を解いた。頭蓋の底が騒(ざわ)めき始めた。内側から押し上げる力を感じた。
 それを少しずつ膨れ上がらせた。酒を飲んだ状態で押すのに似ていたが、はるかに自然で、殆(ほとん)ど快くさえあった。中庭の木に小鳥が来ているのを見付けた。小さな体の重みや羽毛のふくらみ、陽の光に溶けて滴る枝先の水滴まで感じ取れた。彼はその暖かい塊を手の中に包み込むように感覚で包んだ。それから、軽くつついた。小鳥は驚いて飛び去った。更に体の力を抜いた。捉えられる全てのものが眩(まばゆ)いくらいに鮮明になり、影は濃さを増した。どこにも注意を向けることができなくなった。どこかに気を引かれると、その強烈な色彩が視野を塗り潰そうとするからだ。抑え込もうとしたが突き上げる力に振り切られた。衝撃とともに、世界が暗転した

 これは、十六歳のジェルジュがコンラートに教えられた方法にのっとり、〈感覚を完全に解放する〉ことで感覚者としての自死を試みる場面。

愛撫(あいぶ)は随分と長く続いた。五感が溶け去ったような錯覚に陥ってから漸(ようや)く、感覚を絡み合わせて相手を貪(むさぼ)った。彼らの感覚は交わる体を包んでお互いを吞(の)み込み、触れ合う皮膚との区別を失った。甘い果肉に包まれた固い種子のように感じられるのがお互いの肉体なのか、入り込めば入り込むほど固く内側に巻き込まれながら熱を放つ意識なのかもはっきりとしなかった。寝台の中で交わっている、一番重く、脆(もろ)く、敏感な一部は、肉体と感覚に幾重にも包まれて、身を捩(よじ)り、痙攣(けいれん)した。

 こちらは、感覚を具えたレオノーレとの情交の描写。

 軽い共振を起していた。相手の感覚があまりにも強いのだ。不愉快ではなかった。意識の表面がダーフィットの声に洗われているような気がした。取り出して宙に浮べるように、ダーフィットは縺(もつ)れた毛糸玉のようなもの、ひどく複雑な知恵の輪のようなものを示した。あらゆる事柄を、ダーフィットは高さと広がりだけではなく、時間の経過まで深さや距離として把握できるような、空間的認識として整理していた。
 途方もなく複雑だった。しかも明晰(めいせき)で、厳格で、精確だった。ジェルジュはその思考の建造物の周囲を回り、欠落した部分を指摘し、当て嵌(は)めるべきものを見せた。

 これは、外務省役人ダーフィット(後に、ジェルジュと特別な関係であることがわかる)との、感覚を介した接触の表現。

 サイキック同士の対決シーンだけでなく、作者はこの小説の中でジェルジュが異能を使う場面すべてにおいて、わたしたち五感にとらわれた人間には経験しえない感覚を文章で表現しきっているのだ。解説から先に読む悪い癖がある皆さん(わたしもですが)、これから本編に入り、ジェルジュの物語に寄り添っていくあなたの頭の中に浮かぶ「!」が、〈感覚〉を持たないわたしにすらありありと見えます。佐藤亜紀が異能をどれほど優雅に、スリリングに、泰然とした筆致で描いていくことか。存分に驚嘆なさってください。

 とはいえ、佐藤亜紀の小説は決して易しく/優しくはない。状況の説明はその場では最小限にとどめられ、各エピソードのシークエンスの中に情報をちりばめることで全体像を提示。ゆえに、平気で読み飛ばしたり、自分が理想とする物語の鋳型に無理やり当てはめようとしたりする荒っぽい読み方をする読者は取り残されることになる。しかし、目の前に広がった物語に虚心たんかいに入っていき、予断を持たず、伸びやかにその世界をたのしみ、素直に丁寧に登場人物の言動を追いかけることができる読者には、必ずや大きなよろこびを与えてくれる小説家なのだ。

 選ばれし者のこうこつと孤独。帝国と名家の栄光と没落。その悲哀とていかん。エスピオナージュ(諜報)小説の不穏と、歴史小説の教養と、ビルドゥングスロマンの快感と、恋愛小説の甘美と、サイキックウォーの興奮を具えた『天使』と『雲雀』が、今回一冊にまとまって文庫復刊されることがうれしくて、嬉しくて嬉しくてならない。この一冊で佐藤亜紀の小説に出合うあなたがうらやましくてならない。それが宝の山のほんのとば口にすぎないことを、今のわたしは知っているから。



佐藤亜紀『てん使雲雀ひばり詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000256/


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