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レビュー

日本民族のルーツに連なる「倭」「倭人」は、古代中国の歴史書でどう表現されてきたか? 稲作や高床式住居など独特の文化様式を持つ倭族の軌跡を辿る︕『倭人・倭国伝全釈』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:鳥越 皓之 / 大手前大学学長)

 倭人や倭国について、実証的に論じようとする場合、ふたつの方法が使われている。ひとつは残されている文献という文字資料にる方法。もうひとつは考古学や文化人類学による物質・伝承資料に拠るものである。後者は広く非文字資料と言ってよいかもしれない。

 本書は倭人や倭国が記述されているすべての中国正史の当該箇所を翻訳し、それに解釈を加えたものである。

 中国正史の種々の文献をこの一書にまとめていること自体、読者にとってとても便利なことである。しかしながら、さらに貴重なことは詳細な訳注と解釈であろう。訳注を加え解釈をするためには、既存の文字資料に依存して述べるだけではあきらかに限界がある。もちろん、相互の文献を比較検討することは不可欠である。だが、この中国正史の多くは、前の時代に記述された文献に大きく依拠しながら新しく書き直すという方法をとっているために、文献相互の比較によってあきらかにできることが限られている。

 日本の文字資料である『古事記』や『日本書紀』も貴重である。けれども、それらのすべてが史的事実かどうかについて、常に疑義が投げかけられてきた。それと同じように『漢書』などいわゆる中国正史が事実通りかというと、これも信頼性に限度のあることが研究者によって指摘されていることに注意をしておく必要がある。

 たとえば東洋史家のおかひでひろは『三国志』についてつぎのように指摘している。「過大な里数や戸数は、二三九年に倭の女王卑弥呼に〝親魏倭王〟の称号を贈ったときの、いわば建て前である。これは司馬懿の面子を立てるためにおこなわれたことであった。司馬懿の孫であり晋の武帝の修史官である陳寿としては、いかにそれが事実でないと知ってはいても、正史である『三国志』に本音を書くわけにはいかなかった」(岡田、『倭国』中公新書、一九七七、八八頁)。

 文献資料には事実が含まれている一方で、このような虚偽が入っていることに注意をする必要がある。本書で鳥越がしばしば注釈として「これは粉飾である」、「虚構である」とか「伝承の影響をうけて作為的につくったものである」というような文言を挟んでいるのはそのためである。注釈には真偽を見極める知能が問われているのである。

 また、文献に出てくる倭人や倭国についての記述は、短くて限られている。そのため、訳注・解釈をするにあたって、物質・伝承資料が大きな助けとなる。

 本書の著者、鳥越憲三郎は古代史家として文献操作に慣れているだけではなく、物質・伝承資料の分析や収集においても豊かな経験をもっている。その理由を理解するためには、彼自身の研究者としての経歴を紹介しておく必要があるだろう。

 鳥越はミッションスクールである関西学院大学法文学部を昭和一三(1938)年に卒業している。彼の師はS・M・ヒルバーン教授である。このヒルバーン教授は宣教師でもあったが、シカゴ大学でPh.D. を取得した宗教学の研究者でもあった。当時、日本の宗教学は、社会学や心理学もそうであったように、哲学科のなかに置かれた哲学的な宗教学であった。日本の宗教学が哲学を離れ、現場に出向いて実証研究をはじめるのは、やなぎくにの影響を受けたほりいちろうこうとする。柳田との共著『十三塚考』(一九四八)あたりが代表的な初期の作品と言えよう。

 ところが鳥越はすでに実証的宗教学・宗教史の研究を深めていたシカゴ大学仕込みの教育を受けて、昭和一三年以降、同大学の助手として沖縄の民間信仰の研究をつづけた。とくに昭和一七(1942)年から現地の沖縄県学務部社寺兵事課に嘱託として勤務し、しゆなん殿でんに研究室と家族の居住の場を与えられた。そして実証的な宗教学・宗教史の最初の著作、『琉球古代社会の研究』を昭和一九(1944)年に出版している。

 つまり、現場を歩き、現場で伝承を聞き取りつつ、御嶽うたきという森林の聖域やさまざまな遺跡の探訪を行った。昭和一七年にはだか島の秘儀とも言われるイザイホウの行事を研究者としては最初に観察した。沖縄県庁の宗教担当者ということで、特別に調査が許可されたためである。鳥越が調査したりゆうきゆう国では、邪馬台国と同様の姉(妹)と弟(兄)による祭政二重主権が行われていた。姉(妹)の大君(王)はきこおおきみとよばれ、祭事を担当し、弟(兄)は政事権と軍事権を保持していたのである。

 一方、鳥越は戦後になって、沖縄の歌謡集『おもろさうし』の全釈に十数年をかけて取り組み、それは昭和四三(1968)年に五巻本として出版された。解説者の私、皓之は鳥越の息子であるが、朝から夜遅くまで毎日机に向かい、この『おもろさうし』の翻訳に取り組んでいた後姿を、一度も遊んでもらえなかった不満とともに記憶している。難解な『おもろさうし』の全釈は画期的なものだったので、沖縄の新聞で大きく取り上げられた(この経緯は山口栄鉄『琉球おもろ学者 鳥越憲三郎』琉球新報社、二〇〇七、に詳しい)。

 鳥越が沖縄をフィールドとしたことと、難解であった琉球国の中心的な文献を全釈したことが、ともに本書の下敷きとなっている。沖縄のフィールドは日本の古代を想起させるものであった。民俗学者の柳田国男やおりくちしのが沖縄に強い関心をもったのもそのためであった。したがって、鳥越の最初の著書の『琉球古代社会の研究』の古代とは時代としての沖縄の古代ではなくて、古代を〝想起させる〟という意味での古代であった。この当時はこのような使い方が流行はやったようである(たとえば、早川孝太郎『古代村落の研究─黒嶋』一九四一など)。

 歴史家が考える〝時代としての〟古代ではなくて、民俗学者などが考えるこの〝想起させる〟古代ということは、本書の解釈にとって貴重である。想起とはそこからヒントを得ることを意味するからである。そのため、鳥越は倭人や倭国を考えるにあたっても、ヒントを得るために現地である中国を歩きまわる必要を痛感したのである。

 現地を歩くといえば、鳥越の最初の日本の古代史についての著作『出雲神話の成立』(創元社、一九六六、のち『出雲神話の誕生』二〇〇六と改名されて講談社学術文庫に収録)も、たんなる文献の渉猟にとどまることなく、島根県の現地を詳しく歩いていることがこの書の特色となっている。

 鳥越は60歳代の中頃から70歳代にかけての十数年間、韓国や中国、東南アジアのうんなんの南にあたる辺境を踏査することになる。そしてそれらの地の少数民族のなかで、実際に鳥居や高床式住居、まだ貫頭衣を着ている人たちに出くわす。またラワ族の人たちが熱湯を入れたかめに手を入れて神判を求めるいわゆるくがたちという習俗をもっているのも発見するのである。

 一九八〇年二月におこなわれたタイ国の山地に住む少数民族アカ族の調査は、テレビのドキュメンタリーの収録のためであったので、十人弱というやや規模の大きな人数での調査とドキュメンタリーの記録となった(同年、四月二九日放映「生きていた倭人」、毎日放送)。この調査には私も参加したので、調査の内容を記憶している。一同が驚いたのは、タイの人たちが山地民族と呼んでいるアカ族の集落にたどり着いたとき、日本人ならば誰でも鳥居とイメージする鳥居の形をした木製の入り口があり、驚いたことに、その鳥居に複数の木製の鳥がとりつけられていたことである。文字通り、本物の〝鳥居〟だったのである。さらに注連しめなわがかけられていた。鳥越は別の本でつぎのように言っている。「アカ族でみますと、(日本の)神社の鳥居とまったく同じ形式で、播種直前に村の入り口と出口に木の門を建てます。その笠木の上には、数個の木彫りの鳥の形象物が置かれていますが、農耕の開始とともに天の神を村の出入口に迎え、豊穣と幸福を守ってもらおうとしたものです。それと寸法まで同じ鳥の形象物が、大阪府和泉市の池上遺跡の周濠から発見されました」(『古代史への道』ブレーンセンター、一九九一、一七二頁)。

 このアカ族の高床式の家屋の写真は本書の「序説 倭人について」に掲載されている。日本においては、高床式は神社の本殿にその姿をとどめているだけである。本書でも説明があるように(「序説 倭人について」)、高床式になると履物をぬいで部屋に入る習俗ができあがる。

 本書の解釈と注釈を貫いている基本的な考えはどのようなものであろうか。それは鳥越が「倭族」という新しい命名をしたところの特定の文化要素のセットをもった民族の存在の指摘である。この「倭族」は、中国のちようこう流域で紀元前にはなんどか王国も作った民族であり、それはへいと迫害によって、各地に分散した。そしてそのうちの一支流が現在の日本にたどり着いた。したがって、日本も倭であることには違いないが、日本に限られるわけではないという考え方である。

 この考え方は倭を日本とほぼイコールで結びつける日本古代史の研究者たちの考え方と大きく異なる。もっとも古代を研究対象とする日本史家にとっては、倭である国や国が関心の対象であって、中国の南部や雲南および東南アジアの雲南近くの山岳にいる少数民族が倭であるかないかは関心の外ということになろう。

 それは日本史家の場合、主要には文献に基づくので、文献のある「漢委奴国王」印で有名な奴国あたりから研究をはじめればよいということで、日本人の起源論にはかかわらないという立場であるといえよう。文献だけに依存する場合はそうせざるを得ない。

 そういうなかで、考古学者のもりこういちが注目すべき見解を示している。いまの韓国や中国に倭を想起させる考古学的遺物が存在するし、『漢書』の地理志の「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時を以て来たり、献見すという」という文章に基づいて、森はつぎのように指摘している。

 この漢書に「登場した倭人は、漁撈活動や商業活動で中国人と接触をもったというのではなく、すでに整然とした外交活動によって記録された国際人としての倭人である」(森浩一編『倭人の登場』中央公論社、一九八五、三七頁)。また彼はいう。朝鮮半島の固城の貝塚や土器などの遺物から、倭人は「領土的な侵略者としてではなく、固城を代表とするような沿岸の港を倭人が早くから商業と航海の拠点として利用していたことは十分に考えられる。……固城の東外洞貝塚では、日本の対馬に集中する、巨大化したひろさきどうほこが出土している」(同上、四八頁)。つまり、森の考え方は日本史家と同じく、倭国は日本であるが、その日本はこの時期にも国際化していて、朝鮮半島や中国で、倭国のそくせきが残っているのはそのためであるという考え方である。

 また朝鮮古代史・古代日朝関係史を専門とするいのうえひでは「私は中国や朝鮮の古典にあらわれる倭を、日本列島のことだけを指すものでないと考えているが、その記事のほとんどが大和朝廷のことであると考えている日本の歴史学会に所属し、それらの意見をもつ人たちときわめて密接に接触し、しばしばこの問題で討議を重ねている。にもかかわらず、私はいぜんとして四つの倭を主張」(「五世紀までの中国・朝鮮の古典に現われた倭」『東アジアの古代文化』創刊号、一九七四、一四二~一四三頁)すると、まず立場を明らかにし、つぎのような論を展開している。すなわち、中国の古典『山海経』に依拠しながら、倭の範域として、日本列島、朝鮮半島の一部、さらにその北方にひろがる山東省の北部を倭のいた領域とみなしている(井上秀雄『倭・倭人・倭国』人文書院、一九九一、六三~六五頁)。

 では人類学・民族学者たちはどのような説を展開しているのであろうか。おおばやしたりようはいう。「倭人の風俗習慣は中国の中部から南の地域の住民のものと共通するものが少なくないのである。ということは、華北の、漢民族の中心地の文化とは異質な文化、つまり南の非漢民族系住民の文化伝統に、倭人の文化がよく似ていることを意味している」(大林太良「東アジアにおける倭人民俗」森浩一編『倭人の登場』同右所収、二五九~二六〇頁)という。また「中国江南からインドシナにかけて龍やワニの文身があり、かつしばしばそれは漁民の習俗であった。倭人の文身も、まさにこの分布圏の東端に位置していたのである」(同右、二六二頁)。「倭人の服装は、女の貫頭衣、男の横幅、どちらも中国南部あるいは東南アジアにつらなるものなのである」(同右、二六四頁)。「倭人の文化と中国南部から東南アジアにかけての文化との類似は、服飾、航海習俗などに限られていない。実は王権の構造や刑法といった、社会機構のきわめて重要な部分にも及んでいたのである」(同右、二六八頁)とも述べている。

 この大林の指摘は、大林自身がこれらの地域の現地調査をほとんどしておらず、どのような資料にもとづいているのか不明なところもあるが(一般向きの書物であるため、細かな引用を避けたためと思われる)、ともあれ、中国南部と東南アジアに倭と類似の習俗があるという指摘は、鳥越の指摘と重なってくる。

 ただ、大林はあくまでも倭を日本ととらえている。そして大林はこの類似は倭の文化が「何百年にもわたる、大小の集団や個人が、さまざまのルートで」「中国東南部、つまりえつの地」(同右、二七五頁、二七七頁)から倭(日本)に流入したためと解釈している。つまり、倭族の移動というよりも、文化流入説をとっている。

 ところで、日本文化のルーツ論として、よく知られている「照葉樹林文化論」がある。そこでは倭については討議されていないが、これまで紹介した倭についての見解と深く重なるところがある。ここでいう照葉樹林とは東アジアの温暖帯にひろがるカシやシイ、ツバキなどの常緑の広葉樹林帯をさす。そこでは、モチや納豆、ナレズシなどの発酵食品、高床式住居、山の神信仰などの現在の日本でもみられる文化的特色がみられる。またプレ農耕段階から、雑穀栽培を主とした焼畑段階、そして中国の長江中・下流域からはじまる稲作が卓越する段階へと三段階の移行をしてきたとするという考え方にたっている。

 この「照葉樹林文化論」は栽培植物学者のなかすけの照葉樹林帯における文化要素に日本との共通点が多いことの心づきを契機として、こうめいなどの文化人類学者による論理のせいと現地での人類学的調査が行われて、一九七〇年代中頃に至って文化人類学による日本文化ルーツ論として注目された(佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』中公新書、二〇〇七、が概説書としてよい)。これは文化要素の類似を日本文化のルーツと言いきった壮大な仮説である。この文化論が考える空間は中国の雲南あたりを中心としたとうはんげつとよばれる地帯であり、北のアッサムから南の湖南に至り、そして東南アジアの北部も含む。

 それは本書の鳥越が言う地域とかなりの重なりを示す。というよりも、鳥越は、そのようなことは一言も述べてはいないが、「照葉樹林文化論」の影響を受けていた可能性がある。あるいは鳥越の立場にたった言い方をすれば、鳥越はこの文化論が当時の文化人類学会で市民権を得ていたことが、自分の倭族論という考え方を押し進める気持ちの支えとなったと言えるかもしれない。口頭では自分の論拠を強化するために、照葉樹林文化論でも同じことを言っているというような発言を耳にしたことがある。

 以上のことから、鳥越の解釈はとりわけ目立って際立ったものではなく、既存の事実とさまざまな解釈のうちのひとつと位置づけられよう。倭をほぼ日本列島とする従来の主要な考え方以外の可能性がデータから成立すること。雲南や長江あたりを中心にした東アジアの山岳地帯を含めた地域に日本の基層文化と類似する文化が存在することも理解されよう。ただ、鳥越の解釈としての、王国も作ったことのある倭族が敗退して四散亡命し、そのうちの一部が日本に至ったというその説明はたしかにおもしろい。だが、それを否定するデータはないけれども、またそれを肯定するデータも多くの研究者をして納得させるほどには十分でないことに注意をする必要がある。

 なお不十分ながらも、『梁書』1「倭は、自ら太伯の後」という表現があり、それについて鳥越は「日本列島に渡来した倭人が自ら太伯の後裔であると伝えていたことは重要なことである」といったのち、このたいはくの呉は滅亡するが「この呉の滅亡とともに、呉の領域とされていた山東省・江蘇省・安徽省の倭人たちが、朝鮮半島中・南部へ亡命し、その一部が日本列島に渡来して、〝自ら呉太伯の後なり〟と伝えていたのである」と解釈している。これなどが肯定するデータのひとつである。

 本書の解釈・注釈の特徴は、大きくは二つあると思われる。すなわち、鳥越以外の解釈者であったならば必ずしもそうは言わなかったかもしれない際立った特色、あるいは立場がある。もちろんそれらを鳥越自身は自分の実証的研究と研究的ひらめきに基づくせいこくを射た解説であると自信をもって言うであろう。ただ、そもそも解釈というものはそのようなものかもしれないが、データと解釈との間には少し隙間があることを指摘しておきたい。それは、データである史書の短文による不十分さ、意図的・無意図的な誤記があるからである。そのため、それらの解釈・注釈の採用・不採用の判断は読者にまかされよう。

 ひとつは「日本列島の倭国の地理的位置」の解釈である。もうひとつは姉と弟などの兄弟姉妹による「祭政二重主権」の解釈である。

 前者の「日本列島の倭国の地理的位置」から説明をはじめよう。それは本書の『後漢書』2の解説で詳しく書かれている。すなわち地理的位置を鳥越は以下のように解釈する。『後漢書』において「日本列島が会稽・東冶の東で、朱崖・儋耳に近い所、すなわち中国の浙江省・福建省の東方海上で、広東省の海南島に近」い「故にその法俗は多く同じ」と後漢書の著者は記述した。

 鳥越は解釈する。せつこう省が倭人であった越人の本拠地であったが、越が楚に敗れたため、その一部が福建省に亡命した。かいなん島(しゆがいは海南島の郡名)も倭人で構成されていた。そのため、倭人が住む浙江省(かいけいは浙江省の郡名)やふつけん省(とうは福建省の地名)の東側の海上に日本列島が南北に連なっていたと漢人は考えた。このように風俗習慣が漢人と異なったいわゆる倭人の習俗がそこにあったために、その海上に日本列島があるとみなしたのである。それは倭人や倭国のことについて知識のない「漢族として無理からぬことであったといえよう」と鳥越はいい、つづいて次のように大胆にいう。

 「それにしても、日本列島の方位を狂わした[場所が異なったことによる方位の狂い]ことで、後世の学者たちを大きく悩まし、邪馬台国九州説の論拠ともなった。しかし、〝南〟を〝東〟として訂正して読むことで事足りるのである」。この方位の90度のズレで鳥越は他の個所でも解釈をしていく。

 たとえば『三国志』23の解説において、鳥越はいう。「まず訂正しておかなければならないのは、方位として北部九州を〝女王国の以北〟と記していることである。再三述べるように、これは中国の地理観の間違いにもとづくもので、正しくは〝以西〟とすべきである」。たしかにないからみれば北部九州は西になる。

 この鳥越の解釈を受け入れれば、邪馬台国畿内説になるが、そうでなければ、九州説も説得力をもつ。そして、学会ではまだ決着がついていない事柄である。

 二番目の「祭政二重主権」の解釈をとりあげよう。すでに述べたように、鳥越は長年におよぶ琉球(沖縄)研究の経歴をもっていた。そしてそこ琉球国においては、祭政二重主権が行われている国であった。聞得[美称、万能の]大君がいて、大君を姉妹にもつ王がいた。

 その事実と「鬼道の道に事え」(神に仕え)るがいて、「男弟あり国を佐治す」(弟が国を治めることをたすける)というこの『後漢書』や『三国志』の邪馬台国の政権の記述があまりにも類似しているので、鳥越は迷うことなく、これを二重主権と判断した。姉(妹)は神との交信を通じて、国全体の方針を表示し、兄(弟)は、その大方針にもとづき、日常の政治をつかさどるというのが二重主権の意味である。

 したがって鳥越の解釈では、卑弥呼やを王と言っても、祭事権者であって、政事権・軍事権をもつ日常世界の王もいたことになる。それをひとりの男性の王をいただく漢人が理解できなくて(『三国志』23の解説)、弟が佐治すなわち「国を治めることを〝たすける〟」と表現したのである。たしかに、卑弥呼は『三国志』26によると、ひとりの男子が飲食を給し、ことばを伝えて出入りするだけであったから、一般的に考えられている王の仕事である政事と軍事の統率は不可能であったろう。すなわち、中国正史では、おそらく珍しがって、邪馬台国をなんども〝女王国〟と言っているが、漢人が想像する王とは異なっていたのである、というのが鳥越の解釈である。

 この男女による二重主権が時代を経て、「祭事権者としての長男と、政事権・軍事権者としての次男との組み合わせに移行する」(『三国志』11の解説)。そのため、『三国志』11で「狗奴国あり、男子、王となり、その官に狗古智卑狗あり」という文章の狗古智卑狗は政事・軍事権者であったろうと解釈をする。

 時代が少しくだって、『随書』のかいこう二十年(六〇〇年)に、倭国の使者が隋で自国の説明をする。「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となし、天いまだ明けざる時出でて政を聴くにして坐し、日出ずれば便すなわち理務を停め、云う、我が弟にゆだぬ」(『隋書』9の解説)。

 鳥越は解釈して、兄の天も弟の日もともに、わが国では王にあたる者を意味するが、天は現人神的であり、弟は実際の政務をつかさどる者であり、使者は大和朝廷の祭政二重主権を説明しているのだという。

 そしてその傍証として鳥越は「和歌山県橋本市の隅田八幡宮に伝わる人物画像鏡で、その銘文に〝大王〟と〝男弟王〟の字が見える」(『隋書』9の解説)と指摘する。

 さてここまではこの二重主権論に納得できるとしても、さらにその延長線上にかなり思い切った解釈を生み出すことになる。

 たいぎよう三年(六〇七年)、隋国への倭国の使者が携えた国書は、冒頭が有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」というしようとくたいが書いたと言われている文面である。もちろん、隋のようだいは大きな不快感を示す。

 この解釈として、わが国で戦前から流布されていたのは、大国である中国に対する日本の堂々たる態度を示した聖徳太子の偉大さの表れであるというものであり、それは現在でもちまたで流布している。

 それに対して、現在、歴史に詳しい人たちによって解釈されているのは、日本と中国とが東にある国、西にある国という同等であることを示した意味にすぎないという理解である。たとえば古代史学者のよしむらたけひこはつぎのようにいう。「倭国王は隋の皇帝と同じ天子であるとして、同格の国王称号を用いたのである。なお、〝日出ずる処〟は東、〝日没する処〟は西を意味するが、東・西に優劣はなく」(吉村『聖徳太子』岩波新書、二〇〇二、八二頁)という説明である。

 その証拠にその次の国書では「東天皇、敬みて、西皇帝に白す」となっている。吉村はおそらく、その次の国書からヒントを得てこの解釈をしたのであろう。

 では、なぜはじめからこのような表現をしなかったのであろうか。荒っぽい暴君でもなかった聖徳太子があきらかに相手の皇帝を怒らせるような文を書くであろうか。怒らせることは倭国にとってなんらの利益もないはずである。

 これに対する鳥越の説明は日本の二重主権論の考え方がこの国書に反映しているというものである。日出ずる処の天子が男弟王を意味し、日没するところの天子が大王を意味するのであって、自分を弟と卑下し、中国の皇帝を兄としたものであるという解釈である。このような二重主権のことを知らない隋の煬帝は不快感を示した。ただ、翌年になって「怒ったはずの煬帝が小国の倭国に使者まで派遣することになった。それは(使者であった小野)妹子が皇帝に倭国の王の特異なあり方を説明し、また鴻臚卿も開皇二十年の遣使の言葉[前々頁に引用したもの]を引いて助言し、煬帝の心を和ませたからであろう」(『隋書』23の解説)と解釈した。

 この「日出ずる処の天子……」の解釈をどこまで二重主権論で押し通せるかは、読者の判断にまかされようが、ともあれ、二重主権論が本書の著者鳥越の強い主張であり、それが「日出ずる処の天子……」の解釈に新説を生み出したのである。

 本書の元の本が出版されたとき、鳥越は九十歳、ひと月前に私の母である老妻が大病で緊急入院し、治療を受けている時期であった。その後、母の回復は思わしくなく、始まった一人暮らしの中で、日々学問を続けることが父にとって生きがいであり、慰めであったと思う。父は日本神話についての執筆にとりかかったが、それは完成せず、平成一九(2007)年九十三歳で没した。本書が最後の著作となったのである。



鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322002000140/


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