男女の愛憎心理を鋭くえぐる松本清張の傑作長編推理。
『内海の輪 』松本清張
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
『内海の輪』著者:松本清張
『内海の輪』文庫巻末解説
煩悩研究(清張地獄に堕ちないための)
解説
みうらじゅん(イラストレーター)
読後の余韻に浸っておられる貴方?
そう、貴方ですよ。
たぶん〝あぁ、自分の身の上に起った出来事じゃなくて本当、良かった……〟と、胸撫で降しておられることでしょう。
あくまで小説ですから、それは当然の感想だと思いますが、決して他人事では片付けられない要素が松本清張さんのお書きになるものには含まれていますよね。
要素とは、すなわち人間が性懲りもなく生み出す煩悩のこと。
野放しになった煩悩はこの小説のように、やがて犯罪を招きます。いくら隠し通せたと思っても必ずや事件は発覚。最終的に人は法により裁かれることになるわけですが、清張地獄の場合、それに至るまでの過程で地獄門は開かれます。
平安時代中期、僧源信によって著わされた『往生要集』、その中に出てくる地獄は死後、堕される所。清張地獄と大きく違う点はそこなのです。生き地獄なんて言葉があるでしょ? 良心の呵責がさらに追い討ちをかけますよね。
清張さんはクールな文体でその煩悩を羅列していかれます。
今回はこの『内海の輪』で、どれだけの数の煩悩が積み重なったのか? または、それが主人公、宗三の清張地獄に堕された原因なのでは? と、思われる箇所を改めて見ていきましょう。
「1」章からの一文。
〝美奈子は二十も年の違う再婚の夫にはじめから愛情は持ってなかったと言った。〟
これは宗三の煩悩ではないように見えますが、いや、だからこそ密会に油を注いだ原因とも言えるでしょう。
〝奇妙なことに、四十になった宗三が二十代の錯覚に
この錯覚、完治しない青春ノイローゼもまた清張地獄への一歩です。
〝美奈子の誘惑が、寿夫への仕返しだったことは宗三にはもちろん分かっていた。〟
そもそも宗三の兄・寿夫の煩悩。キャバレーの女との駈落ちが引き金ですが、これによって宗三は清張地獄の片道キップを手に入れたことになります。
そして、銀座の再会です。〝宗三は、先輩教授の世話で、他の大学の教授の娘と結婚していた。〟ここでまた要素が増えます。世に言う『地位』ってやつです。〝宗三の研究は学界でもわりあい注目されていた。〟と、ありますから将来は明るかった。
人は安定を求めがちです。実際にはそんなものはなく、不安定と不安定の間にある止り木のようなものなのに、それに固執し大きな煩悩を生み出します。
〝美奈子は人妻である。もしものことがあったら自分はどうなるだろう。社会的な非難を受け、大学から
さぁ、清張地獄の門が見えてきましたね。
摑んだものを離したくない。このままどうにか二人の関係を隠し通し、うまくフェイドアウトしたい……。
〝人妻との恋愛に美奈子ほど安全な女はいなかった。〟
などと、必死で思い込みながら。
〝湯につかっていると、美奈子がはいってきた。十四年前よりは肥えていた。
この箇所も重ね合さった煩悩のひとつとしてとても重要。先ほどの〝安全な女〟に大きく係ってる点と考えるからです。恋愛と宗三は言っていますが、もうすっかり肉欲だけの関係であることが明白ですね。
〝「男って、みんなそうなの?」〟情熱を出し切ったあと、背中をむけて寝息を立てる宗三を──と、あるように美奈子もまた、それだけの関係であることは察知しているのです。
〝理想的には予定通り今日じゅうに帰京したほうがいい。〟
肉欲だけの愛人旅行も終盤。宗三は将来に続く考古学の部会で発表するつもりの小論文で頭がいっぱいになってきます。もう一度、先ほどの美奈子のセリフを思い出して下さい。「男って、みんなそうなの?」
冒頭で言った、他人事では片付けられない要素がここに色濃く表れているでしょう?
〝「わたしね。あなたと毎日でもいっしょにいたいのよ」〟
とうとう、安全であるはずの美奈子がこんなことを言ってきましたよ。
宗三はその時、「そりゃ、ぼくだってそうだけど……」と、点々を6つも付けて返しますが、美奈子はそれで機嫌を損ねたことは間違いありません。
〝「ねえ、宗三さん。わたし、いつ、松山の家をとび出すか分からないわよ」〟
ギィ~~ッと、重い音を立てて清張地獄の門が開き始めました。
中は深い霧に包まれよく見えません。そこに堕ちないよう必死でもがいているのですが、美奈子は宗三の手をがっちり握り離しません。そして、いっしょに堕ちる覚悟は出来ていると言うわけです。
〝「困るかときかれたら困らないとはいえないよ。だしぬけだし、ぼくにはまだ気持ちの用意ができてないんだからね」〟
さらなる逃げ口上が美奈子の
〝「じゃ、その気持ちの用意をさせてあげるわ」〟
その物言いはきっと、
〝「…………」〟
黙り点が12。マストになりました。
〝その女のために一切を失うのはいかにも不合理千万であった。〟
そして、宗三はこんな風に思い、女を殺す計画を立てるのです。
当人は気付いていないでしょうが、ここでしょうね。清張地獄に吸い込まれるように堕ちていくしかなかった決定打は。
だから二度もバッタリ旅先で出食わすことになる長谷も、職場を替えていたタクシー運転手も、実は清張さんの化身ということになりますよね。
その煩悩の数々をただの傍観者の立場で見ておられたわけです。カルマは急に止れない。いや、業は積み重なるととんでもない事件を引き起すことだってある。
僕は清張さんの小説(ドキュメントや社会派と呼ばれるもの以外)を読むにつけ、反面教師ならぬ反面仏教を感じずにはいられません。隠し通せると思うな、いつだって私は〝見とるぞ見とるぞ〟と、読者に問うてくるのです。
もう一作の『死んだ馬』。今度は貴方が煩悩の発生したセリフや設定を捜してみて下さい。単なる推理小説ではなく、全て人生に於いてのホラー小説であることがよく分ると思いますから。
PS・清張地獄に堕ちないためには、出来る限り相手に真面目に、そして、自分には努めて不真面目でいることをお推めします。
作品紹介・あらすじ
内海の輪 新装版
著者 松本 清張
定価: 792円 (本体720円+税)
発売日:2023年05月23日
男女の愛憎真理を鋭くえぐる、ミステリの巨匠・松本清張の傑作推理長編!
考古学会の新進として注目されていたZ大助教授・江村宗三は、松山の老舗商店に嫁いだ元兄嫁の美奈子と度々逢瀬を重ねていた。しかし、2 人で計画した瀬戸内海旅行の中で、美奈子は宗三に妊娠を告げる。「もう松山には戻れないわ。あなたなしには生きてゆかれなくなったわ」……子を産む決意だというが、それは宗三の学界からの追放を意味した。宗三は美奈子の殺害を計画するが――。男女の愛憎心理を鋭くえぐる松本清張の傑作長編推理。ほか一遍収録。
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