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レビュー

【評者:平松洋子】殺さなければ、殺される――北海道の山中で、人間と熊と犬が繰り広げる極限の“命”の物語。大藪春彦賞受賞作『肉弾』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:ひらまつ よう / エッセイスト)

 熊の解体に何度か立ち合ったことがある。

 いずれも滋賀の山中で熊撃ち名人として一目置かれる猟師Mさんの仕事だった。仕留めた熊はかならず自分の手でさばいてきたベテランだから、ナイフの運びは的確そのものだ。ごろんとあおけに寝かせたツキノワグマの胸にナイフを刺し入れ、こんしんの力を込めて押し引くと、黒い剛毛に覆われた皮がぶちりと鳴った。仕留められてひと晩経ってなお、あらがいを伝えるきようじんな音。Mさんは手の動きを緩めず、太い縫い針のような毛に覆われた皮を慎重にいてゆく。すると、まったりとした白が目に飛び込んできた。肌理きめがこまかく、まばゆい。これほど豊かな脂肪を皮の下に蓄えて、熊は冬を越すのだ。Mさんが根気よくナイフを動かして皮をぎ終えると、白い熊が現れた。いっそシュールなほど鮮烈な、黒から白への展開。ただそれだけの光景にも、熊という動物の底知れなさがあった。

 本書は、人間と熊と犬が繰り広げる極限の物語である。場所は北海道の山中、描かれるのは四日間の一部始終。読者はつねに、低いうなり、骨のきしみ、肉と肉がぶつかり合う音に鼓膜を震わせることになる。と同時に伝わってくるのは、肉弾が飛び交うありさまから目をらさせはしないと腹をくくった著者のはくだ。

 二十歳の青年キミヤが遭遇する事態は悪夢さながら、生死をけた通過儀礼である。ライフル銃を担いで狩猟に出る父に連れられ、カルデラの中心部へ足を踏み入れてゆくのだが、父と息子とのあいだにはあらかじめうつくつした感情が蓄積している。キミヤには生母と養母がおり、そののち新たな父の結婚相手となった三度目の母は、キミヤにとって初めての性体験の相手となるのだが、その現場に踏み込んで父は母に暴力をふるう。父は、キミヤからことごとく日常を奪う相手であり続けてきた。さらには、高校三年最後の駅伝大会の出場選手に選ばれたキミヤが、大会当日、交通事故に巻き込まれてチームの敗因をつくったことにも父が関与している。自分を肯定できず無気力にさいなまれるキミヤは、父に強引に勧められるまま銃砲所持許可と狩猟免許を取得。狩猟をもくろんで北海道にやってきたふたりの前に、突如、巨大な熊が立ちはだかって──。

 多くのテーマが内包された小説である。エディプスコンプレックス、あるいは父殺し。社会的孤立。性や快楽、欲望。いずれも、人間をめぐる古典的なテーマである。ところがそこへ、人間と動物との関係がきわめて暴力的に、しかも意図的に野卑なかたちで介入し、読者を巻き込んでゆく。

 ただし、人間と動物との関係は、とてもひと言では括れない。そもそも地球上に生をけて以来、人間は動物との共生関係のなかで生き長らえてきたし、生かされてきた。動物は、あるときは食料であり、衣服や住居の資源であり、狩猟の友であり、家畜として使役の役割を果たす産業動物であり、あいがんの対象としての家庭動物でもあり、福祉の場面では社会貢献を働くこともある。また、民族や宗教などによっては、けいや感謝、あるいは忌避の対象として精神的な存在でもあり続けてきた。人間がどのように動物をとらえ、どのようにそれぞれの動物と相対するかによって、さまざまな動物観が形成されてきたのである。「野生動物」という概念にしても、一般に「野生」という言葉は、社会的に管理された産業動物や家庭動物に向けられた対立項として語られる。しかし、「野生」がしめす領域や意味合いは、時代性や社会状況によって変容する可能性を含むのだから、「野生動物」もまた人間との関わりから逃れられないことになる。

 もちろん著者は、このような人間と動物との複雑な関係を百も承知だ。だからこそ、人間、熊、犬を北海道のカルデラという舞台の上に置き直し、まったき同等の存在として位置づける。人間から社会性を引き剝がし、動物は属性を解放することによって、〈(人間が)狩る/(動物が)狩られる〉という二項対立が取り崩され、人間も熊も犬もおたがいに命の取り合いをおこなう当事者として扱われるのだ。

 あらゆる命をゼロ地点に等しく置き直す。

 ここに著者の企てを感じる。

 先に「暴力的に、意図的に野卑なかたちで」と書いたけれど、そのようなすさまじさを導入しなければ、人間と動物の命をいったん初期化してゼロ地点に置くことはかなわないのかもしれない。だからこそというべきか、動物のもつ根源的などうもうさがあからさまに描かれる。泊まった宿の老人がキミヤに語って聞かせた、豚が一家の赤ん坊を襲うおそろしい昔話。身の毛がよだつおぞましさは、そののちキミヤの父が熊によってじゆうりんされる場面の前ぶれでもある。しかし、つとめて淡々、どこか突き放した筆致は、それらの「獰猛ぶり」は動物にとって生きる行為の遂行でしかないと語りかけてくる。

 熊は、征服のしるしとして相手のはらわたをむさぼる。

 キミヤは生の衝動を奮い立たせ、生き抜くために熊に闘いを挑む。

 犬は、動物同士の生き残りを賭けてきばを剝き、熊に立ち向かう。

 三者それぞれが命のかたまりとなってたいし合うさまに、カタルシスがある。

 わずかでも気を許せば寝首をかれる攻防戦のさなか、救われるような思いを抱くのがキミヤと犬たちとの交流である。かつて人間に飼われていた犬たちがカルデラにみつくことになった背景がさまざまに語られるとき、ちくりと胸が痛むのは、人間が動物にたいして抱く愛着の正体が顔をのぞかせるからだ。愛玩の対象にすることによって、人間は動物のなにかを奪ってはいないだろうか、存在を去勢してはいないか、と著者は問いかける。しかし、犬に生来備わった従属性が発動され、みずからの喜びとしてキミヤとの信頼を育ててゆくプロセスには血の通うぬくもりがあり、人間と動物との関係の豊かさにあらためて気づかされる。

 いよいよ熊と人間と犬が死闘を繰り広げる場面の描写は、容赦がない。キミヤの目が捉える熊の最期の光景は、このおぞましさもまた命のほとばしりなのだと語りかけてくる。そして、闘いに決着がついたとき、キミヤはみずからつかみだした熊の肝臓にかぶりつく。

「これまで食べたどんな肉とも内臓ともかけ離れた、生き物そのものの味だった」

 父の命を奪った熊の内臓を食べることによって、キミヤは「因果」をみしだき、父殺しという通過儀礼を果たして自身の生を受けれる。このとき、かつて老人が語って聞かせた、憎悪の対象である豚の肉を食べた夫婦の行為の意味もまたよみがえってくる。

 ここで思い出さずにはおられないのが、宮沢賢治「なめとこ山の熊」である。賢治は、生きるうえで避けては通ることのできない「命の授受」について、さまざまな童話の世界に託して語っているが、とりわけ命の取り合いの領域に踏み込むのが「なめとこ山の熊」である。熊捕り名人淵沢小十郎は山刀と鉄砲を携え、犬を連れてなめとこ山にむ熊を撃つ。狙いは、町で高く売れる熊の

 あるとき小十郎は、ズドンと射止めた熊に向かってこう語りかける。

「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへも射たなぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし郷へ出ても誰も相手にしね。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめへも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」

 小刀を取り出して皮を裂き、胆を切り取って小十郎は谷を下る。それから幾星霜、老いの日々を迎えた小十郎が山を歩くうち、かつていのちいに応じて見逃してやった熊に遭遇する。しかし、熊は情け容赦なく小十郎の命を奪う。

「と思ふと小十郎はがあんと頭が鳴ってまはりがいちめんまっ青になった。それから遠くで斯う云うことばを聞いた。
『おお小十郎おまへを殺すつもりはなかった。』
(中略)
 思ひなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのやうに冴え冴えして何か笑ってゐるやうにさえ見えたのだ。ほんたうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したやうにうごかなかった」

 ていねんなどではない。

 小十郎はおのれの生を生きた、熊もおのれの生を生きた、ただそれだけのこと。

 本書もまた、生きとし生きるものが結ばなければならない関係について描きだす。全編をつうじてしばしば登場する「捕食」という言葉は、この世界は食物連鎖によって成立していることを示すものだ。命をつなぐためには、ほかの生きものの命を奪い、食う行為によって授受がなされ、命は連鎖してゆく。その連なりのなかにあって、あらゆる命をいったんゼロ地点に置き直すための荒ぶる物語。

 むきだしの言葉で、ごつごつと、ひりひりと、全編をつうじて著者の武者震いが伝わってくる。言葉との全身全霊の肉弾戦を、私はとても尊いものとして受け取った。



河﨑秋子『肉弾』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322003000372/


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