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レビュー

『消えてなくなっても』運命におしつぶされそうになったとき、そっと寄り添ってくれる1冊

 いかがだったでしょうか?
 たった今本書を読み終えたという方は、きっと心地よい余韻にひたっているはずです。そんな方はしばらくページを閉じ、砕け散る波音やまばゆい晩夏の光を思い浮かべながら、切ない読後感を心ゆくまで味わっていただきたいと思います。
 これから本文を読むという方には、あらかじめこうお伝えしておきましょう。この本はあなたの人生において忘れられない一冊になる。生きることに疲れたとき、運命に押しつぶされそうになったとき、そっと寄り添ってくれる宝物のような一冊に――。

 主人公・水野あおのは、タウン誌の編集部に勤めている二十三歳の青年です。
 彼が住んでいるのは周辺に山々が連なる自然豊かな田舎町。物語はあおのが河童山にある治療院を目指して、坂道を上っているシーンから幕を開けます。「河童山の先生」「拝み屋」と呼ばれることもある「キシダ治療院」は、腕がいいと地元では大評判。噂を聞いたあおのは、ぜひ取材したいと思ったのでした。
 やっとのことでたどり着いた治療院は、昔ながらの大きな平屋建ての一軒家。そこで治療院を営んでいる中年女性・岸田節子が、あおのを迎え入れます。ビー玉のようにつるっとした目が印象的な節子は、「どっか治したいとこあるの?」とくだけた口調で尋ねてきて、あおのをどきりとさせました。というのも彼はストレス性の病に悩まされ、心療内科にかかっていたからです。
 一週間後、再びキシダ治療院を訪れたあおのは、上司のすすめもあって節子の家で療養させてもらうことになります。治療院にはすでにもう一人、平井つきのという同世代の女の子が住んでいて、家事手伝いをしていました。頼りがいのある節子と、小説家志望だというつきの。そして生きることに不器用すぎるあおの。奇妙な三人の共同生活がうつろいゆく季節とともに鮮やかに描かれてゆきます。

 椰月美智子さんといえば、デビュー作の『十二歳』以来、なんでもない一日を魅力的に描くことで高い評価を得てきました。椰月さんの作品を読んでいると、どんなに平凡に思える毎日でも、二度と戻らないかけがえのない経験なのだ、とあらためて気づかされます。本作でもそうした椰月さんの巧みな描写力は健在です。地元のお年寄りたちでにぎわう治療院の光景や、草むしりを終えて麦茶を飲みながら眺めた空、台風が近づいてくるときの奇妙な高揚感など、真夏のちょっとした一コマを印象的に描き出してゆきます。
 あおのの小中学校時代のあだ名は“ヘリック”。屁理屈をこねるのが得意で、思いついたことを相手構わず述べ立てていたからです。そんな性格が災いしてクラスの嫌われ者になってしまったあおのは、今では本心を見せられない大人になっていました。しかしパソコンもない、テレビはあってもほとんどつくことのない、治療院での規則正しい毎日は、糸玉のようにもつれた心を少しずつ解いてゆきました。その変化を象徴しているのが、庭を眺めていたあおのが唐突に「ここに植わっている庭木の名前をぜんぶ知りたい」と思うささやかながら感動的なシーン。センニンソウ、フヨウ、シイノキ。節子が口にする植物の名前から、あおのは自分以外のものにも名前があることに気づくのです。このシーンをはじめとして、あおのの心がより豊かな世界に開いてゆく瞬間を、椰月さんはあたたかなまなざしで描いています。

 豊かな世界といえば、本書にはこれまでの椰月作品にはない大きな特色があります。それは幽霊や妖怪、気功、あの世など“目に見えない”世界を扱っていることです。すでに最後までお読みの方は、この作品がそうした要素抜きでは成り立たないものだということにお気づきでしょう。これまでリアルな日常を描いてきた椰月さんが、見えない世界を描いたのはなぜなのでしょうか。
 その謎を解くヒントは単行本刊行時、書店配布用のペーパーに椰月さんが寄せたコメントにあります。

お天道さまが見ているから悪いことしちゃいけないよ。子どものころ、よく言われました。目に見えない世界のことを信じるのはむずかしいですよね。でもこの世に存在するすべてを肯定できたら、人はもっと豊かに、もっと謙虚になれると思うのです。

 目に見えないものを信じること。それは言葉を換えるなら、想像力を働かせて、身のまわりにある世界の多様さを感じ取ることではないでしょうか。治療院に来たばかりのあおのは、河童の存在を信じることができませんでした。それと同じように、わたしたちもついものごとを自分の尺度で判断しがちです。見たことがないもの、知らないものには目をつぶって、分かりやすい結論を下してしまう。それは大人として生きていくうえで仕方がないことかもしれません。
 でも、見えないものにちょっと思いをはせることで、世界には奥行きと広がりが生まれてくる。子どもの頃、「お天道さまが見ている」と言われて育った椰月さんは、その大切さを肌で感じているのに違いありません。見えるものと見えないもの、良いことと悪いこと、楽しいことと怖ろしいこと。想像もできないほどたくさんのものから、世界はできあがっている。不思議なエピソードを満載したこの物語は、そんな豊かな世界への椰月さんなりの讃歌だったのではないでしょうか。

 河童山神社のお祭りが終わり、秋の気配が訪れるころ、あおのの運命は大きく動き始めます。彼がキシダ治療院で過ごした日々とは何だったのか。隠された因果関係が明らかになってゆく驚きのラストについて、ここで詳しく触れることは控えておきますが、椰月さんが用意していたのはあまりにも哀しく切ない真相でした。同時に、そこにはつらい現実を受け入れて、前に進んでゆこうという凜々しい決意も描かれています。すべてのものはつながっている。“消えてなくなっても”きっと残るものがある。この美しい物語はそういって、わたしたちの背中を押してくれるのです。

 今回の文庫版には節子の少女時代を描いた「春の記憶」という短編も収録されています。これは単行本の刊行後、文芸誌『Mei(冥)』五号(二〇一四年一一月)に掲載されたもの。“新連載”と銘打たれていましたが、同誌が休刊してしまったことで、現在まで中断した形になっているのが残念です。
 本書に触れて、椰月さんの描く不思議な世界をもっと読んでみたい、と感じたファンはわたしだけではないでしょう。今年(二〇一七)デビュー十五周年を迎え、ますます活躍の場を広げる椰月さんが、いつの日かキシダ治療院にまつわる新たな物語を書いてくれることを切に祈っています。


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