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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.31

【連載第31回】東田直樹の絆創膏日記「アジサイの笑い声」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす25歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載第30回】「親近感」

 近未来の日本が舞台となっている「犬ヶ島」というタイトルのアメリカ映画を見た。ドッグ病が大流行するメガ崎市では、人間への感染を恐れた市長が、すべての犬を犬ヶ島に追放する。ある時、飼っていた愛犬を救うために12歳の少年が一人で小型飛行機に乗り込み、その島に降り立つ。島で出会った勇敢で心優しい5匹の犬たちと共に愛犬の捜索を始めた少年は、メガ崎市の未来を左右する大人たちの陰謀へと近づいていく、というストーリーだ。おもしろい映画だった。
 僕が興味深かったのは、制作スタッフが映像化した日本の様子である。近未来の出来事だと言いながら、どこか懐かしく、僕たちが忘れてしまった昭和の風景が、ところどころに描かれていた。
 だけど、日本人から見ると日本ではないのだ。この違和感は、おそらく肌感覚の違いのようなものではないだろうか。
 不思議だ。ひとつひとつの場面に間違いはないにもかかわらず、全体として見ると何かが違うのである。その何かは、それでもいいよと笑ってすまされるものではなく、映画の評価とは別の次元で、譲れない気持ちになるのが自分でも判然としない。
 どこが違っているのか具体的には表現しづらい。しかし、違うということだけは確信が持てるのである。
 僕の考えている日本ではないのが嫌なのだと思う。
 日本人だからなのだ。
「どこにも、そんな日本はないよ」と映画を見終わった後につぶやいてしまう。
 それは、きっと僕が日本人だからに違いない。

 すでに運動会が終わった学校も多いのではないだろうか。
 運動会というと、まず一番に思い出すのがかけっこだ。
 僕は走ることは出来たが、かけっこは苦手だった。
「よーい、どん」かけ声やピストルの音と共に、一斉に走り出すわけだが、僕はこの合図が全くわからなかったのである。
 気づかないのだ。
 ここに並んでと言われ、スタートラインに立たされる。スタートの合図が鳴り、横にいたみんながいなくなる。立っている間、僕は大抵別のことを考えているので、自分がこれから走らなければならないことなど、すっかり忘れている。先生に背中を押され、2、3歩前に進むが、すぐに立ち止まってしまう。先生が背中を押す、少し歩き、立ち止まる、この繰り返しなのだ。
 そのうえ、興味のあるものを見つけたら、走っている最中でも、そちらへ飛んで行く。ゴールまで走ることを、僕が覚えていられないせいだ。
 真っ直ぐ走ることの何が難しいのか、誰も理解出来なかっただろう。
 走ることとゴールにたどり着くことは、延長線上の行為なのに、意識し続けるのが、僕には大変だったのだ。
 意識することは、理解が出来ないこととは別の問題だと思う。今そうしなければいけないことを自覚出来ない状態に近いのではないか。
 どこをどんな風に走ればいいのか、図や絵で説明してもらったり、一緒に走ってもらったり、さまざまな方法でかけっこについて教えてもらったけれど、結局僕は、みんなみたいに走れるようにはならなかった。
 僕はずっとビリだった。それでも運動会が嫌いではなかった。
 運動会の独特の高揚感は大人になっても覚えている。それは、こんな僕でも一生懸命に応援してくれる人たちがいてくれたおかげだ。

 6月になると、いたる所でアジサイの花を見かける。
 アジサイの花言葉には、「移り気」だけでなく、「家族団欒」の言葉もあるらしい。どちらにしても、見た目のイメージから連想されたものであろう。小さな花が押し合い、へし合い、くっ付き合って咲く様子は、とてもにぎやかで可愛らしい、他の花にはない魅力だ。
 僕の耳には、アジサイの花から、いつも楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 アジサイの笑い声は、「る」のオンパレードなのである。
 僕は、そんなアジサイの隣を、ただ黙って通り過ぎる。余計なことを言ってはいけない。アジサイは、僕に声を聞かれていることなど知らないのだから。
 もし、アジサイが僕に気づいたなら、きっと笑うのを止めるだろう。植物のお喋りは、人間に聞かれてはいけないのだ。
 他の花たちに叱られないよう、僕はアジサイの笑い声を聞き流し、足早に去って行く。
 梅雨空の雲は厚く、どんよりとしている。
 青い空が凝縮されたみたいな色のアジサイ。梅雨が明ければ、こんな色の空になることを僕に思い出させてくれる。

 大変な事件が起こると、どうしてこのようなことが起きたのか、みんなが犯人の動機を知ろうとする。二度と同じ犯罪が起きないようにするためである。けれど、犯人がどんな思いで犯行に及んだのか、本当のところは誰にもわからない。なぜなら、犯人が事件を起こすまでのいきさつや心の中全部を言葉で人に説明するのは、難しいと思うからだ。
 どのような事情があるにしても、やってはいけないことはやってはいけない、それだけは、はっきりしている。取り調べで何とか犯人の動機がわかっても、犯行そのものは許されるものではないのだ。真相をひも解く中で、この事件の原因が、本人や家族だけの問題ではなく、社会全体で取り組むべき課題だと指摘する人もいる。
 動機を解明することで感じる犯人への思い。それは、もしかしたら自分も同じ状況になれば、罪を犯すかもしれないという同情に似た感情か、あるいは、こんな人間など生きる価値はないという強烈な憎しみのどちらかであろう。
 自分が犯人に対して抱く感情と世間の良識との隔たりを感じた時、自分自身の価値観に対して世間の審判を受けたような気分になることがある。
 凶悪な事件ほど、犯人に対する世間の風当たりは厳しい。
 被害者がいる以上、加害者を憐れむ気持ちは悪なのか。人間の苦悩はいつも、善と悪の間で揺れ動く。
 もしもこうだったらという仮定の話は現実的ではない。だからこそ、実際の事件から教えられることは多いのだ。


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