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夢枕獏著『白鯨 MOBY-DICK』書評
評者:夏井いつき(俳人、エッセイスト)
あの話を聞いたのは、いつだったろう。令和元年の秋、羽黒山全国俳句大会の選者としてご一緒した時か。いや、その翌年、品川で一杯やった時か。
「夏井さん、『白鯨』の船長とジョン万次郎が同じ時代に生きてたって、知ってました?」問われても、目が点になる。高知出身のジョン万次郎は実在の人物だが、エイハブ船長は作中の人物。この二人がどうクロスするというのだ。
思い返せば、ハーマン・メルヴィル著『白鯨』(岩波文庫)に挑んだのは、高校生の頃。難解にして鬱々たる文体に歯が立たなくて放り出した一冊だと、獏さんに告白した。が、そんな我が黒歴史なんぞ物ともせず、その夜の酒席は盛り上がった。夢枕獏が語る壮大な構想に興奮した。この陽気なおじさんの頭の中はどんな具合になっているのか。聞けば聞くほど愉快で、その大長編がいつ完成するかは分からないが「何年でも楽しみに待つ。絶対に買う!」と約束した。
今、その分厚い一冊が、我が手にある。後書きによると、二〇二一年(令和三年)二月四日に書き上げている。神業としか言いようがない。
序章で、ジャーナリスト徳富蘇峰が出てくる。そうか、この人も同じ時代か。が、なぜいきなり蘇峰……という疑問を抱えたまま、子どもの頃の万次郎、銛打ちの半九郎爺さんとの出会い、十四歳の万次郎が乗り込んだ鰹船、その遭難、捕鯨船ピークオッド号エイハブ船長との出会い……と、物語はぐいぐいと展開していく。力業の如き筆致だ。
……白鯨が現れたあたりで、読み進むのが勿体なくなった。ページを戻っては、読み直すこと暫し。そして、第十九章を読み終わり、深い息をつく。体に力が入って、疲れた。佳き疲れだ。大きな満足を抱き、残り数ページの終章を読む。驚愕する。張りめぐらされていた伏線に気づく。嗚呼、そういうことであったか。
再び興奮がじわじわ押し寄せてくる。この一冊には、私が気づいてない細かな仕掛けがまだまだあるはずだ。メルヴィル著『白鯨』に再挑戦せねば、夢枕獏著『白鯨 MOBY-DICK』を骨の髄まで楽しむことはできないに違いない。嗚呼、これこそがあの陽気なおじさんの真の企みか。獏さんめ、今頃、ニヤリと笑っているに違いないぞ。
書誌情報
白鯨 MOBY-DICK
夢枕獏
定価:2,640円(本体2,400円+税)
ジョン万次郎は「あの船」に乗っていた。
史実と世界文学の傑作が融合!
土佐の中浜村で漁師の次男として生まれ育った万次郎は、鯨漁に魅せられる。やがて仲間たちと漁に出た際、足摺岬の沖合で遭難してしまう。漂流した五人は無人島にたどり着くものの万次郎は銛打ちの師匠・半九郎の形見の銛を追って、さらに漂流してしまった。単身、大海原に投げ出された万次郎を救出したのは、米国の捕鯨船ピークオッド号だった。その船長・エイハブは、自分の片足を喰いちぎった巨大な白いマッコウクジラ“モービィ・ディック”への復讐に異常な執念を燃やし、乗り組員となった万次郎を巻き込んでゆく……。
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