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レビュー

経済か、生命か? 圧政と闘う無私の生きざま――『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件 新装版』文庫巻末解説

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件 新装版』文庫巻末解説

解説
うおずみ あきら

 もう『辛酸』を読まれた方には、あれこれ説明する必要はないだろう。これはベストセラーぞろいのしろやま作品のなかでも屈指の傑作である。そして、本作刊行から亡くなるまでの四十数年にわたる城山さぶろうの作家活動の礎となった記念碑的作品でもある。
 城山の『辛酸』に対する思い入れはとても深い。それは、昭和三十七年に中央公論社から出版、昭和四十五年に再刊された単行本のあとがきを読むとよくわかる。
「数年前、アスファルトに靴をとられそうな盛夏、中央公論社の青柳氏とわたがわ畔に下り立って以来、今日まで、わたしはこの材料と取り組んだことで、作家としてのこの上ない生きがいを感じ、また、絶え間なく鞭打たれつづける思いがした。この素材との出会いは、その意味で、わたしにとって、大げさな言い方を許されるなら、生涯の事件であった。一つの小説を書くことで一つの人生を終ってしまったような感じのする仕事であった。苦しかったが、倖せであった」
 新進の作家がたった一つの、200ページ余りの小説を書いただけで「一つの人生を終ってしまったような感じ」がしたというのはただごとではない。取材あるいは執筆中に、城山の文学観・人間観に大きな影響を与える出来事が起きたと考えるのが自然だろう。
 その出来事とは何だったのか。『私の創作ノート』(読売新聞社刊)などに城山自身の回想があるので、それらを参考にしながら探ってみよう。


辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件 新装版
著者 城山 三郎
定価: 704円(本体640円+税)


『辛酸』取材のきっかけを作ったのは、戦後すぐ城山が通ったひとつばし大学の同期生である。彼は卒業後、銀行員となり、最初に赴任したのが名古屋支店だった。大学教員として名古屋に戻った城山の住家がその近くにあったため、二人はにわかに親しくなった。
 ところが約二年後、同期生が「銀行をやめて夜間高校の教師でもしたい」と言い出した。「君はいいけど、御両親が反対されるのでは」と城山が言うと、かぶりを振って「いや、そうじゃない。おれの銀行入りを聞くと、憮然として、なんでそんなところへ、と言ったおやじだから」と答えた。城山は「珍しいおやじさんだね。どういう人?」と尋ねた。話を聞くうち、城山はうなずきをくり返すほかなくなった。
 同期生の父親であるしまそうぞう(本作中ではそうざぶろうとして登場する)は、あし鉱毒事件の被害地となったなかむらの村民で、若いときはなかしようぞうの手足となり、正造の死後もその遺志を継ぎ、残留民を率いて法廷内外の闘争に、その一生をささげた人であった。
 今でこそ正造は反公害運動の先駆者として有名だが、当時は公害という言葉も世間に通用しておらず、ほとんど忘れられた存在だった。城山は戦後になって正造のことを知ったが、それでも「鉱害被害にあった農民たちのため、地位も財産もすてて戦った義人」といった程度の知識しかなかった。
 ただ、城山はそのころ別の角度から公害問題に関心を持ちはじめていた。当時、彼は名古屋の大学で講義をしていたが、その関係から、学者グループの一員として、よついち市史の編集執筆を依頼された。当時の四日市は旧海軍燃料しようあとの広大な敷地の払い下げを受け、他の諸都市との競争に勝って、石油化学工場群の誘致に成功していた。まだ「四日市ぜんそく」という言葉もなく、公害都市として悪名高くなる前のことである。
 城山は四日市を見て回り、「生活が生産に追いまくられる町」という感じを強く持った。なぜなら「大工場ができるというので移転させられる。引っ越してやれやれと思っていると、すぐ近くに別の大工場ができて、煙や音でいたたまれなくなる。新しい土地をさがして移る。するとそこへまた工場がくる。いったい、どこへ落ち着けばよいのか」といった住民の声を再三耳にしたからである。
 城山たちは市の実態を知るため、大工場から見ることにした。その中に、企業機密を理由に、門内へ一歩も入れてくれない財閥系の化学会社が二つほどあった。
 城山たちに企業機密など盗めるはずもないのに、いくら頼んでもはねつけられた。化学会社は「おれたちがきて、市をささえてやっている。文句があるのか」といわんばかりだった。
 生活が生産に追いまくられる住民。ふんぞり返る企業の壁。その対比が城山のまぶたに焼きついた。足尾鉱毒事件は、この図式を極端に推し進めたものであった。そこでは、住民は追いまくられるだけでなく、たたきのめされていた。
 城山はあしかがに住む宗三を訪ね、繰り返し話を聞くうち、鉱毒事件の現代に生きる問題性に強い関心を持った。だが、それ以上に彼をこのテーマにしばりつけたのは、正造や、正造をめぐる人々の人間としての魅力であった。
 正造は衆議院議長に擬せられた明治政界の大物だった。が、再三、議会で追及しても鉱毒問題が解決しないことに憤激し、政治に失望する。まず歳費を辞退し、ついで代議士をやめた末、命がけで天皇に直訴する……。
 もはや正造の頭の中には、社会正義の貫徹、被害民救済しかなくなる。彼は被害民とともに野垂れ死にすることを求め、亡村となった谷中村に住みつく。
「痛烈な行動的人生である。そのあざやかな人生の軌跡が、わたしをとりこにした。
『無私』とか『無償』とかいう言葉が、辞書にはある。しかし、現実に、こういうひとがいたのかと人生のふしぎに目をみはる思いもした」(『私の創作ノート』より)
 城山の心が激しく揺さぶられた背景には、彼の戦争体験がある。戦争末期、少年兵を志願し、軍籍に身を投じた。忠君愛国という「無私」の情熱にとらえられたからだ。
 だが「現実の軍隊は、くさりきっていた。『無私』を強制する上官たちは、私心のかたまりであった。
 わたしは、もはや『無私』とか『無償』とか、信じられなくなった」(同)。 上官たちに朝から夜中までげんこつこんぼうでなぐられ、頭が大仏さまのようにコブだらけになり、しりあざだらけになった。また、士官食堂からは毎夜のように天ぷらやフライの匂いがし、分隊士室では白い食パンが青カビを生やして捨てられていた。
 なのに、少年兵には大豆や雑穀まじりの飯がちやわん一杯分、おかずは芋の葉や茎を煮たようなものばかり。牛馬同然どころか、牛馬以下の扱いだった。
 そんな思いをしてきた城山にとって正造の軌跡は驚きの連続だった。
「戦争下でもないのに、無私のひととなり、しかも、その『無私』を一年二年のことでなく、二十数年にわたって正造が貫き通したということに、茫然とする思いさえあった。
 それは人間というより、狂人か神という言葉で説明した方が容易な人生に見えた。(中略)狂人にも神にも見える無私の人間。その人間の秘密をわたしは知りたいと思った」(同)
 生涯に二度とないだろう幸運に恵まれ、鉱毒事件の〝生き証人〟と城山は出会った。ここで、忘れられた事件の真実を伝えなければ、作家として生きる意味がない。たとえ書けたとしても、凡庸な作品で終わったら、作家として生きていく価値がない。城山は「絶え間なく鞭打たれつづける思い」で『辛酸』の執筆に心血を注いだ。
 物語のはじめから最後まで通奏低音のように響くのは「辛酸入佳境 楽また在其中(辛酸佳境に入る 亦楽しからずや)」という正造がよくごうした漢詩である。
 悲惨さと背中合わせになった正造の晩年の美しさ。そして、渡良瀬の水に首までつかりながら国家権力に抗議する残留民の姿。城山の文章はそれらを克明に描いて、一点の緩みもない。ついには宗三郎は正造の「辛酸入佳境」についてこう言い放つ。
「辛酸を神のおんちようと見、それに耐えることによろこびを感じたのか。それとも、佳境は辛酸を重ねた彼岸にこそあるというのか。あるいは、自他ともに破滅に巻きこむことに、破壊を好む人間の底深い欲望の満足があるというのだろうか」
 この物語には救いがない。しかし、それでも読み終えた後、魂の奥底に染みるような透明感が残る。それはきっと、城山が絶望的な状況を描きながら、一筋の希望へとつながる道を描くという難題に挑み、成功しているからにちがいない。城山は『辛酸』を書き切ることではじめて戦後文学史に特筆される作家になったのである。

作品紹介



辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件 新装版
著者 城山 三郎
定価: 704円(本体640円+税)

経済か、生命か? 圧政と闘う無私の生きざま
足尾銅山の鉱毒で甚大な被害を受け、反対運動の急先鋒となっていた谷中村は、絶体絶命の危機にあった。
銅山の資本家と結託した政府が、村の土地を買収し、遊水地として沈めようとしていたのだ。
反対運動の指導者、田中正造は、村を守るため、政治権力に法廷での対決を挑む。
だが、それは果てしなく、苦難に満ちた闘いだった。
日本最初の公害闘争を巡り、権力の横暴に不撓不屈の精神で立ち向かった人々を描いた伝記文学の傑作。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322102000160/
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