角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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馳 星周『ゴールデン街コーリング』
馳 星周『ゴールデン街コーリング』文庫巻末解説
解説
北上 次郎(文芸評論家)
一枚のハガキを思い出す。本の雑誌の事務所には毎月、全国の読者からたくさんのお便りが送られてきた。
30年前の一枚のハガキを今でも覚えているのは、そんなふうに仲のいい友人との話題の中心になる書評家など、聞いたことがなかったからだ。著名人の書く書評ではない。たとえば、いま村上春樹がどこかで書評の連載をしたならば、そういうふうに話題になるかもしれない。しかし当時の
バンドーの書評は、本の雑誌1991年1月号から1997年3月号まで続いたが、とにかくユニークだった。一言でいえば、「ヘンな書評」である。たとえば、ある回の冒頭はこうだ。
「それなのになんということであろうか。読んだ本の内容をほとんど覚えていないのである。それだけつまらない本ばっか読んでたわけなのね。おれってばぁぁぁぁ! という哀しい心でこの原稿を書いているのである。くそっ。とっても虚しいぜ、ベイベ」
こんな枕から始まったりするのだ。「とっても虚しいぜ、ベイベ」なんていう枕から始まる書評など、他に見たことがない。
もう一つの特徴は、異様に枕が長いこと。しかも本には関係がなく、個人的な話が多い。それはこんなふうだ。
「春だ。からだがだるい。なにもする気にならない。それだというのに、Y田N子はゴールデンウィーク進行だからといって、締切りを1週間も早めやがる。死んでしまいたい。競輪ダービーは、初日に吉岡が負けると賭けて大儲け。しかし、その儲けた分を2日目、3日目、4日目とすり減らしていき、最終的には+一万円也。なんのために6日間も神経を酷使したのか。4角を1、4、7の並びで突っ込んできたときには『よーしそのままぁ、おれの人生大楽勝!!』だったのに、なぜに内林がインをしゃくって伸びてきてしまうのか。なぜ、6枠を軸に、4枠を押さえにと買っていたのに、4‐6の車券だけを持っていなかったのか。悔やんでも悔やみきれないというのに、Y田N子は1週間も締切りを早めやがる。死んでしまいたい」
書評に関係がない枕なのだと思っていると、この回は次のように続いていく。
「死んでしまいたい、死んでしまいたいとつぶやきながら、競輪好きのおっさんたちに囲まれての立川から新宿までの電車の中、ひとり真摯に読み耽ったのが、花村萬月『猫の息子 眠り猫Ⅱ』(徳間書店)である」
まったくユニークな書評であった。本の雑誌に六年間連載していたこれらの書評は、坂東齢人『バンドーに
当時、バンドーがどのような書評を書いていたのか、その一部を先に引用したが、これは文春文庫の解説を私が書いたときに引用したもので、何度読んでもおかしい。『バンドーに訊け!』を読んでいただければ理解してもらえると思うのだが、彼の書評の特徴は枕が特異であった、というだけではない。以前私は次のように書いた。
「世の中の大半の人が褒めた小説だろうとも、自分が何も感じない小説であるならば、そんなものは犬に食われてしまえばいい、という太さが彼の書評には一貫しているのである。そのこだわりのケタが並外れていることは特筆しておくべきだろう。敬愛する作家の新作であろうとも、それが物足りないときには遠慮なく文句を付けるのも、その現れにほかならない」
さらに、『バンドーに訊け!』が素晴らしいのは、作家馳星周がどうやって生まれたのか、その軌跡がわかることだ。1991年から1997年という時期が、馳星周にとって迷いの時期というか自己確立の時期であり、それが書評にも反映されているのである。
本書は、馳星周の自伝的青春小説である。前置きが長くてすみません。日本冒険小説協会公認酒場「深夜プラス1」のバーテンとして働いていたころを描く書だ。私はこの酒場の熱心な常連客ではなかったので、あの人がモデルだなとわかる人は数人しかなく、初めて知る話が多かったので、面白く読んだ。
ただこれはあくまでも小説なので、現実をデフォルメしていることは書いておかなければならない。たとえば本書で、船戸与一と「編集者の山田」と私の3人が「深夜プラス1」を訪れるくだりが出てくるが、この3人で「深夜プラス1」に行ったことは一度もない。私が覚えているのは、鏡明と「深夜プラス1」で待ち合わせして、原稿を受け取った夜のことだ。どうして「深夜プラス1」で待ち合わせする必要があったのか、その理由は覚えていないが、なにか秘密の受渡しをしているな、と内藤陳に言われたので、いまでも記憶に残っている。
自分に関することしかわからないので書いておくと、本書では「深夜プラス1」で働いていたころに本の雑誌から原稿依頼が来たことになっているが、馳星周に原稿を依頼したのは、彼が「深夜プラス1」を辞め、その後勤めた出版社も辞めた直後である。だから、連載開始前に本の雑誌の
私に関することだけでもこのように事実と異なる点があるので、この先は推測になるが、他にも同様のことがあるのではないかと思う。本書には殺人事件が出てくるが、これも確認したわけではないものの、小説的な創作に違いない。いくら熱心な常連客ではなかったとはいっても、殺人事件があれば私の耳にも届いただろう。それがまったくないということは、これもまた極端なデフォルメに違いないと推測する。もちろん事実に即している点もあり、「深夜プラス1」の店主の性格は本書で書かれている通りだと多くの人が証言している。私はそれも知らなかった。
事実と異なっていても、ときには極端なデフォルメをしていても、それは全然かまわないと思う。たとえそうであっても、不正確な青春記というわけでは断じてない。なぜなら、真実はその時代を生きた人の数だけあるからだ。けっして一つではないのである。大事なのは、小説が好きで、酒が好きで、将来どうなるか皆目わからない青年の、ゆれ動く感情が、ここに鮮やかに描かれているということだ。あとはすべて付け足しにすぎない。
ただし困るのは、さまざまな小説のことが、次々に出てくるので、これも読みたい、あれも読みたい、と気になってくることだ。本書の単行本を読んだときもそうだったのだが、この文庫解説を書くために再読したら、また平井和正を読みたくなって、何冊出ていたんだろうと調べてしまった。それで思い出した。単行本を読んだとき同じことを調べ、いろいろな版があるので、どれを読めばいいのかわからず断念したことを。また今回も断念しそうだが、ただいまそれだけが気がかりである。
作品紹介
ゴールデン街コーリング
著者 馳 星周
定価: 880円(本体800円+税)
発売日:2021年12月21日
「ぼくはゴールデン街が好きで、嫌いだ」
「日本冒険小説協会公認酒場」と銘打ったバー〈マーロウ〉のアルバイト坂本は、本好きが集まるこの店でカウンターに立つ日々を送っていた。北海道の田舎から出てきた坂本にとって、古本屋街を歩き、マーロウで文芸談義できる毎日は充実感をもたらした。一方で、酒に酔った店主・斉藤顕の横暴な言動と酔客の自分勝手な振る舞いには我慢ならない想いも抱えていた。そんなある日、ゴールデン街で放火未遂事件が起こる。親しくしている店の常連「ナベさん」は放火取り締まりのため見回りを始めるが、その矢先、何者かに殺されてしまう。坂本は犯人捜しに立ち上がるが――。ゴールデン街がもっともゴールデン街らしかった時代の、ひりひりする空気を切り取った珠玉の長編!
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322106000327/
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