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レビュー

江戸のシャーロック・ホームズは元祖スイーツ男子でも 『長兵衛天眼帳』

 現代から江戸へしばし遊びに行くのではない。大川(おおかわ)(隅田川)を行き交う人々とともに四季の暑さ寒さを、土間の煮炊きのにおいを、一杯の(ほう)じ茶の湯気を分かち合う。そんな山本ワールドにまた魅力的な〝住人〟が加わった。日本橋室町(にほんばしむろまち)の表通りに創業百二十年の老舗眼鏡店を構える村田屋長兵衛(むらたやちょうべえ)である。役者顔負けの整った顔立ちで、五十路(いそじ)に入らんとする今も髪は黒々しく、江戸市中を歩き回る日課で肌は日に焼け、精悍(せいかん)だ。
 長兵衛は、その日習得したことや記憶しておくべき事柄、記録に値する事象を深紅の絹張りの「天眼帳」に記す。天眼とは本質や真偽を見抜く眼力のこと。「天網恢々(かいかい)疎にして漏らさず」という世の理を思い出す。長兵衛の眼を借り、〝お天道様は見ている〟のだ。
 その長兵衛のもとに、室町を縄張りとする十手持ち新蔵が駆け込んでくる。「このままだとなんの罪科(つみとが)もねえ娘が、小伝馬町(こでんまちょう)送りにされちまいやす」。新蔵が長兵衛を頼ってきた事件はこうだ。住吉町の裏店(うらだな)で、一人暮らしのおとみ婆さんが首に細紐(ほそひも)を巻き付け死んでいた。発見したのは、毎朝この長屋から商いを始めるシジミの棒手振(ぼてふ)りの悌吉(ていきち)。土間は掘り返され、土中の貯金箱だった銭瓶(ぜにがめ)はカラになっていた。浜町(はまちょう)の目明し巳之吉が長屋の住人たちの手を検分すると、器量よしで孝行娘と評判のおさちの爪に泥が見つかる。巳之吉はろくな取り調べもせず、どこか狡猾(こうかつ)な笑みをうかべておさちをお縄にする。
 新蔵は女手ひとつで子供を育てるおさちの母が、自分の縄張りにある一膳飯屋で働いていたときから知っていた。おさちが殺しや盗みをするような娘ではないことも分かっている。しかし、住吉町は自分の縄張り外。そこで長兵衛に助けを求めた。
 時をおかずして長兵衛は、南町奉行所定町廻(じょうまちまわり)同心の宮本宜明(みやもとたかあき)の訪問も受ける。宮本も頼み事だった。長兵衛は村田屋に先祖より伝わる家宝の天眼鏡を使い、道楽ではあるが、文書の鑑定もする。宮本は今回鑑定ではなく、真贋(しんがん)を判定して欲しいと言う。
 こうして二話を収める本書は、第一話「天眼帳開き」が老婆殺しの下手人にされた十七歳のおさちの無実の証明をめぐって、第二話の「真贋吟味」は深川(ふかがわ)木場(きば)(ひのき)問屋の主が遺した二通の「書残(かきのこし)」(遺言書)の真贋をめぐって展開する。
 長兵衛は当時の知識人であり、文化人であり、共同体の知恵者である。その片側に統治機構の中枢にいる実力者宮本がいて、もう片側に町の実情や民の心情をよく知る水先案内人の(宮本配下の)新蔵(しんぞう)がいる。これぞミステリーにおける正義の鉄板トライアングルではないか。読後に爽快感が待っているのは、約束されているも同然だ。
 しかし、本書は性急にそこを目指さない。例えば第一話は、小伝馬町送りというデッドラインが設定されたカウントダウン方式のミステリーながら、シーンを細かくカット割りし、悌吉のシジミの身が太って美味しいわけ、父親の悲運な死から始まったおさちの一家の困窮、新蔵がおさちに差し入れする鍋焼きうどんの熱々、粘っこく居丈高な巳之吉(みのきち)の性格や夫婦そろっての強欲ぶりなどの地層を重ねていく。その描写はまるで長兵衛から精巧な顕微鏡を借りたかのよう。安政(あんせい)三(一八五六)年に生きた市井の人々の姿を歴史の波間に埋もれさせまいと、細部の風俗描写も豊かに、情を込めて描出していくのだ。第二話も同様で、神話や聖書の昔から一大テーマになってきた兄弟の確執に、江戸職人の技芸が美事にからむ。二話を通して、橋と水の都である江戸の地勢の魅惑がくっきり立ち上がってくることも、書いておかねば。
 長兵衛は長崎につごう四度遊学している。それでふと思い出す。長崎の海軍伝習所にいた勝海舟はオランダ人に、日本人は無目的に歩くことの効用を知らなすぎると諭され、プロムナードを「散歩」と訳した。長兵衛は東の歩く人である。長崎から取り寄せた道具で鈴カステラを焼くスイーツ男子の元祖でもある。私は山本さんに呼びかける。これ、シリーズ開幕作ですよね? 長兵衛の幼馴染みで、巳之吉の女房を粋に脅す小股の切れ上がった「おかずさん」の出番、またありますよね?


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