解説 オトコのカラダはキモチいい?
この本の解説をトランスジェンダー女性である私に頼むなんて、エスプリの効いたジョークにも捉えられるね。多くの場合、私のように生まれたカラダが雄なのに性自認が女性だという人にとっては、自分のオトコのカラダというのはある意味「宿敵」である。嫌悪の対象でしかない。そのために、一日でも早くホルモン治療を始めて性別適合手術を済ませて自分のオトコのカラダとおさらばしたい人も少なくない。持って生まれたカラダを可愛がる、愛するなんて、論外である。
私自身がカラダを変える治療を検討していた頃、よくYouTubeに上がっている当事者の体験談動画を観ていたけれども、その中で印象的だったのは、とあるトランスジェンダー女性が自分の治療の経過を定期的に報告していて、睾丸摘出の後もおちんちんが勝手に勃起することがまだあると気づいてがっかりした気持ちを述べるという内容の動画である。彼女にとって、自分のカラダが自分の意思に反して雄的反応を起こすというのは不愉快で仕方なかったようである。
エッチが大好きで、逆にホルモン治療や性別適合手術を受ければイケなくなってしまうのではと心配した私には、この方の視点がとても新鮮だった。(私はいつもトランスジェンダー人間の多様性に驚かされる。本当に十人十色である。)もし動画の女性のように考える方がこの解説を頼まれたら、なんと答えるんだろう。侮辱として捉えて怒って断るのか? もしこの方の恋愛・性欲の対象が男性であれば、異性愛者のシスジェンダー(=生まれたカラダと性自認が一致している)女性と似た観点で、「サワル」側として書くことが出来るかもしれない。性別適合手術が終わっている人なら、記憶の中のオトコのカラダについて「サワラレル」側として書くことも可能かと思う。
しかし、私の視点はどちらにも当てはまらない。私が自分の性別違和をはっきりと意識するようになったは二十歳前後の頃。大学でのフェミニズムとジェンダー論との出会いがきっかけだった。でも当時のフェミニズムはトランスセクシュアル(死語)に対して否定的だったし、テレビや映画に出て来るトランスセクシュアルのイメージもお世辞にも良いものだったとは言えないので、私は誰にも打ち明けないでずっと一人で悩んでいた。
よく頭の中で理想の性転換手術(死語)をシミュレーションしたものだが、それはまるでSFだった。まず身長を最低一〇センチほど削りたい。これでもかというぐらい広い私の肩幅も二、三センチ削りたい。(今でも、おちんちんやおっぱいより、私は自分の骨格のデカさを気にしている。男性から羨ましがられたり女性から素敵だと言われたりするのに。)当然こればかりはどうしようもないものなので、一人で悩んだ挙句、諦めた。私の恋愛対象は女性だから、フツウの異性愛者男性のフリをすることにした。そして五〇代を目前にしてようやくトランスジェンダーとしてカミングアウトした。しかし検討の末、カラダを変える治療を受けないことにした。要するに、私はこれから、オトコのカラダを持ってしまったレズビアンとして、そのカラダと末長く仲良くしていかないといけないワケ。
何十年も自分のカラダに対してアンビバレンスを抱いて来た私にとって、『オトコのカラダはキモチいい』という本はとても良い薬になった。持ち主の性自認と関係なく、「雄っぱい」は「雄っぱい」だから。前立腺も然り。本書はパーツごとにかなり詳しく紹介してくれるが、社会から求められる男性性・女性性はもはやどうでもよい。「挿入」以外の自分のカラダの快楽について考えるきっかけの少ない異性愛者男性にももちろんいい薬になると思うが、むしろ私と同じように、自分のオトコのカラダに違和感を覚える「ちんちんを持ったオンナ」にもオススメしたい。(ひょっとすると、オトコのカラダと一番親密な関係にあるゲイ男性にはこの本はむしろ不要かも!?)
本書の「アナルセックスで世界を平和に」の話とつながるが、私のようなトランスジェンダー女性は、自分の持って生まれた性器に対して嫌悪を抱いてしまう。これは単純にカラダと性自認が一致していないことを性器が象徴しているという事が一番大きい理由かもしれない。しかし、それ以外にもワケがある。それは、ペニスと社会的「男性性」が頭の中で結びついてしまっているという事実だ。ペニスとヴァギナといえば、二村監督が指摘する「攻撃的で支配的な」セックスを連想してしまって、女性である自分がそんなセックスに関わりたくないから自分のペニスを恨んでしまう。
しかし、その嫌悪感を克服するのに、本書はヒントを与えてくれる。オトコのカラダの使い道は決して一つではない。おちんちん自体にはなんの罪もないはずだ。レズビアンだってペニバンやディルドをプレイに使うことがそれを証明している。にもかかわらず、女性を恋愛対象とするトランスジェンダー女性の多くは、もしかして、主流の「攻撃的で支配的な」セックスのイメージしかなくて、おちんちんを用いたそうでないセックスをイメージできないでいるのかもしれない。しかし本書にあるようにカラダの各部分をただのパーツとして、ただの道具として、ただのおもちゃとして考えれば別の可能性が見えて来るんじゃないかな。
旧約聖書イザヤ書には有名な節がある。「彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国に向かって、剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」要するに道具は使い方次第。
さぁ! 本書を読んだ我々は、サワり、サワラれ、みんなの良いおちんちんで、良いおまんこで、良いおっぱい(「雄っぱい」)で、良いアナルで、世界を、そして自分の心を、平和にしようではないか。