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【ブックガイド】杉江松恋選 作家たちが挑んだ昭和の闇――社会と人間の罪を描いた5冊
2025年、昭和100年――私たちはこの節目に、“昭和”を見つめなおしてみてはどうだろうか。今、私たちが感じている息苦しさや不透明感、虚無感には、もしかしたら昭和の時代に手がかりがあるのかもしれない。
作家たちは鋭い視線と反骨精神をもって、社会の欺瞞をあぶりだそうとしてきた。社会に刻まれた事件と人間の罪を描き、歴史の闇を覗き込みながらも、人を裁くのではなく、人と社会のあり方を問い続けていた。
4月29日の「昭和の日」にあわせて、文芸評論家・杉江松恋さんが5冊を選書。昭和という時代に起きた事件を通して、いまを見つめ直すブックガイドをお届けする。
事件小説で昭和を読む。昭和の闇を読む。
松本清張『小説帝銀事件 新装版』(角川文庫)
松本清張は推理小説が現代小説としても高く評価されるようになる革新の礎を作った人である。いくつもの重要な足跡を残しているが、1959年に発表された『小説帝銀事件』はその一つだ。1948年1月26日、帝国銀行椎名町支店で発生した行員毒殺と強盗事件は犠牲者の多さと犯行の大胆さから世間に大きな衝撃を与えた。高名な画家が容疑者として逮捕され、状況証が伴わないのに自白だけを根拠として死刑判決が下されたことでも知られている。画家という犯罪のしろうとが行ったにしては毒殺の手口は専門的すぎ、作中では旧陸軍関係者が関与した可能性も示唆される。
視点人物の新聞記者仁科俊太郎が最後に「個人的なおれの力ではどうにもならない」と独白するように、真相を覆い隠す闇の巨大さを痛感させられる一作でもある。それでも少しでも闇を透視するため、清張は膨大な資料を集めて本作執筆に挑んだのだ。何もしなければ闇は闇のままだが、そこに挑む者がいれば光はどこかに生まれるだろう。
本作に続いて清張は、1960年から『日本の黒い霧』の連載を開始する。米軍占領下の1945年から57年にかけて起きた重大事件を採り上げたノンフィクション・シリーズであり、作家が歴史と切り結ぶという事件小説の源流はここにあると言える。『小説帝銀事件』は、その先駆けとなった重要な作品なのである。
帝銀事件と並ぶ昭和の有名事件といえば、1968年12月10日に東京都府中市で発生した、通称「三億円事件」だろう。大規模な捜査が行われたにもかかわらず迷宮入りしてしまったこの事件には、創作者のロマンティシズムを搔き立てるものがあるのか、題材とする小説が多く書かれている。その中でも永瀬隼介『閃光』は、本格的な警察小説の展開とスリラーの緊迫感を備えた秀作である。
永瀬隼介『閃光』(角川文庫)
玉川上水で死体が発見された殺人事件の捜査で、小金井中央署の片桐慎次郎は警視庁捜査一課の滝口政利とコンビを組む。定年間際で燃え尽きた刑事との評判をよそに、滝口はこの事件に異様なまでの執念を燃やしていた。片桐は彼から30年以上前に起きた三億円事件と被害者との間に意外な接点があることを知らされるのである。
時間の堆積によって見えなくなっていた過去と現在とが意外な形で結びつくのが『閃光』の美点である。刑事二人以外の主要登場人物は、三億円事件の犯人たちだ。彼らにとって三億円事件は自分たちの人生を縛る解けない鎖になっている。過去に囚われながら生きる人間の暗い顔を『閃光』は徹底的に描く。特に強調されるのは悔恨の感情だ。彼らが昭和から引きずってきてしまったものは、この社会に生きる現代人すべてにとっての負の遺産でもある。読み終えたあとは、肩にのしかかる昭和の重みを感じ、身震いをしたくなるはずだ。
遠藤周作『海と毒薬』(角川文庫)
昭和事件小説の扉をこじ開けたのは戦後民主主義によって解放された新人たちだった。彼らの作中でも特に重要なのが、遠藤周作『海と毒薬』だろう。戦争末期の1945年、九州大学で米軍捕虜が生体解剖されるという凄惨な事件が起きた。新たな医療技術の確立が目的であった。目的が手段を肯定するという危険な傲慢さが悲劇を引き起こしたのである。
『海と毒薬』は事実のみを追っていくルポルタージュとはまったく違う形をしている。気胸療法を受ける視点人物の〈私〉は、近所の開業医・
そこまでが序盤で、以降は戦争末期の当該大学病院に舞台は移る。遠藤にはカソリックの信仰があり、日本人にとっての神はどこにいるのか、という関心がこの小説を書かせた。勝呂と共に生体解剖に関わった戸田は、自分が気にするのは他人の眼、社会から罰を与えられるのではないかという恐怖だけだと語る。倫理観の中心に空白があるのだ。
すでに敗戦色が濃厚であった時期にこの事件が起きたことにも注目したい。患者を治療してもいずれ空襲で死ぬのだという諦念が医師たちの心を麻痺させていた。勝呂は「もう今日から戦争も日本も、自分も、凡てがなるようになるがいい」と考えている。戦争が人の心に影響を及ぼしたという事実がそうした形で浮き彫りにされていくのである。
吉村 昭『破獄』(新潮文庫)
事件小説の古典として重要な作品を二つ挙げる。一つは吉村昭『破獄』だ。吉村は、事実をして語らしめることを徹底した作家であった。
佐久間の服役期間は、長い戦争と重なる。日本の食糧事情は悪化し、刑務所内の囚人よりも外の人間が飢えるという逆転まで起きていたのだ。本書に登場する刑務官たちは、その環境下で囚人を人間的に扱うためにはどうしたらいいかと腐心する。その情熱が結果的に佐久間の改心につながるのである。犯罪は個人が行うものだが、それを引き起こすのは社会である。個人と社会との根源的な対立関係を描いたという点で『破獄』は事件小説史に残る名作といえる。中途から描かれる、占領軍の刑務所行政への干渉も読み逃せない点だ。
佐木隆三『復讐するは我にあり 改訂新版』(文春文庫)
もう一作は佐木隆三『復讐するは我にあり』である。労働者作家として執筆歴を開始させた佐木は本作で第74回直木賞を受賞し、一気に知名度を高めた。
1963年から64年にかけて連続殺人事件が起きた。作中で榎津巌と呼ばれる男は合計5人を殺害しただけではなく、大学教授を名乗るなどして金を詐取するなど知能犯罪にも手を染め、逃走経路は九州から北海道までの日本列島をほぼ縦断する規模に及んだ。
この比類なき犯罪者を描くにあたり、佐木は榎津の心理描写を一切省いている。客観的な証言だけでその人物像を浮かび上がらせているのである。犯罪者や事件を憶測で語れば、そこには必ず主観が混入し、実像はぼやけていく。現代のネット空間がそうであるように、質の不明な情報は事実を判断しがたくさせていくのである。題名の「復讐するは我にあり」という言葉を発しているのは人間ではなくキリスト教の神である。神のみが人を裁けるということは、人が人を裁けるのかという問いへとつながる。ファクトチェックの曖昧な情報が氾濫する一方、主観に基づいて誰かを断罪する他罰志向が罷り通る現在、本作の重要性はますます高まっている。
歴史の闇を臆することなく覗き見よ。ただし自らを省みることなく他人を裁くなかれ。事件小説の発する声に耳を傾けるべき時が来た。
昭和に残された“未解決事件”を小説で追う——新聞記事帯で展開中!
作品紹介
書 名:小説帝銀事件 新装版
著 者:松本清張
発売日:2009年12月25日
昭和史の謎に挑んだ松本清張の代表作が、読みやすい新装版で登場!
占領下の昭和23年1月26日、豊島区の帝国銀行で発生した毒殺強盗事件。捜査本部は旧軍関係者を疑うが、画家・平沢貞通に自白だけで死刑判決が下る。昭和史の闇に挑んだ清張史観の出発点となった記念碑的名作。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/200909000513/
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書 名:閃光
著 者:永瀬隼介
発売日:2006年5月25日
昭和最大のミステリーの“真実”を炙り出す、犯罪小説の金字塔!
3億円強奪――。34年前の大事件は何故に未解決に終わったのか。全国民が注視するなか、警察組織はいかなる論理で動いていたのか? 大事件の真相を炙り出す犯罪小説の会心作。
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