彼女の愛が、 私の人生を狂わせた――。幻想怪奇小説の到達点。
小池真理子『アナベル・リイ』
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小池真理子『アナベル・リイ』
美しく哀しく、愛おしいゴーストストーリー
評者:瀧井朝世
甘美な恐怖を描かせたら、この人の右に出る者はいないだろう。そう改めて確信させるのが小池真理子の新作『アナベル・リイ』だ。
まさに著者の真骨頂。
本書は還暦を過ぎた悦子という女性が書き記したもの、という体裁だ。本人が記すにこれは〈手記とも記録ともつかないもの〉で、彼女が長年にわたって怯え続けて生きることになった経緯が綴られていく。
ことの発端は1978年。デザイン事務所を人間関係のいざこざで辞めた悦子は、西荻窪の裏通りにある「バー とみなが」で働き始める。スタッフはオーナーの富永多恵子と悦子だけの小さな店だ。ある夜、常連客のフリーライター、飯沼が、新米舞台女優の千佳代を連れてくる。無邪気な千佳代は悦子にすぐ懐き、2人は友人同士となっていく。同時に、千佳代と飯沼の恋も進行するが、2人が結婚してほどなく、千佳代は突然の病で命を落としてしまう。その後、バーの片隅や、悦子の自宅に千佳代の亡霊が現れるようになり――。愛した夫の周囲の女性にだけ姿を見せる妻の亡霊は、いったい何が目的なのか。
とにかく、ひとつひとつの積み重ねが見事。芸術家志望や自称評論家が集い、薄暗くも和やかな雰囲気の「バー とみなが」。両親が海外に移住したため悦子が一人で暮らす和洋折衷の古い一軒家。見栄えがよく女性にモテるがそれを鼻にかけず仕事にいそしむ飯沼。自由人に見えるが本当は飯沼をずっと恋慕い、本音を悦子にだけ語る多恵子。悦子を「たった一人の友達」と言って慕ってくる千佳代。そうした主な舞台の雰囲気や人々の性格や振る舞いが丁寧に盛り込まれ、さらに悦子の日常が克明に描かれるからこそ、そこに突如起きる怪異がなんとも恐ろしい。しかも生前の千佳代は純真で無垢で人を恨むようには思えず、なぜ亡霊となったのか、彼女の気持ち、いや、そもそも霊に気持ちがあるのかも分からず、読者も翻弄される。最初は亡霊がただ姿を見せるだけかと思われたが、やがて戦慄の出来事が起きてしまう。
語り手が悦子ということが非常に重要だ。学生時代から感情的にならず、ものごとを淡々と処理していく傾向があり、怪異現象も信じていなかった女性が、どのように恐怖に突き落とされていくかが生々しく描かれるのだ。当初、悦子は飯沼をめぐる恋愛模様も、自身の心理も冷静に見つめている。じつは彼女も密かに飯沼に憧れているのだが、彼と千佳代の入籍を知った時も嫉妬はなかったと語る。子犬のようにじゃれついてくる千佳代との間には、確かに友情が存在したのだ。しかし千佳代の死後、悦子は飯沼への思いを少しずつ表に出していく。そしてそのために、千佳代の影に怯えるようになるのだ。
亡霊に出くわした瞬間の恐ろしさ、恐怖より飯沼への思いが募る様子、どうせ信じてもらえないと思い亡霊の存在を飯沼に伝えられない葛藤、恐怖を分かち合った時に芽生えるもの――。そしてそこから、長年にわたって悦子の心は揺れ続ける。怪異を体験してしまった人間が、その後、何に怯えながら生活を維持していくのか、そのなかで人生はどのように変化していくのか。
この悦子の手記から感じられるのは、怪異から逃れられない恐怖だけではない。人生の予測不可能性に対する生者の脆さと強さ、そして死者の寂しさも浮かびあがってくる。終に死者の思いを汲み取った時、それまで読んできたこの物語が、また異なる色味で見えてくるはずだ。美しく哀しく、愛おしいゴーストストーリーだ。
作品紹介・あらすじ
アナベル・リイ
著者 小池 真理子
定価: 1,980円(本体1,800円+税)
発売日:2022年07月29日
彼女の愛が、 私の人生を狂わせた――。幻想怪奇小説の到達点。
怯え続けることが私の人生だった。
私は今も、彼女の亡霊から逃れることができないのだ。
1978年、悦子はアルバイト先のバーで、舞台女優の夢を持つ若い女・千佳代と出会った。特別な友人となった悦子に、彼女は強く心を寄せてくる。
しかし、千佳代は恋人のライター・飯沼と入籍して間もなく、予兆もなく病に倒れ、そのまま他界してしまった。
千佳代亡きあと、悦子が飯沼への恋心を解き放つと、彼女の亡霊が現れるようになり――。
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