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レビュー

三つの東京オリンピック 『この日のために』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説者:岩間 陽子 / 国際政治学者)

 東京にまたオリンピックがやってくる。二〇二〇年は熱い夏になるだろう。前回の東京オリンピックを覚えている人は、日本の人口のどれくらいになるのだろうか。生後六ヶ月だった私には、無論当時の記憶はない。けれど、オリンピックの年に生まれたことを、ずっと誇りに思ってきた。別に自分が偉いわけではないことは、百も承知だ。でも、オリンピックと新幹線の年に生まれたことを、一九六四年生まれの人間は、みんなどこかで誇りに思っている。何か、きらきら光るものに、ずっと背中を押してもらって生きてきたような気がしている。それが何だったのか、この本は確かめさせてくれる。
 東京オリンピックといえば、一九六四年だったとみんな思っている。実はその前に一度、幻の東京オリンピックがあった。一九四〇年、東京ではオリンピックが開催されるはずだったのだ。それが実現しなかったことは、ほとんどの日本人の記憶から抜け落ちている。一九三六年、ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールが、『民族の祭典』『美の祭典』で記録したベルリン・オリンピックの後(ちなみに、ドイツにも一九一六年に戦争で実現できなかった幻のベルリン・オリンピックが存在する)、二度のオリンピックが戦争で流れ、復活するのは十二年後、一九四八年のロンドン大会からである。どんな成功の前にも、必ずせつは存在する。そのことを忘れて、栄光の日々だけを記憶しておくことは簡単なのだが、そこにきっちり焦点をあてるところが、幸田真音の真骨頂なのだと思う。
 明治三十一年(一八九八年)、静岡県浜松市成子町に田畑政治が生まれる。その一年と二日後、広島県豊田郡吉名村(現竹原市吉名町)の造り酒屋に、池田勇人が生を受ける。この二人を軸に、一九六四年東京オリンピックへの物語は展開する。たかだか百年ちょっと前のことなのだが、当時の生がいかにぜいじやくなものだったか、この二人の前半生をたどるだけでよく分かる。幼い頃、田畑政治は医師に、この子は育たないだろうと言われる。それでも水泳の盛んな浜松に育ち、地元、遠州学友会水泳部のエースとなった。まだ日本に近代水泳は伝わっておらず、古来の泳法で浜名湾を泳いでいた頃の話である。しかし、中学四年のある日、田畑は大腸カタルの診断を受け、水泳を続けることを禁じられる。悩んだ末田畑は、水泳の指導者としての道を歩むことを決断する。「水泳ニッポンの父」田畑政治は、自らが泳げなくなるという挫折が存在したからこそ生まれたのである。浜松中学を日本一にする、という夢は、程なく「日本人をオリンピックで優勝させる」「日本にオリンピックを呼んでくる」に変わっていく。
 一高、東大を出て田畑は朝日新聞社に入り、後に政治家となる政治部長、緒方竹虎の下に配属される。政治記者であり、水泳指導者であることは、田畑の中では全く矛盾がなかった。
 昭和二年(一九二七年)、日本は金融恐慌のただ中にあるが、田畑は翌年のアムステルダム・オリンピックに、日本の水泳選手を送ろうと考える。政治記者としての自分をかわいがってくれた鳩山一郎の紹介で、田畑は時の大蔵大臣高橋是清に直訴しにいくのだ。四度目の大蔵大臣を務める七十二歳の古老に、初対面のかけ出し記者が無心するのである。
 幸田には、本書以前に高橋是清を扱った『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』という作品があり、第三十三回新田次郎文学賞を受賞している。二・二六事件で命を落とすこの政治家には並々ならぬ思い入れがあるのだが、本作品で活躍するのはこの一シーンだけである。オリンピックの魅力を熱に浮かされたようにしゃべり続ける田畑に高橋はひとつだけ質問をする。そして、その答えを聞いて、「そうか、わかった。だったら出してやろう」と、その場で即決してしまうのだ。補助金を得て、日本選手団はアムステルダム・オリンピックに出場し、日本人初の金メダリストが誕生する。これに勢いを得て続くロサンジェルス・オリンピックではさらに大勝し、水泳ニッポンは、その名を世界にとどろかせることになるのだ。
 スポーツには金がかかる。スポーツで勝つにはもっと金がかかる。オリンピックを呼んでくるには、さらに気が遠くなるような金がかかる。オリンピックを描きながら、いつたんどん底に落ち、そこからい上がる昭和の日本の政治と経済を、幸田は、多くの登場人物を通して描いていく。金融と経済をきっちり描けることが、かつて国際金融市場の現場に身を置いたことのある著者の強みだ。その強みを生かして、政治と経済の視点からオリンピックを描く、というのが、本書の大きなテーマになっている。
 本作品のもう一つのテーマは、スポーツと政治の関係だ。作品中何度も、時の権力者に直訴するスポーツ界の代表が描かれる。先ほどの高橋是清、後述のドイツ総統アドルフ・ヒトラー、そして戦後の東京オリンピック招致にあたり、田畑は総理大臣岸信介に頭を下げに行く。
 オリンピックがこの世のものである限り、政治から無縁ではいられない。世界恐慌を機に、軍部支配・ファシズムの時代が到来し、内外に大事件が頻発する中、田畑らは紀元二千六百年記念の年に、アジアに初めてのオリンピックを持ってくるための策を練る。いっそヒトラーに掛け合ってみれば──。東京市長代理磯村英一は、シベリア鉄道に乗りヨーロッパへ向かった。ベルリンの総統官邸にヒトラーを訪ね、東京開催への支持を陳情する。この四か月後、日独防共協定が締結される。戦争へと突き進む日本の政治を、オリンピックは止めることができなかったのだ。
 もう一人の主人公池田勇人も、七転び八起きとはこの事かという程、挫折だらけの人生である。陸軍幼年学校を受けるのだが、近眼で不合格。さらに一高に不合格で熊本にある五高へ行き、東大にも落ちて京大法学部に進学する。何とか大蔵省に入省したと思ったのも束の間、「落葉状てんぽうそう」という当時の難病を患い、大蔵省を退職し、故郷に戻り、いつ終わるとも知れぬ闘病生活に入る。
 昭和の男たちを支えたのは、そうめいな女たちであった。政治家池田勇人は、母うめと二人目の妻となる満枝という女たちがいなければ、決して生まれなかったであろう。医師がさじを投げ、死を覚悟した池田をこの二人の女性は見放さず、寄り添い続けた。五年間の闘病生活を経た後、池田は昭和九年の秋、大蔵省に戻る。しかし、軍事費は膨張を続け、多くの人員が徴兵されて労働力は枯渇し、日本経済は疲弊し始める。昭和十三年、紀元二千六百年を奉祝するはずであった万国博覧会とオリンピックは、開催延期と招致辞退が決められた。
 もし一九四〇年東京オリンピックが実現していたら、一体どのようなオリンピックになっていたのだろうか。たとえ成功していたとしても、それは一九三六年ベルリン・オリンピックと並んで、「ファシズムと軍国主義の時代」の負の印象を背負った記憶となっていただろう。あるいは、戦争に資源と人員を割かれて、ろくな準備もできずにさんたんたる失敗に終わっていたかもしれない。初めて東京にやってきたオリンピックが、一九六四年で本当に良かったと思う。幻に終わった一九四〇年の東京オリンピックが、一九六四年の助走として存在することを、この物語は教えてくれる。
 終戦の混乱期を乗り切った池田は、政治家に転身し、たんした日本経済を立て直す。こういうの危機に立ち向かうのは、ありきたりなエリートでは駄目なのである。大きな挫折を経験し、表街道を外れたことのある人間は、常に百点満点を取り続けてきたものにはできない、型破りで奇想天外な発想ができるのである。
 一九四九年、初当選を果たした池田は大蔵大臣にばつてきされ、来日したジョセフ・ドッジらと渡り合う。同じ年田畑は、今度はGHQのトップ、ダグラス・マッカーサー元帥を動かし、日本選手団を全米男子屋外水上選手権大会に送り込んだ。今度こそ東京にオリンピックを──田畑の夢が、再び動き始める。そして、「オリンピックはもうかる」と考え始めた田畑と、所得倍増を唱え始める池田の人生が、次第にしゆうれんし始める。
 ここから実際のオリンピックと新幹線までの道は、実に山あり谷ありなのである。「水と道路と鉄道と」はインフラの基本だが、当時の日本には何にもない。まさに後進国そのものだったのだ。新幹線建設も、世銀の借款を得て始まる。オリンピックを機に、東京と日本は激変したのである。行財政、建設、金融、デザインなど、各分野でその後の日本をけんいんすることになる星のごとき名前が、東京オリンピックのオール・ジャパンチームには並んでいた。彼らみなが、「この日のために」私利私欲など度外視して、夢中になって完成させた夢が、東京オリンピックであった。
 前夜の土砂降りの雨の後、昭和三十九年十月十日の朝は、抜けるような青空であったという。その九日前、十月一日には東海道新幹線が開業していた。日本の、幸せな幸せな時代の夜明けであった。しかし、そこに至るまでには、いくつもの大きな挫折があった。その物語を、新しいオリンピックを迎えるにあたって、今一度めてもらいたい。大きな挫折を経験したからこそ、戦後日本の飛躍があった。平成日本もまた、ある種の挫折の時代であった。その後に訪れる、令和の時代のオリンピック開幕式の朝、東京の空は晴れているのだろうか。

ご購入&試し読みはこちら▶『この日のために 上 池田勇人・東京五輪への軌跡』| KADOKAWA

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