文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説者:タカザワケンジ / 書評家)
時代といえば、元号が平成から令和へと変わった。『高校事変』の一作目が刊行されたのは令和元年五月二五日。つまり、『高校事変』は令和に産声を上げた新しいシリーズだ。主人公の
優莉結衣は高校二年生。前作では
父が逮捕されたとき結衣は九歳。児童養護施設に引き取られ、警察の監視を受けながら育った。このプロフィールからは、世間から白い目で見られる不幸な生い立ちがイメージされる。しかし、その姿もまた彼女の実像とはほど遠い。父とその仲間たちは、幼い彼女に徹底した訓練を施し、犯罪のノウハウと生き抜く力を教え込んだ。美しい容姿とは裏腹の人間凶器。それが彼女である。しかし、周囲には、彼女を危険視する公安警察の関係者か、子供に罪はないと考える人権派の支援団体しかいなかった。誰も彼女の本当の姿を見ようとはしていない。
今作で結衣が通っているのは
戦うヒロイン、結衣に対して、この物語にはもう一人、事件に巻き込まれる人物がいる。結衣が住む施設に住み、同じ高校に通う、一学年上の
結衣は他人と距離を置き、何事に対しても超然とした態度を貫いている。降りかかる火の粉を払うだけなら小指一本動かすだけで足りる。彼女が本格的にその「才能」を発揮するのは事件に巻き込まれたときである。前作では首相が訪問するというタイミングで起きた高校占拠事件がそれにあたる。映画『ダイ・ハード』よろしく、校舎という限定された空間で武装集団と戦うという事態が、彼女の闘争本能に火を
やはりろくでなしほど、結衣の真意に気づきやすいようだ。皮肉とともにそう思った。
暴力の衝動に逆らえないという意味では、DVを働きたがるクズと変わらない。幼少期から刷りこまれた下地のせいか、人を殺すのにためらいがなかった。
(中略)むやみに暴力を振るわないのは、公安の監視対象だからだった。ときと場所を選ぶ考えが自然に備わっていった。社会に迷惑をかけてばかりいた極悪人の父とちがい、ぶざまに死刑に処せられるつもりもない。自分は自分として生きる。
結衣は自身の暴力への欲望を自覚している。「自分は自分として生きる」という考え方は彼女がこれまでの人生で培ってきた哲学であろう。また彼女は暴力や犯罪について熱心に研究している。先ほど、前作は映画『ダイ・ハード』よろしく、と書いたが、結衣は前作で『ダイ・ハード』の「映画のウソ」を指摘していた。ほかにも『沈黙の艦隊』『ザ・ロック』『トイ・ソルジャー』などに言及しているなど映画をよく見ているようだ。むろん、この知識は作者の松岡圭祐のものでもあるから、松岡が幾多のアクション映画を踏まえた上でよりリアルなアクション小説を志向しているとも取れる。今作ではベン・アフレック監督・主演の映画『ザ・タウン』について触れ、やはり結衣が父から教えられたという「映画のウソ」を指摘している。
『ザ・タウン』はボストンの一角にある犯罪率の高い地域が舞台。親から子へと強盗のやり方が伝授されることすらあるという、この地域に育った男たちが銀行強盗を繰り返し、追い詰められていく物語である。作中で指摘されているのは冒頭の銀行強盗での犯人たちのふるまいについてである。だが、映画の内容も興味深い。ベン・アフレックが演じる主人公は銀行強盗はするが、暴力行為はなるべく避けたいと考えている。しかし、幼なじみで親友、強盗の相棒でもあるジェムはカッとなると暴力衝動を抑えられず、物語が暗転していくきっかけをつくる。
結衣はこの映画をどのように見ただろうか。暴力への衝動を抑えられない人間は破滅する。いや、それ以前に「自分は自分として生きる」ことができなくなる。結衣が理恵とともに施設を抜け出そうとする場面で、結衣がカミュの言葉を引用する一節も印象的だ。結衣の指示通り脱出できるか不安に感じている理恵に結衣が言う。
「生(せい)への絶望なくして、生への愛などありえない」
「はい?」
「アルベール・カミュの著作にそう書いてあった。正直よくわかんない。絶望したことないし」
その前に理恵は結衣の本棚にカミュの本を見つけている。結衣が引用した言葉はカミュの最初の著作『裏と表』の「生きることへの愛」という紀行エッセイからだ。旅をする人がしばしばそうであるように、カミュも思索にふける。そして、金色に輝く太陽が照らし出すスペインの僧院を見て、それが崩壊してしまうという幻想に囚われる。カミュの代表作『異邦人』もまた、やはり太陽の光に満ちた地中海を舞台にした小説だった。殺人を犯したムルソーは、その動機を「太陽のせい」だと答える。太陽は世界を輝かせるが、同時にそれがやがては失われることを暗示している。カミュは二十世紀最大の小説家、哲学者とも言われているが、その理由の一つは、私たち現代人が心に抱えた不条理な虚無感を表現したからである。暴力や死への衝動でさえ、その根っこには薄気味悪いほどの空洞があるのだと。だが、「生きることへの愛」でカミュは、生への絶望は生への愛の前提条件だと書いている。
「絶望したことないし」という結衣の言葉をそのまま信じることはできない。むしろ彼女は九歳で絶望から人生を再スタートしたのではないだろうか。だとすれば、この言葉をそらんじている結衣は、生への愛を渇望しているとも解釈できよう。
結衣は自身の暴力衝動を抱え、それをコントロールしながら生きている。だが、ときには爆発させる。それは傷つけられてもしょうがない人間、殺されてもしょうがない人間たちに対してである。この世に傷つけられてもいい、殺されてもいい人間などいないというのは正論だ。だが、「死んじまえ!」と言いたくなるような鬼畜の所業が存在することもまた事実だ。善良な市民としては否定すべき極論も、フィクションのなかでなら許される。松岡圭祐はそのような私たちの無意識的な欲望を、エンターテインメントに昇華している。だが、大衆の欲望は時代とともに変化し、怒りの対象もうつろいやすい。結衣が戦う相手には、いまを生きる私たちが納得できるものでなければならない。松岡圭祐の作品を「いま」読むべき理由はここにもある。
『高校事変 Ⅱ』で結衣が戦うのは、子供を
優莉結衣は暴力を自在に操る
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