芥川賞候補作&河合隼雄物語賞受賞作『あひる』、『星の子』に続き、今村夏子さんの最新短編集『父と私の桜尾通り商店街』が刊行された。誰の日常にも潜んでいる不穏さとねじれがうむ奇妙な希望。読む者の心をざわつかせずにいられない6編の魅力を、前編につづき、それぞれ“推し”の書店員&手描きPOPクリエイター&編集者に語っていただきました。
(取材・文:立花もも 撮影:編集部)
あたりまえに信じていたものが覆されて、
待っているものが「目覚め」から「死」へと変わる
(「せとのママの誕生日」)
――「せとのママの誕生日」は、「スナックせと」で昔働いていた3人の女性が、ママの誕生日を祝うため久しぶりに店を訪れるところから始まります。死んでいるかのように眠っているママが目覚めるのを待ちながら、3人は思い出話に花を咲かせるのですが……。
細田明日美(KADOKAWA編集担当) 読み進めていくと途中でいきなり〈それもそのはず。わたしたちはせとでママの手伝いをしていたけど、働いていた時期は一切かぶっていないのだ〉って文章があるじゃないですか。ここに、当たり前に信じていたことを覆される今村さんの巧さがあると思うんですよね。初対面だったんかい!っていう。
でんすけのかいぬし(手描きPOPクリエーター) お互いのことは知らないけど、話は聞いたことがあるし、何よりせとのママという唯一無二の存在だけで、強く結ばれている。趣味が同じで繋がっているSNS上でしか知らなかった人に実際会うと、ずっと知り合いだったかのような親しみを感じることがあるけど、それに似ていますね(笑)。
山本亮(大盛堂書店) 続く〈だけどわたしたちはお互いのことをとてもよく知っている。会ったこともない誰かのことを、昔からの一番親しい友達のように感じている〉って一文が、僕はすごく好きですね。ここに、今村さんの描く人間関係が集約されている気がします。
――その3人が過去を語り合ううちに、ママの人となりも明らかになっていきます。ママは、でべそや乳首など、女の子たちが本当は見せたくないコンプレックスを見世物にして金を稼いでいる。女の子がでべそを手術で治したり、ペンチでひねられ続けた乳首がちぎれて失われたりすると、「見つけるまで戻ってくるな」ってクビにされるという。
細田 どことなく愛をもって笑いまじりで描かれているのに、その暴力性があらわれてくると、彼女たちが待っているのが実は「ママの目覚め」ではなく「死」なのかもしれないと思わされる。この作品にはどこか祝祭性があるように感じるのですが、内包している祝いは、めでたさだけではないんです。
竹田勇生(紀伊國屋書店西武渋谷店) もしかしてこれは葬式なのではないか、と僕も思いました。干からびたしいたけやレーズンなど持ち寄ったものを、ママの身体の上に並べていくのも、土俗的な祭事行為に近いですよね。
内田剛(三省堂書店有楽町店) カセットテープから流れる音が読み手の頭にも鳴り響く、生死のあわいを漂うようなその空間もまた、一種の異界だなと思います。
でんすけのかいぬし しいたけはへそで、レーズンは乳首。その他、ママの上に置かれるものはすべて、女の子たちのコンプレックスそのものなんですよね。皆のコンプレックスと一緒に逝ってくれ、みたいな願掛けを私は感じました。ほら、精霊流しや、海外の寺院とかで、仏像の自分の治したいところに金箔を貼ったりするじゃないですか。あんな感じですね。
田村知世(ジュンク堂書店吉祥寺店) ママって、女の子たちのコンプレックスを見世物にお金をとることになんの躊躇いもないじゃないですか。彼女たちをどうにかしてあげたいという気持ちがあったらクビにはしないだろうし。そんな自分を、ママはまったく意に介さず生きてきたと思うんです。だけど今、女の子たちに囲まれて自分の所業を突きつけられている。このまま死ぬならいいんですけど、彼女たちは「目を覚ますまで待つ」と決めているわけで。……めちゃくちゃ怖いですよね。目、開けられないですよ。
内田 たしかに(笑)。
田村 その怖さが、今村作品の好きなところなんですけどね(笑)。
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三省堂書店有楽町店・内田剛さん
不器用で一途なみっこ先生の少女性に、
生きづらさだけでなく神聖な恭しさを感じた
(「モグラハウスの扉」)
――「モグラハウスの扉」の語り手は小学3年生の“わたし”。学童の友達と一緒に、工事現場の作業員・モグラさんと出会い、彼が地下に巨大なモグラハウスを建設していることを知ります。
内田 モグラハウスってすごいんですよね。〈地下二十階建て、部屋数は百。トイレも百。ハウス内には温泉、ボウリング場、トレーニングジムなど、さまざまな娯楽設備が整っている〉。これだけでもう、大人も子供も憧れをそそられますよ。地下って、深くておそろしい場所であると同時に、無限に広がりを見せる密やかさがあるから。この設定だけでも魅力的なんですが、もう一つ惹かれたのがやはりみっこ先生。
――モグラさんに恋をする、学童の先生ですね。
内田 彼女が懸命につくったお弁当がまた、文学史に残るんじゃないかと思うほどまずそうでね。〈全体的にしょうゆの味が濃く、少し焦げ臭かった。からあげはべちゃべちゃしていて、卵焼きには殻が入っていた。(略)ポテトサラダはじゃがいもが固くて嚙むとガリッと音がした〉。……最悪ですよね(笑)。 でも、だからこそ唯一おいしかったおにぎりを噛みしめる描写が際立つんです。今村さんはいつも食を象徴的に描くけれど、この作品の描写はとくにいいですね。みっこ先生の一途な不器用さも、人間らしくて好きです。
竹田 モグラハウスなんて現実に考えたら存在するわけないんだけど、みっこ先生だけは、モグラハウスを訪れるじゃないですか。
内田 ベッドを見に行ったり、マンホールのなかに落ちたお弁当の箸を追いかけて、自分も飛び降りたときね。
竹田 みっこ先生は、「(箸は)なかったわ」って悲しげな表情で、ブラウスのあちこちを黒く汚して帰ってきますけど、あのとき彼女は何か違うものになってしまったんじゃないかと思うんです。もちろん、見た目にはわからない。その後、十数年ぶりに“わたし”が再会したみっこ先生は、以前と全然変わっていなかった。だけど、何かが決定的に変容してしまった気がしてしまう。
内田 本当のみっこ先生は、今もモグラハウスに残されている、と。
――「ひょうたんの精」で、七福神を宿す前とあとでなるみ先輩が“違う”のと似ていますね。そういえば、みっこ先生が追いかけた箸も、マンホールのなかで汚したブラウスも「白」でした。白いものが穢れていく、という点では「白いセーター」にも似ている気がします。
山本 そういえば、最初の頃のみっこ先生は「歯に口紅がついていないか」と気にしますよね。そこにも汚れることへの恐れ、みたいなものがある気がします。
内田 「白いセーター」と違うのは、一途さの表れであるところじゃないかなと思います。永遠の少女であるみっこ先生の、不器用な生きづらさを象徴しているというか。
山本 少女性であり、幼児性でもありますよね、みっこ先生の内包しているものは。みっこ先生の内側で、子供がわんわん騒いでいて反響しているようなイメージがあるんです。そこに狂気めいたものを感じる。
田村 モグラハウスの扉となるマンホールのふたは、その後、閉じられるじゃないですか。そして子供たちはみんな、少しずつモグラさんのことを忘れて大人になっていく。だけどみっこ先生だけはずっと、今もモグラハウスを探し続けている。モグラさんが好きだからというよりも、「ここにはない夢の生活」がそこにはあると信じているからだと思うんですよね。それは“わたし”も同じで、どちらも大人になりきれていない。なりきれないままラスト、モグラハウスをめざして走り出してしまう。その無謀さに憧れ……はしないけれど、ちょっと羨ましくなりました。
内田 みっこ先生が“わたし”から、過去に失ったはずの白い箸を受け取るシーンがあるでしょう。別物かもしれないけれど、それが探し求めていたモグラハウスから流れてきたものだと信じて。彼女が一本の箸を両手で受け取り、目の高さまで掲げるあのシーンに僕は神聖な恭しさを感じるんです。あの数センチが、永遠の高みであるような気がして。果てしなく続く地下との対比でもあるその美しさに打たれました。ラストは確かに不穏さもまとっているんだけど、あの先には希望もあると僕は信じたいです。
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ジュンク堂書店吉祥寺店・田村知世さん
ハッピーエンドの要素が満載なのに、
どんどん気味悪く展開していくのがすごい
(「父と私の桜尾通り商店街」)
――ラストは表題作の「父と私の桜尾通り商店街」。母親が商店街振興組合の理事長と駆け落ちしたせいで、父ともどもつまはじきにされていた“私”。家業のパン屋にも客が訪れることはほとんどなく、父はついに材料がなくなり次第、店をたたむことを決意します。
田村 これ以上酷くなることはないだろうという始まりなので、しめくくりの1編だし、さすがに希望的なラストを迎えるのかなあと思っていたら、いい意味で期待を裏切られました(笑)。こんなにもハッピーエンドになる要素がたくさん詰まっているのに、“私”の熱意が暴走することで、どんどん気味悪く展開していくのがすごい。
――ある日、見知らぬ女性のお客さんがあらわれて、コッペパンをおいしいと言って一緒に食べてくれた。“私”はそれから急にスイッチが入って、お父さんの焼いたコッペパンにいろんなものを挟んで店に並べるようになります。
田村 もうちょっとパン屋を頑張りたいと思うようになった、おかげで店の評判がよくなってお客がくるようになった、というそれ自体はいいことなんですが……。
山本 どこかずれていますよね。彼女の頭にあるのはその女性だけだから、お客さんに内心「そもそもそのサンドイッチはあなたのために作っているのではないと言いたい」って毒づく(笑)。
竹田 挟むだけ、っていうのがすごいですよね。意欲的になったとはいえ、いまだに日々のパンを焼くのはお父さんだけ。具となるシチューとかもお父さんがつくったもの。たぶん学校はとうに卒業して、大人と言える年齢なんだと思うけど、日々考えるのは「あの女の人のために何を挟むか」ということだけ。
田村 しかも、女性が新しくできるパン屋の主人と知ってからは、店を外からじっと覗き続ける。怖いですよ。そしてその偏執的なやる気が「やっと終われる」というお父さんのたった一つの希望を奪ってしまう。「材料がなくなった」とほっとするお父さんを前に「困るんだけど! 材料注文してきてよ」ですよ。「しゃきっとして」「やれるよやれるよ」ってどんどんお父さんを追い詰めて。
細田 あそこめちゃくちゃ怖いですよね。お父さんの顔面が真っ白になって、焦点が全然あってないっていう。でも、物語の筋を考えると確かに怖いんですけど、読後に爽快感があるのが不思議なんですよね。
榊原大祐(KADOKAWA書籍編集担当) 今村さんの作品って定職についていない登場人物がよく出てくるんですけど、こんなふうに「何かになろう」と決意する人はあまりいないので、そう言う意味で一歩踏み出す希望があるのかもしれません。
田村 夢も希望も、“私”の心の中にしかないですけどね(笑)。
でんすけのかいぬし それに、けっきょく彼女のやりたいことは「お父さんがパンを焼く」前提で成り立っているじゃないですか。「パン屋になりたい」ではなく「私に挟ませて!」なんですよ。そこが自立してないな~、と(笑)。お父さんが追い詰められた最大の原因は、娘の甘さを突きつけられたことなんじゃないかという気もします。
内田 いずれにせよ、すごい終わり方ですよね。最後、商店街に夕方5時を知らせる夕焼け小焼けのメロディーが流れるじゃないですか。「モグラハウスの扉」でみっこ先生と“わたし”がめざしたのは、この夕暮れだったんじゃないかという気がしているんです。
竹田 すべてがこの商店街を舞台にしていたかもしれないと読めますし、6編すべての人々がこの夕暮れをめざしていたのかもしれない。……でも僕は、この桜尾通り商店街には行きたくないな。行くと何かを奪われて、二度と出てこられなそう(笑)。
田村 それでもこの作品は、何度も読み返したくなる(笑)。今日、皆さんのお話を聞いて新しい読み方をたくさん教えてもらったので、もう一度、家に帰ってじっくり読んでみようと思います。
* * *
みなさま、ありがとうございました!
改めて、1冊に所収されているとは思えないほど、読みごたえの異なる6編だと感じました。
すでにお読みになった方、この座談会で本作を知った方、みなさまどの作品がいちばん気になったでしょうか?
1編を選んで、ぜひ本作の応援団にご応募ください。
一番たくさんの票が集まった作品の「団員」のなかから抽選で5名様に、
今村さんセレクトのプレゼントがあたります!
ご応募、お待ちしております。(編集部)
[収録作]
・ 純真さが損なわれてしまうことの畏れを描いた「白いセーター」
・行きすぎた好意が激昂に変わる「ルルちゃん」
・神様を曇りなく信じぬくという行為が日常を違ってみせる「ひょうたんの精」
・待っているものが「目覚め」から「死」へと変わりゆく、シュールな「せとのママの誕生日」
・主人公の永遠の少女性に生きづらさと神聖さを宿した「モグラハウスの扉」
・ハッピーエンドの要素が満載なのにどんどん不穏さを増していく「父と私の桜尾通り商店街」
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