芥川賞候補作&河合隼雄物語賞受賞作『あひる』、『星の子』に続き、今村夏子さんの最新短編集『父と私の桜尾通り商店街』が刊行された。誰の日常にも潜んでいる不穏さとねじれがうむ奇妙な希望。読む者の心をざわつかせずにいられない6編の魅力を、それぞれ“推し”の書店員&手描きPOPクリエイター&編集者に語っていただきました。
(取材・文:立花もも 撮影:編集部)
「一見穏やかなようで、ひっそりとざわめきが残る」
今村夏子作品の魅力とは
――まず、自己紹介がてら、皆さんの思う今村夏子さんの魅力をおしえていただけますか。
田村知世(ジュンク堂書店吉祥寺店) デビュー作の『こちらあみ子』をはじめて読んだときは、そのえも言われぬ読後感がとにかく衝撃的でした。新刊をずっと楽しみに待っている作家さんの一人なんですが、ハッピーエンドを求めていない気分のときに読みたくなります(笑)。
内田剛(三省堂書店有楽町店) 他の誰にもない読み応えのある作品を書かれますよね。一見穏やかなようで、ひっそりとざわめきが残る。今村さんの作品は「新しいフルコース」だと思っているんですが、理由のひとつが、食べ物が象徴的に使われていること。そして読後に「新」鮮な驚きを覚えながらも、どこか懐かしさが文章の隙間に漂っている……いい意味での「フル(古)」さを感じるからなんです。
山本亮(大盛堂書店) わかります。バッドエンドとハッピーエンドの狭間を狙っている感じがするというか……。きしんだ感情にとらえられたような居心地の悪さを感じるのに、ラストの先にはまだ何か希望があるのではと思わされる。物語の枝葉を勝手に脳内で生み出してしまうんですが、それもまた楽しい。
竹田勇生(紀伊國屋書店西武渋谷店) 文章自体は平易で、誰でもすらすらと読むことができるけど、視点が独特なんですよね。「僕たちの日常って、こんなにもイカれてるの?」って不安にさせられる(笑)。読み終わったあとは、ただただ絶句。その衝撃が、今作でも6編すべてに通底しているからすごいと思います。
でんすけのかいぬし(手描きPOPクリエーター) 人って、誰しもとりつくろって生きていると思うんですよ。内心は激しい嫉妬に駆られているけど、いい人に見られたいから笑う、とか。一見幸せそうだけど、鼻がめちゃくちゃ低いことや片目だけ一重っていう、他人から見ればささいなことに、死にたくなるほどコンプレックスを抱えているとか。そういう、角度を変えなきゃ見えない世界のおぞましさみたいなものを、今村さんは描くんですよね。そしてそれは、私たちの日常の延長線にあることを知らしめる。
細田明日美(KADOKAWA編集担当) 読んでいてすごく、気まずいんですよね。自分の言動を思い返して、帰り道やお風呂場で「はあ!」って叫びだしたくなる気持ちと、ちょっと似ている(笑)。でもだからこそ、読んでいて不安に揺さぶられると同時に、どこか癒されもするんです。不思議な作家さんだな、と思います。
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紀伊國屋書店西武渋谷店・竹田勇生さん
純真さが損なわれてしまうことを、
“お好み焼きのにおい”で表現するなんて
(「白いセーター」)
――では1編目、竹田さんが推薦する「白いセーター」から始めたいと思います。主人公の“わたし”はフィアンセとのクリスマスディナーを心待ちにしていて、汚れるかもしれないと思いながらも、プレゼントしてもらった白いセーターを引っ張り出します。ところが、日中、彼の姉の子供たちを預かることになり……。
竹田 この作品に描かれているのは、誰しも経験したことのある「誤解による関係性の崩壊」だと思うんですよ。フィアンセの姉とはいえ、普段つきあいのない女性とその子供って、要するに他人じゃないですか。それなのに関係性に名前がつけられたとたん、なぜか近しいもののように感じてしまう。これがまずひとつの誤解ですよね。
――確かに。勝手に距離感が縮まったと誤解するから、姉は“わたし”の対応に裏切られたと感じるし、“わたし”はわかってもらえなさに絶望していく。
竹田 意味を見出しすぎるのは子供に対してもそうで。「子供は純真なものである」というのが、この作品における第2の誤解だと思います。無邪気にホームレスを侮蔑し、追い出そうとする子供。それを止めようとした彼女を敵と認定し、糾弾する凶暴性。悪意ではなく、どちらかというと正義感なんだけど、その残酷さが“わたし”を追い詰めることにつながっていく。その結果を「白いセーターにしみついたお好み焼きのにおい」で落着させるところに、今村さんのすごみがあると思いました。
細田 誰にでも想像のつくにおいですよね。家に帰ってきて「私こんなにくさかったんだ」って気づく、なんともいえない気持ちも含めて。だから、お好み焼きを食べながら味わったフィアンセとの気まずさも、すごく自分の中に呼び覚まされる。
でんすけのかいぬし 汚れたわけじゃない、っていうのも象徴的でした。この先、表面的に問題は解決したとしても、消えないにおいのように何かが大きく覆いかぶさり続けるだろうという予感がします。
竹田 「白いセーター」っていわば純真さの象徴じゃないですか。それがどんどん損なわれていく過程を、こんなふうに表現するのかと。
田村 見方を変えればにおいがついただけのことなんですけどね。主人公の主観によって幸も不幸も定められていくのが、面白いです。
竹田 表裏一体の残酷性があますところなく描かれているのがこの短編の妙であり、今村さんの魅力がすべてつまった作品だと思いました。
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大盛堂書店・山本亮さん
行きすぎた好意が激昂に変わる、
感情のジェットコースターが怖い
(「ルルちゃん」)
――2編目の「ルルちゃん」は、派遣社員の“わたし”が10年前から大事にしている人形をめぐる物語です。マンガを貸すため家に招いたベトナム人の友達・レティさんに「あれはあなたの人形か」と聞かれ、「誰のものでもない」と答えるところから始まります。
山本 今村さんの作品でよく描かれる「お節介と好意の狭間」を描いた作品です。“わたし”の語りによって、ルルちゃんはもともと安田さんという図書館で知り合った40歳前後の女性のものだとわかってくるんですが、この安田さんの、感情のジェットコースターがとにかく怖い。
――子供という存在そのものに対する愛情が強いのだけど、強すぎて、「あの子、かわいそう」と感じると見知らぬお母さんにも突撃する激しさをもっている。
山本 安田さんは、あまりいい家庭環境とはいえない“わたし”にも最初は同情的なんだけど、意見があわないといきなり豹変して激昂したり。ただ、そのすべてをかなぐり捨てる衝動は確かに怖いんだけど、優しさでもあるんですよね。そのあやうさは、僕らも当たり前に備えているもので、竹田さんの言った表裏一体の残酷性が、ここにも描かれていると思いました。ただ、「ルルちゃん」のラストのほうが、ちょっとあたたかい。
榊原大祐(KADOKAWA書籍編集担当) 実はこの作品、単行本化に際してラスト1行がつけたされているんですよ。
内田 あれがあるのとないのとでは、全然印象が違いますよね。あの一文があるからこそ、この作品には救いが滲んでいる。
山本 レティの存在もこの作品をあたたかくしていますよね。片言の日本語で語りかける彼女は、“わたし”にあたたかい眼差しを注いでいて、どこか聖母のような印象を抱きました。
榊原 でも彼女、 “わたし”から借りたマンガは返さないんじゃないかと思います。
山本 たしかに(笑)。人が慌てる姿を見て喜ぶのが悪い癖、とありますし、そこにレティの残酷さがありますよね。人の美しい面だけを描かず、表裏から目をそらさせないのが今村さんの容赦なさであり、魅力なのかもしれません。
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手描きPOPクリエーター・でんすけのかいぬしさん
神様を曇りなく信じぬくことで、
日常の絶望が少し希望へと変わる
(「ひょうたんの精」)
――続く「ひょうたんの精」は、チアリーディング部マネージャーの“わたし”が語る、元チアリーダー・なるみ先輩の物語です。太りすぎて退部になったなるみ先輩が、いかに誰よりも美しく高く飛んだのかを後輩マネージャーに説くのですが……。
でんすけのかいぬし 今村さんの作品って「これもしかして妖怪かな?」って思わされる存在がときどき登場するんですが、ダイレクトに「神様」と名の付くものが登場したのって、この作品が初めてなんじゃないかと思います。もともとなるみ先輩は、椅子を潰すほど太っていたのだけど、ひょうたんのキーホルダーを覗くと見える七福神がお腹に宿ってしまい、以来ぐんぐんと痩せてきれいになっていった……という、設定自体がかなりぶっ飛んでいます。
田村 正当な神様じゃない感じがしますよね。何か俗なものにとりつかれていただけなのではないか、と。でも『星の子』に描かれていた、見えない神様を信仰する怖さとちがって、この作品はどこかユーモラスです。
竹田 “わたし”となるみ先輩の会話だけで世界観が成立しているのも面白いですよね。奇怪このうえない現象を二人は大真面目に話し合って、信じているわけじゃないですか。ただ、他人同士の会話って、傍から聞いているとたいてい奇妙に聞こえるもので。現実ってけっこう、閉ざされた関係性のなかだけで成立していることが多い。僕たちがふだん見ている、信じている世界も実はとんでもなく奇妙なものなのかもしれない、と思わされました。
内田 今村さんの小説を読んでいると、だんだん異界に巻き込まれていくような不可思議さを味わうんですよね。ひょうたんの中を、自分も覗いてみたくなる。反面、なるみ先輩は「吸い込まれたくない」と強く願うじゃないですか。太っていた頃の絶望を含め、ともすると暗い物語になりがちなこの作品がどこか明るいのは、彼女が、七福神に抵抗しながら上へ上へと飛び続けているからだと思います。
田村 異界の物語であると同時に、青春の儚さも描いていますよね。人が美しくある時期は一瞬で、すぐに通り過ぎてしまうのだけど、その輝きは“わたし”みたいな後輩に引き継がれていく。いつかまた誰かがひょうたんの精を飲んで、めちゃくちゃ高く飛ぶようになるかもしれない、と思ったりしました。
でんすけのかいぬし この七福神みたいなものって、日常にけっこう潜んでいるんじゃないかと思うんですよ。実は私、書店員だったころ、出勤途中にふしぎな経験をしたことがあって。辛いことが続いていた時期に“良いことをして自分の機嫌をとるため”だけにバスで杖をついたおばあさんに席を譲ったんですが(笑)、私はバスを降りて階段を一段とばしであがり、駅のホームのいちばん後ろに立ってふと振り返ったら、そのおばあさんがいたんですよ。息も切らさずに。びっくりしていたら、「さっきはありがとう。私がいま習い事でつくっているブローチあげるわ、どれがいい?」って。ちょっと怖かったけど、好きな緑色のをもらって。……いま、帽子につけているやつなんですけど。
一同 えー! すごい!
でんすけのかいぬし そのあと、私の仕掛けた本がすごく売れたり、お客さんがおみやげをくれたり、ちょっとしたいいことがやけに続いたんですよね。それを休憩時間に友達に言ったら「神様だったんじゃない?」って。ああ、そっかあ、って妙に納得してしまいました。そういう神様って、なるみ先輩や“わたし”のように、存在を曇りなく信じる力で成り立っている気がするんです。“わたし”と後輩マネージャーだと、なるみ先輩に対するイメージが随分違いますよね。今ふたたび、どれだけデブと罵られようと、神様の力を一度でも得たなるみ先輩はきっと、最初にデブだったころの彼女とは違う。そんななるみ先輩が愛しくてたまらなくなる作品でした。
>>後編へつづく
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