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レビュー

「あると思えば、ある」希望から本当に「ある」と信じられる希望へ 安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』

物語は。

これから“来る”のはこんな作品。
物語を愛するすべての読者へ
ブレイク必至の要チェック作をご紹介する、
熱烈応援レビュー!

『ラブカは静かに弓を持つ』安壇美緒(集英社)



 まさか現代の日本を舞台に、こんなふうにスパイものを成立させることができるとは。潜入調査先は、マフィアでも大企業でもない。小説すばる新人賞出身・安壇美緒が第三作『ラブカは静かに弓を持つ』で選んだ舞台は、音楽教室だ。四〇〇万作品以上の音楽著作権を管理する「全日本音楽著作権連盟」、通称・全著連の職員である二五歳の橘樹は、異動先の新しい上司から地下の資料室に呼び出される。全著連は、大手の音楽教室から著作権使用料の徴収を始める予定だった。が、音楽教室を経営する世界最大の楽器メーカー・ミカサらは、レッスンに著作権使用料の支払い義務はないと訴えを起こす構えだという。「橘君。君にミカサ音楽教室への潜入調査をお願いしたい」──。
 元となる題材は、二〇一七年に裁判が始まり、審理中の二〇一九年に著作権管理団体の職員による音楽教室への潜入調査が明るみとなった実在の事件だ。世間では著作権管理団体への風当たりが強く、「炎上事件」として記憶されているだろう。そうした背景や事実関係も取り入れつつ、作家がフォーカスしたのはスパイ任務を遂行した職員の心情だ。
 実は、主人公の樹は幼少期から八年にわたってチェロを習っていたものの、一三歳の時に遭遇したある出来事のせいで楽器に触れることができずにいた。過去のトラウマから来る深海の悪夢──タイトルの「ラブカ」は深海魚の名だ──は、今なお不眠を引き起こし、他者との交歓から樹を遠ざけている。そんな人間が素性を偽って音楽教室に潜入し、マンツーマンでチェロの指導を受けることになる。少し年上の講師・浅葉桜太郎は明るく人当たりが良く、実力も折り紙付きだ。また、樹は浅葉に誘われ、他の生徒たちとの交流会にも顔を出すようになる。世田谷と川崎、二子新地と二子玉川を繫ぐ大きな橋を飲み会帰りにみんなでぶらぶら歩くシーンは、本作屈指の幸福感を放つ。
 序盤はとことんスリラーだ。樹の内側を占めるのは、何らかのミスがきっかけで己の素性とスパイ行為がバレるかもしれない恐怖なのだ。しかし、師への尊敬と音楽で繫がる仲間を得たことから、彼らを騙しているという罪悪感が湧き立ち始める。スパイものの肝である「板挟み」のドラマが、恐るべき精緻さで組み立てられたプロットによって膨らみを増していく。スパイものと聞くと非日常のムードが漂うが、「本当の気持ちを飲み込んで生きる状況」と言い換えれば、誰しも心当たりがあるのではないか? では、もう一つの肝である「裏切り」はどのように表現されているのか。
 本作の醍醐味は、スパイものの「終わり」から始まる、超ロングスパートにある。そこにはミステリーのサプライズがあり、この設定だから生み出すことができた人間性の無数の発見があり、希望がある。振り返ってみれば著者は第三〇回小説すばる新人賞受賞のデビュー作『天龍院亜希子の日記』で、人材派遣会社に勤める主人公の物語の中で、〈呆れた希望〉という一語を掲げた。それは「あると思えば、ある」というタイプの希望であり、王道の青春ものとなった第二作『金木犀とメテオラ』で描かれていたのも同種のものだった。しかし本作では、希望の質が大きく変わっている。その変質は、デビュー作から書き継いできたモチーフ「分断された二者の心の架橋」が、どのように「架橋」されたかを見ることで判断することができる。この世界には、本当に、希望は「ある」。文学的な濃度はそのまま、エンタメ回路を完全解放することでここへと辿り着いた。大傑作だ。

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