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レビュー

「侍は封建時代の奴隷である」武士が凋落しつつある天保の世。なお貫いた不屈の忠義!『己惚れの記』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:縄田 一男 / 文芸評論家)

 ここ数年のなかけいの活躍には、正にどうもくせざるを得ない。

 一九三〇年のロンドン海軍軍縮会議を軸に、内憂外患の日本を支えるべく、一歩も引かぬ不屈の外交官を描いた『ロンドン狂瀾』(二〇一六年、光文社)をはじめとして、戦後日本国憲法成立秘史を活写した『ゴー・ホーム・クイックリー』(二〇一八年、文藝春秋)を経て、昨二〇一九年には、ついに、この現代史路線の最高傑作『昭和天皇の声』(文藝春秋)を刊行した。

 昭和の、日本人にとって天皇とは何かというテーマに挑んだこの連作短編集に登場するのは、軍務局長・ながてつざんを刺殺した〝感激居士〟ことあいざわさぶろう、二・二六事件の際、辛くも生き永らえたおかけいすけ総理を救うべく動いた面々、すずかんろうえてとどめを刺さなかったあんどうてるぞう大尉等々。

 作者は、天皇が自ら政治的決定を下したのは三度と記しているが、題名が〝の声〟であるのもミソで、側近以外の兵は、その〝声〟もしくはその〝声〟とおぼしきものを信じて行動するしかない。作者はそこから生じる大義とのかいを実に巧みに活写している。

 近年、現代史へ取組む、歴史・時代作家は増えているが、中路啓太と同じ世代で〝天皇〟をテーマとしたのはこれがはじめて。中路らの世代は、戦前の皇国史観、あるいは、戦中派、学生運動の世代──それらいずれの史観にも縛られることなく、〝天皇〟というテーマに迫ることができる。しかしながら、逆説的にいえば、その自由さが、かえって作品を産み出す際のむずかしさにつながってはいまいか。

 が、作者は敢えてそれに挑み、一つの収穫を残した。これは高く評価されてしかるべきだろう。

 さて、前置きが長くなったが、本書『己惚れの記』は、はじめ、『己惚れの砦』の題名で、二〇〇九年八月、講談社から書き下ろし刊行され、文庫化に際し、現在の題名に改められた。



 扱われているのは、老中首座・みずただくにてんぽうの改革である。私たちは既に予備知識として、内容にあるように、この改革が、「あげれい」と「いんぬまの掘割普請」の失敗によりとんしたことを知っている。従って主人公であるくらんどがどういても、この歴史的事実に改変が成されないことも知っている。

 では作者は、どのような秘策をもってこの一巻を進めるのか? そして、題名にある〝己惚れ〟とは何を指すのか?

 作品は第一級の歴史・時代小説なので、私は作品をして作品を語らしめるしかすべがない。従ってこの解説に何らかの効用があるとすれば、それは本書を読了した人にのみある。物語の内容にも触れるので、解説から先に読んでいる方がいたら、是非とも小説の方に移っていただきたい。

 水野忠邦の覚えい主人公・物集女蔵人は、主君に「これは幕府が滅ぶか否か、あいや、武士が滅ぶか否かの一戦……向後とも、余を助けてほしい」と頭を下げられるや、盟友・おんろくもんと共にこの改革にけてみようと決意する。

 が、そんな蔵人は、冒頭、何故かにいじまに流罪となり、さらし者にされている。これも忠邦のため──忠邦のの息子・水野しゆの無残極まりない商人殺しの身代りとなったためである。

 その蔵人のもとへ、主馬の画策により、恩田六左衛門が切腹仰せつけられた旨、知らせが届く。居ても立ってもいられない蔵人を島抜けに誘ったのは、博徒・いかずちりのじゆうろう(与十郎のもう一つの顔を知って読者はびっくりするだろう)。

 何とか島抜けには成功するものの、忠邦をどうやってたすければ良いのか。蔵人のおうのうは深い。そして与十郎の持つ地図の秘密とは何か。さらに迫り来る主馬のきようじん──。

 物語は、さまざまな起伏に富み、一見すると、伝奇小説的な側面も多いが、実は、それらは、この作品の持つ政治という魔物の、のような実態を巧みに浮かび上がらせるための手段であることが了解されよう。

 そして題名にある〝己惚れ〟の意味するものだが──。

 それが明らかになるのは、本書中盤のクライマックスである「第五章 でいねいの死闘」においてである。

 蔵人を狙う刺客・まさ帯刀たてわきが蔵人に向って

「水野越前(えちぜん)のためと申すか……だが越前は、おぬしの誅殺(ちゅうさつ)を命じておるというぞ。もののふの道とは恋慕の情のごときものと申すが、これまた性質(たち)の悪い岡惚(おかぼ)れよ」

というや、蔵人は

「俺は見境をなくすほどに己惚れているのだ」

 と正木のもとを走り去った後、つぶやかざるを得ない。そして作者は次のように続ける。

「忠義の道も武士の一分も、しょせんは己惚れにすぎないのではないか。一見もっともらしい道理も、つきつめてゆけば霧のごとくたよりなく、空疎な本性をあらわにする。(中略)だが、下らない意地をなくせば、武士の生きる場など残るはずもない。蔵人自身も、己惚れないでは寸刻たりとも生きてはいられない気がした」

 この第五章は、はじめて〝己惚れ〟ということばが主人公の口から出ることや、印旛沼での敵味方入り乱れての鉄砲水の中での死闘と、本書の中で最も読みごたえのある箇所の一つであろう。

 そして、作品が半ばを過ぎても蔵人の行手を邪魔する新手の敵役がまだ登場する──「水野忠邦やとりただ耀てるの政治的な手先となっているにすぎず、町方同心の務め」を二の次にした同心・むらおりがそれだ。

 また、蔵人の妻子も苦しい立場に置かれていた。息子・とよろうの「母上は、父上をかばおうとなさるのですか。父上は愚か者です。それぞれの忠など、ただの己惚れに過ぎませぬ」という言葉にきくは「己惚れられぬ者に、まことの忠など見つけられるものですか」といい返す。

 では、この作品においてたびたび語られる忠=己惚れとは何なのか。

 この後も己の忠を貫いた中奥小姓・なかやまごのかみが上知令の中止を上様に言上して切腹して果てる。そして──もう解説の方を先に読んでいる方はいませんね──菊枝も主馬の兇刃にたおれる。主馬に「本当にともに歩む人などいないということです。心が濁っている人は、誰からも慕われぬのです」「この身も心も、あなたの思うようにはなりませぬ」とすがすがしい微笑をたたえていただろう。

 そして蔵人もいう。死地に向って

「行かねばならぬのでござる。ひたすらに……ただ、ひたすらに」

 と。

 私はここで涙を止めることができなかった。還暦を過ぎるとるいせんが決壊するのがはやいのだ。

 ではいま一度問う。作者は、忠=己惚れとは何だといっているのだろうか。

 結論からいえば、それは、侍は封建時代の奴隷である、ということに尽きる。この一巻の蔵人のように何があろうと侍は主君のために尽くさねばならない。たとえ、その先に死が待っていようとも。そして、そのとき、笑って死ぬことは、己に惚れていなければかなわぬことなのである。

 本書冒頭の恩田六左衛門から中山肥後守、そして菊枝から物集女蔵人まで──自殺、他殺は問わぬが、ここに描かれているのは壮烈なる己惚れ=忠死の葬列ではないか。

 このテーマだけでも、充分、本書は優れた作品として成立する。

 しかし、作者はこの天保の改革の失敗を見るもう一つの視点を作中に備えているのである。それが雷斬りの与十郎である。

 蔵人が主役ながらも武士のぜいじやくさを体現化したものであるとするならば、与十郎は、どんな時代でも生き抜いていく、庶民のバイタリティの象徴である。

 彼はいう──

 いわく「死んだ者の無念を晴らすために、主馬の畜生を殺してやりてえっていうだけなら、俺にもわかるさ。だが、殿さまなんぞの心を変えようとすることに、何の意味があるというんだ」。

 いわく「武士の意地か。ずっと言っているだろう、武士の世など終わる。水野越前守が倒れれば、あとは幕府は崩れてゆくばかりだ」。等々。

 そしてすべてが終わった後で、強権と蔵人の忠義のあいだで揺れ動いた木村伊織とともに、水野忠邦の座敷に蔵人の荷物を届けた後で、木村から「何故」と問われると

「魔が差したと思ってくれ」

 と、つっけんどんにいい返す。

 そして敢えて記さぬが、与十郎の最後の台詞せりふが良いではないか。

 物語には、必ず影の主人公がいる。

 この一巻の場合、それは与十郎であることは間違いない。

 何というさわやかなエンディングであることか。蔵人と与十郎の立場は、まるでおさらぎろうの名作『赤穂浪士』におけるほつはや蜘蛛くもじんじゆうろうのそれではないか。

 本書を紡いだ作者は、もっと己惚れて良い。

中路啓太『己惚れの記』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000288/


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