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特集

岸信介から昭和史を見る【新刊インタビュー】中路啓太『ミネルヴァとマルス 昭和の妖怪・岸信介』

撮影:ホンゴ ユウジ  取材・文:タカザワ ケンジ 

「本の旅人」で約3年に亘って連載していた歴史大作が、ついに満を持しての刊行です。
昭和という時代を体現した、岸信介の波瀾万丈の人生を余すところなく描いた最新作について伺いました。

岸信介から昭和史を見る

── : 戦後を代表する宰相の一人であり、現在の安倍晋三首相の祖父でもある岸信介を描いた大作です。なぜ、岸信介を主人公にした小説を書こうと思われたのでしょう。

中路: 岸は戦前から商工省の官僚として権力の中枢にい て、商工大臣まで務めました。戦時中も大臣として戦争を指導する立場にあり、A級戦犯容疑で勾留されましたが、放免されます。戦後は政界に復帰し、政治家として保守合同など、日本の政治を決定づける瞬間に居合わせます。やがては総理大臣に上り詰め、日米安保改定を成し遂げています。総理を辞めた後も、自民党の重鎮としてずっと権力闘争の中心にいました。日本の近代史の中で岸は最も長く権力の中心にいた人物の一人と言えるでしょう。岸を通して見ることで、昭和史の光と影がくっきりと浮かび上がってきます。今回やりたかったのは、岸の生涯を通して昭和を考えてみようということでした。

── : 岸と言えば、副題にある「昭和の妖怪」というキャッチフレーズが有名です。得体の知れない権力者というイメージで、恐れられつつも、あまり好感は持たれていませんよね。

中路: 岸は特異な政治家なんですよ。多くの政治家は、途中でつまずくと歴史の表舞台から去っていくんですが、岸は復活して、ずっと生き延び続けた。そのしぶとさもさることながら、問題解決能力が高かった。たとえば、いま日韓関係がこじれていますが、岸の時代には、岸が韓国の軍事政権とつながっていたから、揉めごとがあっても裏で韓国側と話をすればまとまった。裏で解決してしまうあたりが得体が知れない。そんなところが「妖怪」と呼ばれたゆえんですね。

── : お金のことも書かれていますね。権力の源泉として資金が必要で、岸は少々怪しい人物たちともつきあいがあった。

中路: 周囲の複数の人物が、岸はやたらとお金を使っていたという証言をしているんです。岸自身も断片的にはお金について語っている。突っ込むと語らなくなるんですが……。どんなお金をどうやって集めていたかは、公式には明らかになっていませんが、「こういう勢力とつながっていたはずだ」などと書いているルポはいくつもありますね。

── : 史料はかなり集めたんでしょうか。

中路: ええ。自宅が古書店のようになってます(笑)。

── : 読んでいてそう感じました(笑)。膨大な史料をもとに、史実にのっとって書かれていると思うのですが、小説は論文やノンフィクションとは違いますよね。その違いについてはどうお考えですか。

中路: 論文などに比べれば、小説のほうがもっと下品な仕事をするってことですよね。資料からはみ出た部分まで想像して書ける。研究者だったら書けない不確かなことでも、こうだったんじゃないか、と書けますから。

都合のいいストーリーだけを信じるのは危うい

── : 妖怪という世間のイメージとは裏腹に、『ミネルヴァとマルス』の岸は、経済に明るい優秀な少壮官僚であり、なおかつ人当たりがよく、面倒見のいい人物として登場します。『ミネルヴァとマルス』というタイトルも、マルス(武の神)ではなくミネルヴァ(文の神)が国を先導しなければならないという、武官より文官の力量を重視する岸の信念の象徴です。中路さんの中に、一般的にこう思われているけど、本当は違うんじゃないか? ということを読者に伝えたいという思いがあるのではないでしょうか。

中路: それはありますね。たとえば太平洋戦争はなぜ起こったかという問題がありますよね。一般的に小説や映画では、軍人の一部が独裁制を敷いて言論を封殺し、戦争の道に踏み切った、と描かれることが多いですが、必ずしもそうは言い切れないという歴史研究がたくさんあるんです。最近、『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』(筒井清忠著、中公新書)という本が話題になりましたが、とてもいい本でした。戦争の原因について、日本はポピュリズムで失敗したと指摘しているんです。マスメディアが煽って、国民が現状を知らないまま興奮して戦争になったという面も考えるべきじゃないかと。僕もその可能性が高いと思いますね。

── : 『ミネルヴァとマルス』の中でも、首相の東條英樹が日米開戦をめぐって岸に冗談交じりでこぼす場面がありますね。「軍の若い連中には『変節漢』呼ばわりされ、新聞にも、『無敵の皇軍をアメリカは見縊みくびっている。いまこそ、連中に鉄槌を食らわせてやるべきだ』といった勇ましい社説でせっつかれる」と。一般の国民からも山のように手紙が来て「それでも軍人か、男か」と書かれていると。

中路: 「軍国主義者が戦争を引き起こした。一般国民は被害者だった」というストーリーはみんなにとって都合がよかったと思うんです。マスメディアは大本営発表で言論の自由を封殺されていたから仕方がなかったんだと言い訳できる。議会も戦争の予算を承認しているんだけど、軍部の力が強かったから仕方がなかったと言える。では、保守政治家たちはどうだったか。ドイツが負けて戦犯が捕まっているという報を聞いた重臣たちは、戦争の終結についての話し合いにおいて、「一部の軍人だけが悪かったということで収められないか」と相談しているんですよ。皇室を守るためという大義名分があったんですが、たぶん自分も助かりたいという気持ちがあったと思います。そして、多くの国民にとっても自分たちを被害者にしたほうが好都合だった。でも、それでは次の国難を避けられないと思います。自分たちに都合のいいストーリーを信じているだけでは。

── : 「国民は悪くない。軍国主義者が悪いんだ」というストーリーに当てはまらない存在が岸だとも言えますね。戦争責任を負うはずだったA級戦犯容疑で一度は逮捕されていますから「悪者」のはずなのに、戦後政治の中心に戻ってきて権力者になった。でも、プロの政治家、官僚の間では評価が高かった。このギャップの大きさも岸という人物を正体不明の妖怪にしているような気がします。

中路: 岸が清廉潔白な人でないことは間違いないですが、やった仕事で評価すべきことはあるわけです。たとえば安保改定。吉田茂首相が戦後すぐに結んだ旧安保条約のままでよかったなんてことは言えないと思うんですよ。条約の内容を一切変えることができないというものだったんですから。たとえば、いま、日米地位協定について「ほかの国は改定しているのに日本は改定していない。けしからん」という論調があるんですけど、なぜそうなったのかと言えば、岸が安保改定したときに国内が大騒動になったから。その後の政権が触りたくないと、ずっと先送りしてきた結果なんです。

── : 安保改定反対運動がトラウマになったんですね。ですが、『ミネルヴァとマルス』を読んでいると、なぜ国民があんなに安保改定に反対していたのかがわからなくなります。

中路: 岸はもともとイメージが悪いうえに、国民感情にかまわずに強行採決をしたりしたということはあったと思いますね。あとは時代背景として、革命幻想が国を覆っていたということもあると思います。ただ、当時反対していた人たちも、安保改定の内容はよくわからなかった、と証言していますよね。たとえば、西部にしべすすむさん、田原たはら総一朗そういちろうさんはあのとき安保改定に大反対していたけれど、そのあとに新旧の安保条約を読み返してみたら、新しいほうがよかったと認めています。

歴史になった昭和時代

── : 同時代には見えなかったことが、時間が経って見えてくることがある。岸が生きた時代が歴史になったということなのかなとも思いました。

中路: 司馬遼太郎さんが『坂の上の雲』を書いたのが、ポーツマス条約が締結されてから六十数年後。いま戦後七十年以上経ってますから、十分歴史として語れると思います。それに、東アジアの情勢が急速に変わってきていますよね。いまここで、もう一回、昭和の歴史を振り返ってみる必要があると思います。

── : それも、いままで人口に膾炙かいしゃしてきたストーリーではなく、ですよね。しかも中路さんの場合、すでにあるストーリーに別のストーリーをぶつけるのではなく、安易なストーリーに落とし込まないように配慮されているとも感じます。

中路: どちらかに偏ったストーリーに当てはめたほうが書くうえでは楽なんですよ。でもそうすると実際の状況とはかけ離れていく。さっきの軍部とマスメディア、国民との関係で言えば、軍部を悪者にして、マスメディアと国民をかわいそうな被害者にすれば納得しやすい。ですがそれは、本来の歴史と違ってくると思うんです。かといって、中立的に書こうとすると、小説として成立しなくなるところがある。そのバランスが難しい。悩むところです。

── : 中路さんは新井白石の若き日の姿を描いた『火ノの剣』でデビューされてから、江戸時代や戦国時代を主に題材にされていました。しかし近年は一九三〇年のロンドン海軍軍縮会議を描いた『ロンドン狂瀾』、戦後まもない頃の日本国憲法制定を題材にした『ゴー・ホーム・クイックリー』と、近代史に材をとった歴史小説に取り組まれています。それはなぜでしょうか。

中路: 近現代史はいまと直結して面白いからということが一つ。もう一つは近現代史について冷静に考えるきっかけになればと思うからです。近代以降、民主主義が一般的な政治体制になり、現在ではそれ以外は考えられないのが実情です。しかし、チャーチルが指摘したように、民主主義はこれまで試されてきた政治体制よりはまし、という程度で欠陥だらけなんですよね。主権者である国民が賢くなければどこへ行ってしまうかわからない不安定さがあって、ポピュリズムに走って議論ができなくなった国は滅びるしかない。そうならないためには、正しい情報を入手して、きちんと冷静に考えましょうよ、と私は思うんです。『ミネルヴァとマルス』はそんなことを考えながら書いた小説です。


書誌情報はこちら
>>『ミネルヴァとマルス 上 昭和の妖怪・岸信介』(上巻)
>>『ミネルヴァとマルス 下 昭和の妖怪・岸信介』(下巻)


中路 啓太

1968年東京都生まれ。2006年『火ノ児の剣』でデビュー。15年『もののふ莫迦』で「本屋が選ぶ時代小説大賞」を受賞し、16年には『ロンドン狂瀾』が山田風太郎賞の候補作となる。

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