出口治明さん(立命館アジア太平洋大学<APU>学長)が「教える」「教育」の本質について考察した最新刊『「教える」ということ』。本の中には、各界の専門家との対談が収録されています。今回は早稲田大学准教授で教育社会学をご専門にされる松岡亮二先生との対談を試し読みしてみましょう。
著書『教育格差(ちくま新書)』(「新書大賞2020」で1500点以上の新書の中から3位に選ばれた)で、膨大なデータを用いて「日本は、〝生まれ〞によって最終学歴が異なる『教育格差』社会」であることを提示した松岡亮二先生。事実に基づいて教育を考えていくことの重要性について、議論を通して考えます。【第1回目】
対談第1弾:【生物心理学者・岡ノ谷一夫先生(京大学教授)】オンライン授業を上手に行うには?
日本の学校教育には、厳然たる格差が存在する
出口:現代の社会では、子どもの教育レベルと、その子どもの生涯所得はほぼ比例すると考えられています。たとえ義務教育が無償であったとしても、付随して子どもを育てるためにはさまざまな費用がかかります。
日本は、アメリカや中国に比べれば、相対的に格差の小さい社会であるといわれていますが、とはいえ、日本の子どもの貧困率は、OECD加盟国の中では最悪の水準です。子どもの貧困率は、1980年代から上昇傾向にあって、2015年には、13・9%。18歳未満の子どもの7人に1人が貧困状態にあるとされています(2015年が最新調査)。
松岡先生はご著書(『教育格差(ちくま新書)』)の中で、「日本は生まれ育った家庭と地域によって、何者にでもなれる可能性が制限されている緩やかな身分社会である」と指摘されています。
公立小学校は平等化装置として機能することが期待されていますが、「生まれ」による格差をゼロにするほどの力はない。むしろ学年が上がるにつれ学習行動などの格差は拡大する傾向にあります。
中学校になると、都市部では高学力層が私立に集中するため、公立校の学力は小学校より均質化します。それも、平均が低下した均質化です。
日本の高校は特異で、偏差値序列によって高校間に大きな学力格差があります。
日本は公平性が高いわけでも低いわけでもない、とても凡庸な教育格差社会と指摘されていますが、格差があるという前提を理解した上で、学校教育はどうあるべきなのか。松岡先生のお考えをお聞かせいただければと思います。
松岡:出身家庭の社会経済的地位(経済的・文化的・社会的な地位を統合した概念)によって、子どもの学力や学習習慣には一定の格差があります。
ですから、教師が子どもたちに対して、「なんで集中できないの?」とか「なんで宿題やってこないの?」と脊髄反射的に「正しさ」を振りかざすことは望ましくありません。
怒られた子どもたちは、「僕は出身家庭の社会経済的地位が低いから、学校が要求する学力や習慣を身体化できていないんだ」とは思わないですよね。おそらく、「ああ、やっぱり自分はできないんだ」と、自分の個人的な資質の問題として捉えてしまいます。
出口:「自分はデキの悪い子どもなんだ」と勝手に思い込んで、自己肯定感を自ら潰してしまうのですね。
松岡:そうなんです。教えるときに最初にしなければいけないことは、教師が教壇に立って一方的にしゃべることではなく、子どもが「誰」なのか、社会経済的背景を理解することだと思います。子どもがどのような現実を潜り抜けて今日まで生きてきたのかを把握せずに授業しても、学習目標を達成することは難しいはずです。同じ内容を同じように話しても、聞き手によって理解が異なりますから。
映画『フリーダム・ライターズ』に見る教育の本質
松岡:『フリーダム・ライターズ』という実話にもとづいたアメリカ映画があります。
ロサンゼルス近郊の高校へ赴任した新米教師エリン・グルーウェルが、社会経済的に恵まれていない生徒が集められたクラスを受け持つのですが、エリンは新しいノートを配って、「過去、現在、未来、何についてでもいいから書いて」と提案するんです。
はじめは躊躇していた生徒たちも、どんな風に日々を過ごしているのか書き綴るようになります。エリンは学校の勉強に興味を持たない社会経済的背景を、生徒たちの過去や日常の描写を通して知ることになります。
この映画を観ると、貧困を土台とする不安定な家庭と近隣の環境によって学校教育が成立しないということがよくわかります。と同時に、教師が子どもたちの置かれている環境を理解し、歩み寄ることの重要性もよくわかります。
学校の教師になる人は、エリンがそうであるように、社会経済的に比較的恵まれた家庭出身者が多い実態があります。また、そのような家庭環境を背景に、子どものときは勉強ができ、学校的空間に少なくとも強烈な違和感を覚えないからこそ教職を選ぶわけです。教師を目指す人たちが自身の「生まれ」に自覚的になるような授業が教職課程にあればよいのですが、日本の大半の大学では体系的に教えられていません。
大学進学層のように「勉強すれば社会的に成功できる」と信じている子どもばかりではないのです。出身家庭・出身地域といった「生まれ」が不利な状況にある子どもたちは、「教育を通した社会的成功」というイデオロギーを信じることができない傾向にあるのです。比較的恵まれた「生まれ」を土台に勉強して大卒になったという成功体験を持った教師が、いかに「学ぶことは大切だよ」であるとか「さあ、一所懸命勉強して、大学に行こう」などと言っても、異なる環境に生まれ育った子どもたちにはなかなか響かないと思います。
出口:僕の子どものころは、田舎に住んでいたので教育の多様性がなかったのです。たとえば灘高とか、開成高のような進学校はなかったので、「みんなが公立校に行く」のが当たり前でした。しかも公立の普通科高校はたったひとつ。だからこそ、「勉強すれば成功できる」という共同幻想が生まれやすかったという側面がありますよね。
松岡:はい、それと経済成長ですね。努力すれば年々もっと豊かになれるという実感は、「教育達成による社会的成功」という物語を支えたのだと思います。
出口:ただ僕は、高校生のころからダーウィンの進化論に心酔していたので、「運と適応がすべてであって、賢い人や、強いものが生き残るんじゃない。勉強したら成功するなんて嘘に決まっているじゃん」と思っていました(笑)。
松岡:高校生のときに進化論を読んでいる時点で、出口学長は特殊例です(笑)。
(つづく)
▼出口治明『「教える」ということ 日本を救う、[尖った人]を増やすには』詳細はこちら
https://www.kadokawa.co.jp/product/321906000004/(KADOKAWAオフィシャルページ)