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特集

ここでしか読めない『ホテルメドゥーサ』スピンオフ・ストーリー! 「人生のひと時、体の芯に小さな火が灯るようなもてなしをしよう」 ほっこり温かい気持ちになれる特別な物語。

2020年12月に刊行した角川文庫、尾崎英子さんの『ホテルメドゥーサ』。カバーに描かれているのは、赤茶色の壁に白い窓枠、三角屋根というフィンランドらしい素朴な風情のこぢんまりした建物です。森の中に佇むこのホテルに集まったのは「人生をやり直したい」と心から思っている4人の日本人の男女たち――。実はこのホテルにはある「噂」があり、4人はそれを目当てにやってきたのです。


書影

尾崎英子『ホテルメドゥーサ』


編集部に続々と届いた読者の皆様からの感想には、「自分だったらどうするか、考えながら読んだ」「フィンランドの森にはこんなホテルがあるような気がする」と、物語と現実を重ねて読んでくださった感想がたくさん。
こんなホテルに行ってみたいな、ホテルのことをもっと知りたい、と思う方も多いのではないでしょうか。皆様のお気持ちにお応えして、尾崎英子さんが特別にスピンオフを紡いでくださいました。


『ミンナのもてなし』

 初老の女性がこちらを見て小さく片手を上げ、そばを通り過ぎていく。つば広のハットから垂らした三つ編みはグレーだが、トレッキングポールをついて進んでいく足取りは軽く、横たわる丸太もたやすく跨いでいく。
「モイ」
 ミンナは、焚火に木の枝を足しながら返した。
 お互いに笑顔を振りまくわけでもないけれど、森ですれ違った一瞬、体の芯に小さな火が灯る。
 その女性はしゃがんで、腰につけている小さな籠に摘んだ何かを入れている。軍手をしているから、棘のあるネトルだろうか。
 この国の人たちは手間のかかることが好きらしい。面倒であればあるほど、森に長くいられるからかもしれない。
 ここにやって来たのが、ちょうど一年前の夏。
 当初は何もかもが不思議で、なじむためにも、ミンナは目に留まるものすべてを観察することにした。
 人々は時に笑い合い、時に熱心に語らい、不機嫌そうに言い争っていたかと思ったら、次の瞬間にはおかしげに笑う。歌を唄いながら木々を駆け抜ける子供、紫と白の花が咲き乱れる野原で寝転がり抱き合う若い二人。桟橋に何時間もぼんやりとしている男、朝霧の中で一人泣いている女。
 夏の間には沈むことのなかった太陽は、風が冷たくなるにつれて海の向こう側へ早く消えるようになった。雪が降ると、あっという間に梢を真っ白にした。
 オーロラを初めてみた時、ミンナの目から涙が流れ出た。刻々と色を変える光の束が揺れるたびに、何か大きな者の気配が感じられたせいだろう。興味深い経験だ。
 季節が巡り、二度目の夏を迎えた今、何もかもが不思議だったここでの生活にもだいぶ慣れた自分がいる。こうして森に分け入り、拾った小枝で焚火を作り、ケトルでコーヒーを作っていることが何よりもの証拠だ。
 ケトルに水と挽いたコーヒーの粉を入れてしばらく煮出す。焚火から外すと粉が沈むまで待つのが大事。すぐにカップに注ぐと、粉だらけで飲めたものじゃない。
 待っている間に、ミンナはバスケットの中からフサスグリのムースを取り出す。
『ホテルメドゥーサ』のオーナーとしての、さまざまな業務の中で、ケーキ作りはミンナにとって、もっとも大事な仕事だった。ここにやって来る以前は、ケーキ作りなどしたこともなかったから、こんな自分に変えたのも、森の効用に違いない。
 まず、摘んできたフサスグリをたっぷりの水で茹でる。柔らかくなったフサスグリを裏ごししたところに、アカシヤの蜂蜜を混ぜる。このムースではゼラチンを使わないのがポイントだ。卵白を泡立てたメレンゲとホイップした生クリームを混ぜ合わせている。
 コーヒーの粉が底に沈んだ頃合いに、ミンナはケトルを手に取る。注ぐ時も焦らずに、そっとゆっくりと。
 カサカサと音が近づいてくる。振り向いてみると、背後に黒犬のメッツァと黒山羊のクッカがいた。彼らこそ、じつはこの森を誰よりも熟知している。この場所に呼び寄せられた、来るべき者だけを、彼らは導く。
 もちろん訪れた者たちは、二匹の黒い動物たちに出迎えられたとしか思わないのだろうが。
 風が吹いて、弱々しく燻っていた焚火の小さな枝がパチンと爆ぜた。何かを感じ取ったように、黒山羊のクッカが顔を上げる。黒犬のメッツァも様子をうかがうように歩いていく。
 白樺の木々の奥から、不慣れな様子でスーツケースを引いて歩いてくる姿が現れた。いつものように、何かしらの事情を抱えた者がここに引き寄せられてやって来たのだろう。
 さてと。
 ミンナは焚火を消して立ち上がり、客人を迎えるためにホテルへ向かう。
 笑顔を振りまくことはしない。ただ、人生のひと時、体の芯に小さな火が灯るようなもてなしをしよう。
 ようこそ、ホテルメドゥーサへ。


写真

写真/尾崎英子


『ホテルメドゥーサ』ってどんな本?


人生の岐路に立つ、すべての人へ贈る物語。
下北沢発→フィンランド経由。目的地は、あなた次第。

あらすじ

フィンランドの森に佇む素朴なホテルには、“異次元へのドア”があるという噂がある。ここで出会った日本人4人は、人生をやり直したいと切実に願っていた。殺人を犯して怯える男、居場所が見つからず悩む女、死んだ妻に会いたい男、子育てを終え自分と向き合う女……。ここではないどこかへ本当に行けるとしたら、どうする? 揺れ動く4人が出した答えとは? 人生は、ままならないけれど、愛おしい。大きな肯定感に包まれる物語。
https://www.kadokawa.co.jp/product/322002001026/


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