なぜ、高倉健は黙して逝ったのか。最も信頼を得た編集者が、高倉健ゆかりの人を訪ね歩き、見た「終」の美学とは。角川新書『高倉健の身終い』収録の「序に代えて」を抜粋・編集して掲載いたします。
二〇一七年十一月、高倉健(本名・小田剛一)さんの祥月命日を迎えようとしていた。
今になっても健さんの遺骨が埋葬されたという話を聞いていなかった私は、福岡県中間市にある小田家の先祖の墓を訪ねることにしていた。
そこには、父親、母親、兄の骨が埋葬されている。
墓参りの予定を、東京で服飾デザイナーとして働く健さんの甥、森健さんに報せた。その返事には、
「伯父のお寺に記念碑を建立する事になりました。お寺の入り口ですので是非見てください」
十一月二十一日、私は菩提寺の門前に立っていた。
門前から左手に、健さんの記念碑は建っていた。
高さは健さんの身の丈一八〇センチほどだろうか。立派な石碑だった。
住職に招かれ本堂に通された。
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「剛一さんが亡くなった時に、寺の方から戒名の話をしましたが、荼毘にも参列できず遺骨の行方も分からないと言う妹の敏子さんは、
『未だ、その時ではないと思います。時が来たら、戒名を付けて戴きます。
今は小田剛一の魂に掌を合わせるだけです』、そうきっぱり話されました。
ご家族の仏を想う気持ちに心打たれます。
あの石碑はご家族の方が相談していたもので、甥の健さんが石の購入からデザインまで全てをやられた。
石は茨城県筑波みらい市で採れた筑波石。その地は小田家と縁のあった土地で、旧小田城の跡地もあるそうです。小田家はそこの城主の末裔に当たるという話です。
表面には、剛一さんの好きな言葉『寒青』という二文字。後ろにある石段から眺めてもらいたいと、背面に牡丹の花が六輪。剛一さんのご家族六人の魂を刻んだものだと伺いました」
寺を辞す夕暮れの空に飛行機雲が長く伸びていた。住職が、
「こんなにはっきりした飛行機雲はそうは見られません」
まるで西方へ伸びゆく昇り龍のようだった。
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健さんから兄妹の話を聞かされたことがある。それは先方に病気の人が出たりした時が多かった。
唐突に、
「いい病院じゃなければ駄目だ。金は幾らでも出すから、一番進んだ方法で治療してもらえ」
耳に携帯電話を押し付け、窓際に立ちながら大声で話しているのだから、嫌でも私達の耳に届いてしまう。
兄妹が病気をした時の心配の仕方も半端ではなかった。電話の向こうの人を心配しているのか叱っているのか分からなかった。
だが、最後まで話を聞けば、傍に居てあげられないもどかしさから発する思いやりに他ならなかった。
健さんが亡くなる半年くらい前だろうか。四つ違いの実妹の敏子さんは江利チエミさんの夢を幾度か見たそうだ。
「虫の報せというのでしょうかね。ちょっと胸騒ぎを感じて上京しました。そして、チエミさんのお墓参り(世田谷区瀬田の法徳寺)をしたんです。そこからすぐの所に兄は住んでいます。忙しいと思いましてね。寄らずに帰ってきたんですよ。その時に無理にでも会っとればねえ」
魂は永遠という人がいる。
亡くなる一か月前に妹さんへ電話をしてきた健さんが、「仏は上から見ているからな」。「必ず見ている」と三回も繰り返し言ったという。
あの世から健さんは何を観、何を語っているのだろうか。
それが観えぬ聴こえぬことが哀しくもある。
今も尚、高倉健のファンや友は墓参りができずにいた。
親族の思いはいかばかりだったろうか。
あれほど周囲への気遣いを見せた健さんが、
なぜ、こういう結果を残してしまったのだろうか。
二〇一八年夏、私は健さんの養女、小田貴さんへ取材依頼の手紙を送った。十数年の間、健さんの食事や洗濯、掃除など身の回りの世話を全てして、その最期を看取った女性である。健さんは亡くなる一年半前に、自分の娘というカタチで入籍したと報道された。
二日後、着信音が響いた。小田貴さん本人だった。
「手紙を受け取りました。すぐ動かないと気が済まない性分なんです。だから高倉の手帳から谷さんの連絡先を調べて電話しました」
と彼女は詫びた。
その機敏な対応はまさに健さんの仕事スタイルと重なった。この女性が影のように付き添ってきた訳が、朧げに解り始めた。
今の境遇を聞けば、あまりの突然の死で前を向ききれないと言う。
それ以上は叶わなかった。
鍵のかかった引き出しのように、彼女は黙った。
私は出版社勤務を経て、フリーライター初っ端の仕事で健さんと出逢った。一九八四年から撮影現場を追い、ゆかりの人々を訪ね歩いた一期一会の機会は三十年余りに及んだ。
二〇一九年春で幕を閉じることになった平成。
昭和という時代を背負った俳優にとって、平成はどのような時代だったのか。
「高倉健」という人生の終い方を探し求めた一つの時代に、私は向き合ってみようと思った。
>>(1)健さんが洩らした亡き元妻への想い
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