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特集

【特別公開】谷充代『高倉健の身終い』(1)健さんが洩らした亡き元妻への想い

高倉健の前では監督以外〝禁酒禁煙〟が徹底されていた。それなのに健さんの「縁あった女性も、お酒が好きでしたから」という言葉に私はグラスにウイスキーを注いでいた――。寡黙な高倉健が元妻・江利チエミについて、一度だけ口にしたことがあった。谷充代『高倉健の身終い』の未収録エピソードを特別公開します。
>>第0回「昭和を背負った俳優の身終い」


 健さんとの出逢いは、映画『夜叉』(一九八五年・降旗康男監督)のロケ現場、福井県敦賀のとある港だった。時折、突き刺さるような横なぐりの雨が降っていた。
 ロケの取材者は我々(マガジンハウスの『平凡パンチ』の記者とカメラマン)の二人きりだった。当時、著者三十一歳。フリーランスになって初の〝大物〟取材とあって幾分緊張していたように記憶している。おまけに、映画会社の宣伝マンには、「取材者は何があっても高倉健に近づいてはいけない」と幾度も釘を刺されていた。
 だが、映画のロケ現場はそれぞれの仕事に追われているスタッフばかりで、私が何処へ行こうが制止する人はいなかった。キャメラから離れた場所から撮影現場の全景を眺めようといつしか港を見渡せる橋に立っていた。
 そこにはドカジャンを着た先客が二人いた。そのうちの一人が振り返り、ちょっと迷惑気な視線を向けてきた。後で知ったのだが、その人は映画のプロデューサーだった。
 もう一人の男はこちらに背を向けたままじっとして動かないでいる。
 よくよく見れば、健さんだった。間近で見た健さんは映画の中のその人だった。

 再び居場所を求めて流離う私は宣伝部の人から降旗康男監督を紹介された。監督はこれまでに高倉健映画を幾本も手掛けた生粋の「映画屋」である。助監督を先頭に先を急いでいた監督はすっと立ち止まり、帽子に手を当てて頭を下げた。
 監督らの行く手にドラム缶に火を炊いた暖房具〝ガンガン〟があった。そこにどてらを羽織ったビートたけしさんとちゃんちゃんこ姿のいしだあゆみさんがいて、時々、笑い声をあげシーン待ちの時間を過ごしていた。
 そこから橋を振り返れば、厳しい寒さの中に健さんの姿はまだ動かずにいた。
 日が暮れ始め、ガンガンに焚き木をくべるスタッフも機材の撤収に入っていく。
 我々は宣伝部に促され港からそう遠くない宿屋に戻っていった。
 撮影隊を泊める大きな宿屋は一軒だけだったのだろか。
 大広間にスタッフらの食事の用意がされていた。その一隅に、浴衣を着た監督が独り手酌で酒を呑んでいた。私達が居る間、健さんは姿を見せなかった。
 翌朝、撮影隊は現場に向かった。
 あとワンシーンで午前中の撮影が終ろうしていた頃、「うわぁ!」という声が飛び交った。
 突然の強風に高く組まれた足場がぐわーんと音を立てて傾き始めた。
 一瞬、「どうしたものか」と脚を踏みしめるスタッフら。その中に、人影が突っ込んでいった。健さんだった。
 足場は寸でのところで倒れなかった。健さんは手をはたき、そこに居たスタッフの顔を見ながら安堵の表情を浮かべた。
 撮影の見物に来ていた老人が呟いた。

「健さんは、ニッポンの顔じゃけんのう」

 私はこの言葉に心底、共鳴してしまったのだった。

 翌朝から現場に行く私の足取りも違っていた。
 一週間後には、関西、関東からの取材陣が撮影現場をぐるりと囲んだ。夜は、取材陣を接待するための蟹が大盤振る舞いされた。その一行の姿は翌日には消え、現場に残ったのは我々だけだった。
 取材が今日で終わり明日には現場を引き上げる時が来た。
 宣伝部の人から、「高倉さんがお茶をご一緒したいと仰っていますが、どうしますか」
 こんな有難い申し出を断る記者がいるものならお目に掛かりたい。
 撮影が終る夕方が待ち遠しかった。

 健さんとのお茶の時間はスタッフがミーティングに使っている広めの和室だった。
 健さんの現れるのは待ち侘びた我々の後ろ側の襖がすっと開いた。
 軽く会釈しながら入ってきた健さんの後ろには、橋の上で、我々を睨んだプロデューサーが居た。
「宜しければ、お酒もありますよ」
 という健さんが向けた視線の先にたくさんの酒の瓶が並んでいた。突然の言葉に躊躇う私に、「縁あった女性ひとも、お酒が好きでしたから」と言葉を重ねた。
 一瞬、スタッフの間に緊張感が走った。後から聞けば、健さんの前で酒を呑むのは降旗監督だけで、他の者は〝禁酒禁煙〟が徹底されていた。
 それなのに私は、「そうですか。では……」と言いながら、グラスにウイスキーを注いでいた。
 酒を呑むとか呑まないとかいうことよりも私の心にはある衝撃が走っていたのだった。

 私は物心ついた頃から江利チエミさんの大ファンだった。「テネシー・ワルツ」や「さのや」を口真似して楽しんでもいた。だから、健さんの言う「縁あった女性」というまさかの言葉に心が震え、ウイスキーを口にしたのだった。
 その日から健さんが語る〝愛する女性〟の話を心から待ち望んだ。
 話を聴けたのは、それから十数年経ったイタリア、トスカーナの取材旅行だった。

「その女性は別れてから十年、思いもかけずに亡くなりました。
 その訃報を聴いた時、自分の心の中にやり残したものがあると気づきました。
 あいつには決していい旦那ではなかった‥…」
 健さんを三十年余り取材した中での、チエミさんの話はこの一度だけだった。


>>(2)愛する母親との永訣

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