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特集

万里の長城を舞台に、従軍作家が日本軍の闇に挑む。浅田次郎作品初の戦場ミステリ。

撮影:ホンゴ ユウジ / 写真:編集部  構成:宮脇 眞子 

新鮮な驚きに満ちた、初の戦場ミステリー

── : 新刊『長く高い壁』の舞台は、一九三八(昭和十三)年、日中戦争下の中国は万里の長城。中国に進駐していた北支那方面軍の守備隊内で発生した、分隊員十名全員が謎の死を遂げるという大事件に、流行探偵小説作家・小柳逸馬こやなぎいつまが挑む、戦場ミステリーです。「従軍ペン部隊」の一員として北京に派遣されていた小柳をはじめ、個性豊かな軍人や兵士を絡ませながら物語が進み、一体誰が犯人なのか、最後の最後まで翻弄され続ける展開でした。

浅田: 僕にとって初めての本格的なミステリーでしたが、執筆中はこれまでの作品とは違った快感がありましたね。普通の小説では、自分の中によほどしっかりとテーマを定めておかなければ、小説全体が茫洋ぼうようとしてしまい、恰好かっこうがつかないものなんです。しかし、ミステリーの場合は「犯人捜し」という目的がはっきりしているので、とても新鮮な仕事でした。  今回の作品は、「小説 野性時代」で連載したものですが、今あらためて思うのは、ミステリーは連載が向いている、ということですね。頭から計画的に伏線を張っていくことができるでしょう。そして、伏線を一つずつ、「犯人捜し」というゴールに向かって片付けていって、最後は詰将棋のように犯人を追い詰める。さらに良いことには、書いている最中に肉付けする余裕まである。面白かったなぁ。連載というスタイルで本格的なミステリーに初挑戦できたのは幸運でした。

── : 事件の現場は満洲に接する万里の長城「張飛嶺ちょうひれい」です。海抜一千三百メートル、垂直の胸壁が行く手を阻む、天をつくような山頂の監視廠かんししょう。北支那方面軍の参謀長から突然、前線への出張要請を受けた小柳は、ここで凄絶せいぜつな光景を目にすることになります。「張飛嶺」の険しく厳しいたたずまいにも引き込まれました。

浅田:  僕はこれまで、長城のあちこちに、それこそ何十回も行ったことがあって、「万里の長城マニア」を自負しているのですが、その割には小説に使っていなかったんです。だから、K社には悪いなあとは思いましたが(笑)、今回は使わせてもらいました。 「張飛嶺」は架空の場所なのですが、モデルになった司馬台しばだい長城は、万里の長城のなかでも特に峻嶮しゅんけんで、人を寄せ付けない雰囲気を持っている。今回のようなミステリーには恰好の舞台でした。

時代を背負った男たちの物語

── : 当代随一の人気小説家である小柳は、探偵小説家ならではの視線で、大事件の謎を解き明かしてゆきます。その推理の鮮やかな手並みはもちろんですが、ひとりの人間として、小柳逸馬に魅力を感じました。

浅田: 小柳はいまでこそ人気作家だけれども、決して恵まれた道を歩んできた人物ではありません。本作だけでは文量的に、小柳の内面の奥深くにまでは踏み込めませんでしたが、次の機会があるかもしれませんから、このくらいにしておいたほうがいいかなと、今は思っています。いずれ少しずつ小柳の人物像が読者にも明らかになっていくかもしれませんね。

── : その小柳の相棒として事件を追いかけるのが、検閲官でもある川津かわづ中尉です。事件現場での二人は、いわばホームズとワトソンのような関係ですが、事件が起こる前は、まぎれもなく作家と検閲官。冒頭、小柳が書いた従軍記をめぐる小柳と川津とのやり取りは、大変興味深かったです。小柳は検閲に引っかからないよう、細心の注意を払って原稿を書いていましたが、思わぬところにあかが入る——。

浅田: いろいろと想像をめぐらして書いてみましたが、あれが検閲のリアルな姿だったのではないかな、と思います。今でこそ、軍が画一的に検閲をしていたと思っている人が多いかもしれませんが、実際はもう少し複雑です。  それに実は、出版差し止めの事例はそんなには多くないんですよ。なぜかと考えてみれば、すぐにわかります。出版社からすれば、本や雑誌を出版してから、それが発禁になってしまうと大きな損害を被ってしまうでしょう。だから、出版社のほうから軍にお伺いをたてるのが当時の検閲の姿だった。お上がすべてを統制していたわけではない。言論統制の実態は「究極の自粛」だったんです。  僕たちは、戦争や戦時中の生活をどうしても類型的にみてしまう傾向がありますが、十人の軍人がいれば十人の主観があるわけです。この小説でもそういう時代の実像を描ければと思いました。

── : 川津中尉は東京帝大卒の軍人で、実は小説家志望という変わり種ですね。

浅田: 川津中尉は、時代の犠牲者です。彼が帝大を出た昭和初期は、世界恐慌の煽りを受けて日本も経済状態が最悪だった時期です。『大学は出たけれど』という映画があったほどで、大卒者の二、三割しか就職できなかった。職業軍人にならざるをえなかった川津の事情や人間像は、その検閲ぶりから、小柳が的確に推理しています。彼が背負わなくてはならなかった時代を反映する、ある奥行きを持った人間として描けたのではないかと思っています。

語られない歴史を物語に織り込む

── : 事件解決のため北京から張飛嶺に派遣された小柳と川津を待ち構えていたのが、密雲みつうんの憲兵隊に所属する小田島おだじま曹長です。

浅田: 憲兵に対する戦後の見方は、悪い日本陸軍の中の最たる悪、たとえるならナチスの親衛隊のような歴史的な位置づけになってしまっていますが、きちんと調べれば、そうではないいろいろな面が見えてくる。きっと小田島みたいな男もいたんじゃないかと思いますよ。

── : 小田島は貧しい農家の生まれで、最終学歴は尋常小学校です。二等兵からの叩き上げで曹長にまで出世した、部下たちの憧れでもあります。小田島のように、能力がありながら貧しく、勉学の機会が得られない人にとっては、当時の軍隊は大きな選択肢の一つだったのでしょうね。

浅田: 憲兵に関する資料や回顧譚かいこたんもずいぶん読みましたが、当時の憲兵は、小田島のように自分の努力で昇級試験を突破して出世していくことができるシステムだったんです。試験問題には、軍法はもちろん、刑法や民法なども出た。要は六法全書を全部覚えなければならないようなものでしたが、軍隊の中でも給料が良くて出世が早いので、憲兵志望者は多かったようです。  実際、軍隊が教育を授けてくれる場所であったことは確かですよ。軍隊に行くとまず、上官たちは兵隊たちに、親へ手紙を書かせたそうです。「親が心配しているから」と。でも当時は、義務教育を終えていても、字の書けない人はざらにいたそうなんです。そんな兵隊たちには上官が読み書きを教えてくれたんです。  しかも、軍隊に入れば米の飯をたくさん食べることができるでしょう。食うや食わずの家が今よりも遥かに多かった大正・昭和のころには、ありがたいことだったと思いますよ。僕自身も自衛隊にいたときに、煮炊き、裁縫など生活に必要なことはすべて教えてもらいましたから。  軍隊は悪だというレッテルが貼られてしまってから、語られなくなったことというのは多いですよ。

── : 小柳と川津、小田島は、事件の真相究明のため、守備隊の関係者に順々に事情聴取をします。驚いたのは、出自を異にする人々の寄せ集めが当時の軍隊の姿だった、ということです。

浅田:今の自衛隊と同じで、当時の軍隊も常備軍は二十万人くらいでした。昔は徴兵制があったから、いざ戦争となると赤紙一枚で予備役よびえきの兵隊を集めて速成の軍隊を作ることができた。だから、今回登場する兵隊たちにもそれぞれ全く違う職業を与えてみました。地方役場の職員から銀行員、前科者までいます。
 当時の時代背景や考証に関しては、若い学者の方々の研究成果に大いに助けられました。
 前の世代の先生方は戦争体験者ですから、自己を批判したり、許容したりすることから逃れられないところがあるんです。それが、今の世代になると、客観性を持った実に素晴らしい研究をされています。今回の小説では、連載開始に先立って対談させていただいた(「小説 野性時代」一六年九月号)大妻女子大学の五味渕典嗣ごみぶちのりつぐさんの論文が、小柳のキャラクター設定に大いに影響を与えています。
「従軍ペン部隊」に参加するに際して実は、作家たちは七百円という支度金をもらっていたんです。今の貨幣価値に換算すると二百万円くらいでしょうか。しかも経費も原稿料も給料も全部出る。当時、本当にたくさんの作家が従軍作家として海を渡ったのですが、従軍作家への見方が大きく変わりましたよ。もちろん、もし僕のところにこんな話がきていたら、喜んで行っていたと思います(笑)。そのくらい恵まれた待遇だった。
 他にも、勤めている会社によって、応召された際の待遇が大きく異なっていた、という面白い研究もありました。これも小説に書きましたが、小田島の上官である山村やまむら大尉の応召されるまでの仕事は銀行員なんですが、彼には軍隊の手当とは別に、銀行の給料も出るんです。つまり給料の二重取り! 体力のない会社だったらそれはない。『終わらざる夏』での召集された片岡直哉かたおかなおやは軍隊の手当だけですから。かわいそうに。だから、就職先を決めるときに、召集された際の待遇が一番有利な企業を選択する、なんてことは当然あったはずです。
 こういう話は後世にはなかなか伝わっていませんよね。歴史のなかに埋もれてしまう一番もったいないものというのは、実はこういう類の話だと思いますよ。

事件の謎を解くカギ

── : 物語の最後、北京を離れる小柳と川津を、小田島が追いかけてきます。鴇色ときに染まった北京駅が美しく、印象的な場面でしたが、果たして小田島は、事件の真相をどこまで察していたんでしょうか。

浅田: そこがこの小説のカギになるところでしょうね。声だけしか出てきませんが、北京に駐在している憲兵隊長はこの事件の何を知っていて、小田島とはどんなやり取りをしていたのか。そして最後の最後、犯人に対して誰が、どうして、あのような計らいをしたのか——。読者の皆さんに考えてもらいましょう。小柳、川津、小田島の三人も「なんだ、そういうことだったのか」と思うかもしれないね。  それにしても、小田島みたいな男っているよなあ。最初は嫌なやつかと思っていたけれど、付き合ってみると案外いい男だとわかる。  もしこの小説に続きがあるとしたら、もう一度、小田島は出てくるかもしれないね。小柳が「やあ、小田島さん!」って(笑)。

── : 小柳と川津の名コンビの今後も気になります。

浅田: 軍からの計らいで川津はしばらく休暇をもらうことになり、小柳が彼を雲仙に誘ったようだから……。もし機会があったら、次は雲仙うんぜんで皆さんにお会いしましょうか。


浅田 次郎(あさだ・じろう)
1951年東京都生まれ。95年『地下鉄メトロに乗って』で吉川英治文学新人賞、97年『鉄道屋ぽっぽや』で直木賞、2000年『壬生義士伝みぶぎしでん』で柴田錬太郎賞、06年『おはら召しませ』で中央公論文芸賞、司馬遼太郎賞、08年『中原ちゅうげんの虹』で吉川英治文学賞、10年『終わらざる夏』で毎日出版文化賞、16年『帰郷』で大佛次郎賞など、数々の賞を受賞している。


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