昨年急逝した国民的落語家・桂歌丸師匠。本書『よたんぼう』の著者、桂歌蔵氏は、その弟子として、歌丸師匠のいちばん近くで、二十数年間の時を過ごした。尊敬と反発。濃すぎる人間関係ともつれあう感情。師匠と弟子との、一筋縄ではいかないありようは、やがて、人生の迷子たちの道しるべともなる一編の物語に昇華した。処女作を書き上げたばかりの歌蔵氏に話を聞いた。
── : 現役の落語家である桂歌蔵さんによる、初めての小説『よたんぼう』の舞台は、古いしきたりが残る噺家の世界。主人公の少年は、内弟子の前座となり、さまざまな葛藤や反発をへながらも、俺には落語がある――その一心で、不器用に、体当たりで、生の手応えをつかんでいきます。
桂: 与太郎は聞き慣れた言葉ですが、よたんぼうは、江戸言葉で酔いたんぼう、酔っぱらい、みたいな意味なんですね。噺家はひとりひとり、相当屈折しているんですけど、自分としても、異端の自覚があります。組織がいやでしょうがないのに、なぜかこんな徒弟制度の厳しいところに入っちゃった(笑)。
── : 寡黙で厳格な師匠、憎まれ口をききながらも助けてくれる兄弟子、気障な後輩、不良の先輩、陰ながら見守ってくれている旦那衆など、一癖もふた癖もある人物たちと巡り会い、主人公は衝突や和解を繰り返します。
桂: 具体的にだれがモデル、というような特定の人はいない代わりに、この世界に入って出会ったいろんな人が全部出ている気がします。私自身、歌丸師匠に、おまえはクビだ、ってもう30回くらい破門されたのかな……。師匠からしたら、こいつはなんで俺の言うことをきかないんだ、って思うんだろうけれども、弟子だって、なんて理不尽なひどいことをしやがる、もうやめてやる、って思うもんです。実際にそうやって、師匠をしくじってやめてしまう人はいっぱいいる。でも、本来、うまくいかないのが当たり前なんです。赤の他人同士が、まさに肉親以上の関係になろうとするんだから、ゆがみも生じる。ただ、それを書くことには、内心ですごく葛藤がありました。蓋をして思い出さないようにしていた傷口に塩をすりこむみたいなもので、できることなら書きたくない。それをひとまず消去しないと生きていけなかった自分の弱さに、どうしても跳ね返ってくるから。でも、読み手としてはそこが知りたいところなんだというのは、今回書いてみてよくわかりました。
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── : 実際、主人公も師匠に破門を言い渡され、流れ流れて、どん底まで堕ちていきますね。
桂: 普通は気が狂いますよね(笑)。今回、主人公の設定は、自分自身の年齢より、10歳くらい若くしているんです。というのも、もし自分がこの環境に置かれて、あと10歳若かったら、周りのありがたみも何もわからなくて、実際投げ出してしまったかもしれないな、と。落語に限らず、誰にでも思い当たると思うんですよね。家庭や職場で親や上司とぶつかって、やってられないなと思ったりする経験は。けど、絶望しても、それで人生は終わりじゃないし、巡り巡って、まぁ生きてればなんとかなるよ、ということは書きたかった。 そもそも、私の場合、どうしても落語、というふうに思い定めてこの世界に入ったのではなく、言ってみれば若気の至り。ボクシングや格闘技、パンクロックもお笑いも小説も映画も好きで、落語はそのうちの一つでしかなかった。ただ小さい頃からずっと継続してきた好きなジャンルではありました。25歳のときに初めての海外でイギリスに渡って、その体験があまりにも強烈だったので、どうにかしてこれを語りたいな、と。どうやったらいいのかアウトプットのかたちを試行錯誤するなかで、ひらめいたのが落語だった。幼少時からずっと身近にあったものが突如輝きだした。けど、時代が時代だったら、コミュニティラジオのディスクジョッキーかなんかをやっていたかもしれない。ただ若くて向こう見ずで、馬鹿だったんです。運だけがよかった。
── : そんな奇遇ともいえる巡り会いで、桂歌丸師匠に弟子入りすることになったわけですね。
桂: あの当時は、まだ個人情報なんかもユルくて、『芸能手帳』かなんかに、噺家の住所と電話番号も載っていたから、師匠の落語を聴いたこともなかったのに、試しに電話をかけたら、「じゃあ今からおいで」って。考えてみれば、すごい話ですよね。前座時代は、ほぼ内弟子状態で大変厳しかったんですが、二ツ目から真打ちにかけては、弟子として好き放題やらせてもらえた。これは本当にありがたかったんですが、師匠への反発心もありました。私がインドや東南アジアや中央アジア、南北アメリカやアフリカにロシアと、海外に積極的に出ているのは、師匠に海外公演に連れていってもらえなかったからなんです。自分で切り開いていくしかなかった。けど師匠がいる限り、弟子はその壁を絶対越えられない、とも感じていた。もしかしたら、今回、このような小説を書く機会をいただいたのも、昨年師匠が逝去し、あの強烈な圧がなくなったからかな、と考えることがあります。それでも、やっぱり、初めて書いた小説を師匠に読んでもらえなかったことは心残りですね。本を読むのがとても好きな師匠だったんで……けど読んだらなんて言うだろうな。放り投げて捨てられるかもしれないですけど(笑)。
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── : 主人公が、師匠から、「落語ってえのは風に書いた言葉、何も残らないというが、おれたち自身も水みたいなもんだ。入る器によってかたちが変わっちまうんだ、わかるだろ」と言われる台詞が印象的でした。
桂: 落語の語りは、あくまでライヴ、生ものです。そのときそのときを大事にしなきゃいけないものなんで、日頃の修練がすごく必要。それに、古典落語は、いわばクラシック音楽の演奏みたいなものだと思うんです。これだけ長いあいだ残っているっていうのは、演奏(話法)がどうこうの前に、そもそもの噺自体が強いんですよ。物語の骨格、会話のやりとりが、口伝されていくあいだに、どんどん洗練されていく。だから、私は高座でやる新作落語にはあまり魅力を感じない。古典落語には、とてもかなわないな、と。でも一方で、自己表現をしたくて落語を始めたという思いもあるので、落語という器に入りきらない、はみ出してしまうものを、小説という形で表現したいんです。物語を自分で作るなら、新作落語じゃなくて小説に挑みたい、そんな天邪鬼なところがあって(笑)。それに、古典落語の、起承転結だったり、喜怒哀楽が噺を通して身体に入っているというのは小説を書くうえでの武器になりうる。舞台になっている江戸のシチュエーションを現代に翻案して執筆することも可能ですし、落語は決して昔話ではなく、今に置き換えても通じる人間の気持ちを表していると思います。江戸時代から人間の営みって、実はあまり変わってない。
── : 制約に縛られた先にこそ、大きな自由と快楽がある。楽屋裏を覗き見るような楽しみはありつつも、ある限定的な世界の物語ではなく、普遍的な青春小説に仕上がっているのは、その骨太さがあるからですね。そしてラスト、高座の観客もろとも、物語を力業でぶっちぎっていってしまうラストには、度肝を抜かれました。
桂: 執筆は本当に大変でしたけど、暗い洞窟のなかでやみくもに書き続け、投稿を続けてきた者としては、何度書き直しを食らっても、小説を書く喜びをかみしめた幸せな時間でした。落語という世界には、自分の身の置き所をつくってもらったんで、少しでも恩返しして、こんな噺家もいるんだと知っていただけたらありがたいです。 >>桂歌蔵『よたんぼう』
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