今年十月、『角川新字源 改訂新版』が実に二十三年ぶりの大改訂を経て刊行されます。
漢和辞典のスタンダードは、どのように生まれ変わったのでしょうか。
漢字研究のトップランナーとして改訂新版の編纂を手がけた阿辻哲次さん、釜谷武志さん、木津祐子さんにお話を伺いました。
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漢和辞典の最高峰が四半世紀ぶりの改訂

——『角川新字源』は、一九六八年に創刊され、累計五七〇万部を売り上げた日本で最も売れている漢和辞典ですね。

阿辻:漢字の研究というのは、大別すると、形・音・義に分けられます。すなわち漢字の形、読み方、意味ですね。それを、小川環樹先生、西田太一郎先生、赤塚忠先生という、当時の第一人者が編者として手がけられたのが『角川新字源』でした。漢和辞典の最高峰と言っても過言ではありません。

——今回、二十三年ぶりとなる改訂が行われました。約十年間の大事業ですが、どのような作業をされたのでしょうか。

阿辻:オリジナルの『新字源』は非常に質の高いものです。漢文研究においては、考古学などとちがって、木簡などといった古代文字の新資料が大量に発見されるということはまずない。今回も全面的な書き換えというより、現代に合わせたアップデートがほとんどです。担当分野で言えば、私は形・音・義でいうところの「形」、漢字そのものの形や成り立ちを担当しました。

釜谷:私は「義」、つまり漢字の意味の部分を担当しました。辞書を引く人が主に知りたいのは意味でしょうから、もっとも注目される部分と言ってもよいですね。身の引き締まる思いで仕事をしました。

木津:残った「音」が私の担当です。漢字はもちろん中国でできた文字ですが、日本で使うからには日本語特有の読みがあります。新しい日本漢字音研究の成果をなるべく取り入れようと努力しました。
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阿辻:今回、もっとも書き換えが多かったのは「音」に関連する部分ですね。

木津:読み方の研究は、当時の音声が現代に残っていないため、文献に頼るしかありません。中国で漢字の読み方を示す場合、語頭子音、母音+韻尾をそれぞれ別の漢字で表す「反切」法によります。しかし、この発音記号の役割を持つ漢字の選択は時代や字書によって異なるので、或る反切で示される音と意味を、日本の漢字音に結びつけるのは至難の業です。今回は新しい研究成果を可能な限り反映しました。
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阿辻:この点は、改訂前の『新字源』を使ってこられた方が疑問を持つことも多いでしょうね。学問の進歩が反映されていると思っていただきたいです。

——「音」の記載が変化すると、それ以外の部分にも影響があるのでしょうか。

釜谷:読み方が違うということは、必然的に使用される際のニュアンスも変わってきます。木津さんの担当部分に変更があれば、それに合わせて意味の項目を増やしたり、分け直したりと手を入れました。改訂を始めても研究は日々進みますから、何度も書き換える部分もありましたね。

阿辻:釜谷さんの担当範囲では、巻末付録だった助字解説を本文中に取り入れるという工夫をされています。

釜谷:『新字源』の助字解説は非常に優れた遺産で、それ自体を大切に使ってくださっている読者も多いので、手を入れるかは迷いました。しかし、辞書で調べる人としてはすぐに意味を知りたいのですから、親字の欄に助字の意味も加え、一読して分かるように工夫しました。使う人に寄り添った辞典になっていればいいと思います。

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※名詞・動詞・形容詞など実質的な意味内容のある語を実字というのに対し、主として前置詞・副詞・接続詞・句末詞・否定詞・疑問詞など実字を助けて文章の意味の関係を表す語をいう。虚字・虚辞ということもある。(『角川新字源改訂新版』より)

IT社会で漢和辞典を手元に置く意義

——「音」の書き換え以外は、ほとんどが現代に合わせたアップデートとのことですが、何が大きく変わったのでしょう。

阿辻:もっとも重要な変更の一つは、JIS規格への対応です。日本工業規格として定められた文字コードなのですが、従来の『新字源』には収録されていない字種や字形が数多く含まれています。コンピュータで使える文字の範囲がかつての辞書とは違っていたのですね。その整合性をとったのは、現代のニーズに合わせた大きな更新です。

——コンピュータが普及したいま、文字を手書きする機会は激減しています。現代において、漢和辞典を手元に置く意義はどのあたりにあるのでしょうか。

阿辻:たしかに、かつては一般教養であった漢文が義務教育でほとんど扱われなくなり、「論語」や「春秋三伝」を理解するために使うというような機会は減っています。しかし、見方を変えれば、こんなにも漢字を使った文章を個人が書いている時代は、他に類を見ないのですね。現代の情報機器で漢字を使うとき、羅針盤として漢和辞典を使用するというのは、非常に有意義だと思います。

——情報機器の発達によって漢字の使い方が変わることはありますか。

阿辻:たとえば、二〇一〇年の常用漢字改定に際して、「鬱」という字を入れるかということでかなり議論になりました。手書きばかりの時代であれば、複雑な字を常用する習慣は生まれにくかったのですが、いまはパソコンやスマートフォンですぐに変換できますからね。「うつ」や「ウツ」と表記するよりも、漢字の方がわかりやすければ使用する方がよい。同様に、「彙」という字も俎上に載せられましたが、「語い」と書くより「語彙」と書く方がよほどわかりやすいですね。手で書けない文字は常用漢字にしてはならないなどという決まりはありませんから、読んで即座に意味が分かる書き方をするのがよいと思います。

——漢文が身近な存在でなくなっても、漢字はむしろ便利なツールとして使用されているということですね。

阿辻:言葉は日常の中に根付いている訳ですからね。「矛盾」や「五十歩百歩」といった漢文から来た言葉は、いまも生きています。一家に一冊『新字源』があれば、漢字の正しい意味を知って、自分の意図をより正確に、より早く伝えられます。

木津:漢字の意味を知ることは、広い意味でコミュニケーションの齟齬を防ぐことにも繋がると思います。たとえば、「障害」という言葉は、もともと「障碍」と表記されていたものが「碍」が表外字となったために「障害」と表記されたという歴史があります。ただ、「害」に悪いイメージがあるということで、「障碍」に表記を戻そう、しかし依然表外字なので「障がい」と記されることが増えるという、二転三転の歴史をたどっています。しかし、「害」を『新字源』で引いてみれば、「非常に大事な土地」「交通の要所」など、ポジティブな意味があり、「碍」こそ「妨げ」という意味しか持っていません。人を傷つけないように配慮するのであれば、漠然とした印象だけでなく、文字の成り立ちや正しい使い方を知ることが重要ではないでしょうか。

これからの『新字源』

——今回は四半世紀ぶりの改訂ということでしたが、今後、『新字源』に必要とされる変化はありますか。

阿辻:デジタルメディアに対応すれば、また使い方が変わってくるとは思いますね。現状でも、ウェブ上で漢字の使い方を検索できるデータベースはありますが、成り立ちや元来の読み方、詳細な意味を網羅しているものはありません。紙媒体から電子媒体にも広がるとよいですね。

釜谷:リンクを張れば、助字などの詳しい解説を手軽に調べられるようになります。

阿辻:最近ではコミックなどのサブカルチャーを通して日本での漢字の使われ方が中国語に影響している例も見られます。かつては「遺憾」と表記していた感情を、日本語と全く同じ意味で「残念」と書く中国の若者が多いですね。漢和辞典は、中国から入ってきた漢字を理解するためのツールでしたが、言語が国境をこえて影響を及ぼし合い、より混沌としていく前に、ひとつの指標となる辞典を刊行できてよかったです。

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——最後に、どんな方に『新字源』を使ってほしいか、お聞かせください。

釜谷:辞書は、学習レベルに応じて買い換えていくものですが、『新字源』はコンパクトでありながら内容は一級品です。ぜひ一生ものの辞書を持つつもりで、学生時代から使ってほしいですね。

木津:私自身、高校生の頃から『新字源』に親しみ、大学でも周りの人たちが使用しているのを見てきました。「この辞書は頼れる辞書なのだ」と、ここまで指針にしてきたものをさらに磨きましたから、みなさんに信頼して使っていただきたいです。

阿辻:広く日本語と漢字に興味がある方は、学生さんであっても、会社員であっても、どなたでも『新字源』をお使いください。豊かな果実を手に入れられると思います。

 
 
【 あつじ・てつじ 】
1951年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。専門は中国文化史、中国文字学。現在は京都大学名誉教授、(公財)日本漢字能力検定協会漢字文化研究所所長。第22期国語審議会委員、また文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として、常用漢字表の改定に携わる。『戦後日本漢字史』(新潮選書)、『漢字道楽』(講談社学術文庫)、『漢字のはなし』(岩波ジュニア新書)など著書多数。
【 かまたに・たけし 】
1953年奈良県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程中退。専門は中国文学(唐代以前の詩文)。富山大学助教授などを経て、現在は神戸大学大学院教授をつとめる。著書に『書物誕生陶淵明—〈距離〉の発見』(岩波書店)、『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 陶淵明』(角川ソフィア文庫)、『六朝詩選俗訓』(共著、平凡社)など。
【 きづ・ゆうこ 】
1961年京都府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程中退、2012年博士(文学)。専門は中国語学。琉球・長崎唐通事研究、近代中国語文法をテーマとする。同志社女子大学助教授などを経て、現在は京都大学大学院教授。著書に『京都大学文学研究科蔵 琉球写本《人中畫》四巻付《白姓》』、『朱子語類訳注・読書法上下』(汲古書院)

 

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書籍

『角川新字源 改訂新版』

小川環樹 、西田太一郎、赤塚忠、阿辻哲次、釜谷武志、木津祐子

定価 3240円(本体3000円+税)

発売日:2017年10月30日

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    書籍

    「本の旅人2017年11月号」

    角川書店編集部

    定価 100円(本体93円+税)

    発売日:2017年10月27日

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